幸せは薔薇に溶ける

「あ゛〜〜力が抜ける」

 サボの気だるそうな声がこだまする。天井に顔を向けて先ほどから気の抜けた声ばかり出しては、「くそー」とか「能力者ってのは面倒だ」とかぶつぶつ言っていた。その言葉に何もできないフレイヤは、「大丈夫?」と心配しながら様子を見つめる。
 風呂場の熱気に混じってバラの香りが漂う浴槽で、フレイヤは彼と向き合っていた。赤、ピンク、白、黄色。水面に浮く生花のバラは、心身ともにリラックスさせてくれたり、多幸感を与えてくれる。少し広めの浴槽だから見栄えもいい。そんないつもと違う特別な空間の中に、湿気のせいで金髪をしならせ項垂れている身長187センチの青年――サボが浴槽の縁に腕を預けて先ほどからこの調子で力が出ないと嘆いていた。

「や、やっぱりもう出る……?」

 向かいにいるサボに近づいておそるおそる問いかける。湯船につかる前の元気さはもう微塵も感じられないほど力が抜けている彼の目がだるそうに開かれ、フレイヤを見据えると口元を緩めた。

「いいよ。楽しそうにするお前を見てるから」
「でも……」

 そうは言うけど、どう見てもそんな余裕があるようには見えない。今にもこのままお湯の中に沈んで溶けてしまうのではないかと心配になるくらいには、サボの様子は不憫だった。
 悪魔の実の能力者が水に弱いということは、フレイヤも知っている事実だ。強靭な力や不思議な能力を手に入れる代わりに、泳げない体になるのだという。一般人には想像もつかないことだが、海はもちろんこうして湯船につかっても本来の力を発揮できないらしい。けれど、へなへなしている様は普段のサボからかけ離れていてかわいく見えるからちょっと心が躍る。

「気ィ遣うなって。いいんだよ」

 サボは力なく笑ってから浴槽に背中を預けてぐったりした。リラックスしているというよりは、不可抗力なのでこの状態で疲れがとれるのかは疑わしい。気を遣うなと言われても気にしてしまうに決まっている。
 湯船に広がるバラの花たちは、サボがホワイトデーの御礼にプレゼントしてくれたものだ。コアラとともに選んだようで、想像したらちょっと面白くて笑ってしまうが、真剣に"フレイヤが喜ぶもの"を見つけてきてくれたと思うと胸がじんわり温かくなる。サボのそういう優しいところが好きだ。

「……あの、サボ」
「ん〜?」
「そっち、いっていい?」
「ん〜…………わっ」

 浴槽の向かい――サボが寄りかかっているほうへフレイヤは飛び込んだ。彼の胸に背中を預けて湯船につかることはあるが、こうして向かい合ったまま近距離になるのは初めてだった。湿気を含んだ髪に触れて、少し撫でつけるように往復してみる。ぼうっとした双眸と目が合っても彼の反応は鈍い。やっぱりお湯の影響が大きいらしい。

「ほんとに大丈夫?」
「……なんだよフレイヤ。大胆だな」
「え……あ、うん……でも、元気のないサボが珍しくて」

 大胆と言われて急に羞恥が込み上げてきたフレイヤは、若干の距離を取ってからもう一度サボに触れる。目尻が下がって、力が入らずにふにゃふにゃしている彼は本当に珍しい。一般人の感覚からすると、悪魔の実の能力者というのは不便だなと思ってしまう。
 と、サボの側頭部に何かがくっついているのが目に入る。よく見ると、同系色の黄色い花びらが一枚。何かの拍子でくっついてしまったらしく、見事に彼の髪に馴染んでいてはじめからそういう装飾でもしていたのかと思うほどだった。取ってそのまま湯船に浮かせることもできたが、なんとなくいたずら心が働いて、取った花びらをサボの頬にくっつける。一枚やってしまうと、二枚三枚と続けたくなるのが人の性。フレイヤは近くに浮いている花びらを取って、彼の鼻先や額を色とりどりのそれで埋めていく。

「……何してんだ」
 と気づいたサボの声に少し棘が混じる。相変わらず力は出ないのでされるがままだったが、自分が何かされていることには気づいているらしい。彼の顔は今や女性が保湿のためによくやる顔パック状態に似ていた。
「バラって美容効果あるでしょ? 直接肌につけたらさらに効果が増すかなって思って」
「おれで遊ぶなよ」

 口を尖らせて、面白くなさそうな顔をする。確かにこういういたずらをするのはいつもサボのほうだということに気づいて、フレイヤはちょっと可笑しくなった。しかしバラにリラックス効果があるというのは事実だし、日々の仕事で疲れている彼にはストレスも多いはずだ。自分にくれたプレゼントとはいえ、どうせなら彼にも思いきり癒されてほしい。

「ごめん。でもせっかくならサボにも癒されてほしいから」

 力が出ないのをいいことに、フレイヤはサボの顔で遊ぶ。面白くなってきた。「お前なーおれが手ェ出せねェからってやりすぎだぞ」「見て。かわいい〜」「見えるか」整った顔が花びらで彩られていく様を楽しむ。
 しばらく夢中になって遊んでいると、サボが大人しくなってじっとフレイヤを見ていることに気づいて手を止めた。もしかしてはしゃぎすぎて呆れちゃったかなと焦って花びらを落とす。刹那、彼の口元が緩んでふっと笑った。

「バラ風呂、気に入ったか?」
「え……うん。良い香りだし、見た目もかわいいし、何よりサボと一緒だと癒し効果が倍増する」
「……そういうかわいいことを言われても、これじゃ何もできねェ」

 サボが悔しそうに唸る。呆れているというのはどうやら思い過ごしだったようだ。年甲斐もなくはしゃいでしまったが、彼がわざわざ用意してくれたプレゼントということもあって嬉しさが増すのはどうしたって仕方ない。入浴前は一緒に入ることに抵抗があったのに、もうどうでもよくなっていることに気づいて自分でもおかしくなった。恥ずかしさよりも、安心感のほうが大きい。彼の近くは心が落ち着いて穏やかな気持ちになれる。

「ふふ。今日は私がサボを甘やかしたいな」
「おれはガキか」
「拗ねないで。頭洗ってあげるよ」と水蒸気で湿ったサボの髪をわしゃわしゃ撫でる。
「……ありがとな」

 だるそうに右手を動かして、そのままフレイヤの頬をひと撫でした。しかしすぐさまだらんと浴槽の縁に引っかけると「あ゛〜」とうねり声を上げて、また余裕のないサボに戻っていく。その光景にクスッと笑みを浮かべる。
 湯船に浮かぶ花びらを掬って目いっぱい香りを吸い込んだ。バラの香りは確かにリラックス効果があり、ストレスを軽減させるが、きっとその中にはサボの思いやりや愛情といった目に見えないものも隠れていて、そうした気持ちが身も心も幸せにしてくれるのだと思った。

2023/07/02
10周年リクエスト2 バラ風呂でいちゃいちゃ