夜を越えてはやく会いにいくよ(2)

「そうですか。情報誌を見て遠くからわざわざありがとうございます。あれ、ちょっと恥ずかしいんですけどね」

 照れくさそうにはにかんで口元を押さえた彼女――フレイヤは、サボたちの前にカップを置くと観光客への対応に慣れているのかいろいろな話を聞かせてくれた。遺跡を見るなら町を左回りに巡るといいとか、おすすめのレストラン、お土産屋、景色のいい場所。聞いていない情報まで懇切丁寧に教えてくれる。
 しかしサボの耳には何一つ入ってこなかった。フレイヤのすぐそばに置かれているクーファンの中の赤ん坊の存在が気になって仕方ないからだ。話をしながら時おり彼女が赤ん坊の様子を見て微笑むので、サボの眉間にシワがまた一つ刻まれる。
 詳しい話を聞くことはできていないが、この光景を見れば一目瞭然だろう。結論から言えば、フレイヤはどうやら新しい家庭を築いているだけでなく、子宝にも恵まれていた。まだ小さいので生まれてから数か月しか経っていないように思う。恋人がいるどころか、結婚して子どもまでいるとは。その相手はこの場にいないらしいが、いたらいたで嫉妬心を抑えられそうにないので結果的によかった。
 サボはこの島に来たことをすでに後悔しはじめていた。会って本当のことを伝えるだけ、なんて少し前までそんな悠長なことを言っていた自分が滑稽に思えてならない。心のどこかで期待していたのだ。彼女が、自分を待ってくれている、あの日誓い合った約束を忘れずに想ってくれていると。
 しかしそんな淡い想いも虚しく砕かれた今、胸が締めつけられてどうにかなりそうだった。

「ここに来る前、あなたをよく知る夫婦から聞いたんだけど、ゴア王国から来たんでしょう? どうしてこの島に?」

 先ほどから無言を貫く自分を見かねたコアラが話を広げてくれる。フレイヤがこちらの様子に気づいている様子はなく、コアラの質問に少し恥ずかしそうにしながら口を開いた。

「あまり自分の話はしないんですが、でも観光客の方になら……」

 と、クーファンから赤ん坊を抱き上げて向かいの空いた椅子に腰を下ろしたフレイヤは昔話をはじめた。サボが知らなかった十二年の日々を訥々と。



 ひとりの少女は、大切な少年との突然の別れに嘆き悲しみ途方に暮れた。五年ぶりにようやく手紙をもらい、いつか海で会おう、そしてそのときは結婚しよう。そんなふうに言ってもらえて、十歳の少女は胸をときめかせ、この苦しい貴族生活も彼との約束があれば乗り越えられる。そう思っていた。なのに――
 手紙の主はもうこの世界のどこにもいない。彼の兄弟だという少年にそう告げられた。悲しかった。どうして置いていったんだと糾弾したかった。事情があったのはわかるけれど、幼かった少女は連れて行ってもらえなかったことが辛くて、最初は泣いてばかりだった。
 しかし、少年の死を境にひとつ決心をする。それは家を出て自由になること。両親に決められた道を生きるのではなく、自身で選択し、やりたいことをする。彼が海を出たように、自分もいつか海へ出て広い世界を見たい。そうした強い想いが、少女の中から溢れた。
 こうして少女は家を捨て、彼の手紙の中に書かれた兄弟のいる場所へやってきた。少女が、はじめて自分の意思でつかみ取った"自由"だった。
 やがて月日は流れ、ひとりで海へ出るときが来る。一足先に旅立った少年、あと一年待つことになる少年――二人の幼なじみに負けないように、そして星になった少年に恥ずかしくない生き方をするために。

 女が目指した場所は、小さい頃本で見たセント・ヴィーナス島という美しい島。ここで自分の店を開きたい。そんな夢を抱き、船を渡り次いで、ゴア王国の元貴族の女は青と白の島へやって来た。
 最初こそ地元の人々の厳しい声もあったが、毎日必死に料理の研究をして今では港町随一のカフェに成長する。
 こうして女は島で人間関係を築き、カフェの店主として仕事も軌道に乗った生活を送っていた。
 今の生活に不満は何一つないが、人生に悔いが残るとしたら幼少期に将来を誓った少年と添い遂げられないこと。立ち直ってから思い出すことは滅多にないというのに、海賊をやっている幼なじみの仲間に最近会ったり、常連客から自身の恋愛について聞かれたり――女の脳内はふとしたことで簡単に"彼"を思い描いてしまう。
 国を出て、自由な生活をできていることに幸せを感じている一方で、寂しくなることもある。それでも、前を向いて生きていけない。"彼"のためにも。




 ひとつの物語を紡ぐように、優しい口調でフレイヤは語ってくれた。偶然にも客は自分たちしかいないので、店内に彼女の声だけが響く。午後の陽光が窓から差し込み、優しく温かな時間だった。ただひとつ、遠くを見つめて時おり涙ぐみながら話す彼女だけが物悲しく映り、その姿に胸が張り裂けそうになる。

「確認するけど、今でもその少年のことが好きなの?」

 コアラは間を置かずに、話を終えたフレイヤに質問した。"その少年"である自分は一切口をはさむことができずにいることをもどかしく思いつつ、しかしいま口を開けばいろいろなものが溢れそうでできそうにもなかった。
 赤ん坊をあやしている彼女の手がぴたりと止まり、視線がこちらに向く。どう答えようか迷っているように見えたが、なぜか彼女は頬染めて「やっぱり未練がましいですよね」と言った。その反応にはサボもコアラも目を見開いた。一体どういうことだろう。"前を向く"というのは、新しいパートナーとともに生きていくということではないのか。

「世話焼きな人が多いから言われるんです。恋人を作ったらどうかとか、結婚しないのかとか。私だって最初は新しい恋をはじめようと思ったんですけど、まったくできなくて……私の心にはずっと"彼"がいて、忘れられないんです。それで、自分に新しい恋をする意思がないことに気づいてからは無理に相手を作ろうとは思わなくなりました」

 悲しい顔をしているかと思えば、今度は晴れやかな表情でフレイヤが言うのでサボは首を傾げた。
 本当にどういうことだろう。サボの胸中はまったく穏やかじゃなかった。彼女の言ったことが正しければ、恋人はいないし、結婚もしていないことになる。ならば、彼女の腕の中でスヤスヤ眠る赤ん坊の存在は――まさか未亡人なのか? いや、本当にそうならさっきの話の中に出てくるはずだ。
 訳が分からなかった。
 赤ん坊を見た瞬間、奪おうとか連れて帰ろうとかそうした勝手な考えはどこかに消えてなくなってしまった。彼女を悲しませた男が今さら現れてこの生活を壊そうとするなんて自分勝手で烏滸がましい。そう思ったから。けれど、これじゃあまるで――

「なァ、今の話だと――」
フレイヤちゃんいる〜? ごめんね、つい話が盛り上がってこんな時間になっちゃった……って、お客さん?」

 サボがようやく会話に参加しようとした矢先、ドアベルが鳴ったかと思うと三十代くらいの女性が慌てて入って来た。両手に買い物袋を抱えており、何やらフレイヤに用事があるらしい。サボとコアラの存在に気づくと軽い会釈をしてくれたのでこちらも同じように返す。

「ご友人とのお茶はもう終わったんですか? カナリアちゃん、さっき大きな音で泣いてしまったんですけど、今は静かに寝てます」
「大丈夫だいじょうぶ、もう解散したから。でもどうしようかしら、両手が塞がってるからカナリアを連れて帰るのは難しいわね……旦那は帰ってくるまでまだ時間かかるし」
「なら私が、」
「いや、おれ達が手伝うよ」

 フレイヤが言う終わるより早く、そう言っていた。


*


 女性の頼みをフレイヤの代わりに受けて、サボたちは荷物運びを手伝った。
 赤ん坊――カナリアという女の子はどうやらこの人の娘だったようだ。なんでも、久しぶりに会う友人と食事をすることになったが、まだ生後三か月なので連れて行くことが難しく、かといって夫は仕事なので頼めない。そこで白羽の矢が立ったのが近所に住むフレイヤだそうだ。今日はちょうど食材の調達で店を休む予定だったので都合が良かったという。

「悪い、休みだったのか」
「いいんです。観光客は大事にしなさいって町長さんに言われてるので」

 フレイヤは朗らかな笑みをこぼすと、エプロンをつけてカウンターに向かう。
 女性を送り届けて再び<グランツ・カヴァナ>へ戻ったサボは「お礼に食事でも」というフレイヤの言葉を受けて先ほど同じテーブル席に腰かけていた。コアラは気をきかせてくれたのか、町を探検してくると言って別れたので店内には自分と彼女の二人だけになる。話をするには今しかなかった。

「話を蒸し返すようで悪ィが、もう一度確認させてくれ」
「……?」
「お前は結婚してなければ、恋人もいねェんだな?」

 サボは真剣な口調でフレイヤに言うと、ゆっくり立ち上がってカウンターに近づいていく。彼女はどうしてそんなことを確認されるのかまるでわかっていない不思議な表情できょとんとしていた。無理もない。初対面の男がこんなことを根掘り葉掘り聞くなど、口説きにいってるようなものだ。間違ってはいないから否定はしないが、彼女は見知らぬ男と二人きりだというのに無防備に見えて仕方なかった。ぼうっとこちらを見つめて首を傾げているので、今度は名前をしっかり呼ぶ。

フレイヤ。お前は独り身、なんだな?」
「……っ、あ、はい」

 気づけばサボはカウンターの内側に入り、フレイヤの目の前に立っていた。それに驚いた彼女が一歩退いたが、すかさず腕を掴んで逃げられないようにする。困惑と、ようやくサボに対して少しは恐怖心を抱いたのか、彼女が震えだした。

「あ、の……」
「言ってたよな。幼い頃、将来を誓った少年のことが忘れられねェって」
「え?」
「そいつが死んじまって新しい恋を始めようとしたけど、無理だったんだろ?」

 話の要領がつかめないらしく、フレイヤはいまだに戸惑ったままサボの目を見つめるだけだった。しかし構うことなく核心に触れる。

「その少年が本当は生きてるって言ったらどうする?」
「……ちょ、ちょっと待ってください。話が全然――」
「なあフレイヤ。十七年も待たせちまったけど、ようやく迎えに来れたよ。お前がこの島にいるってわかってからどうしても会いたくて来たんだ」
「な、に言って……サボは……彼はあの日死んじゃって、だから私すごくかなしくて……」
「うん。本当にごめん。今さらこんなことを言うのはずりィかもしれねェけど、おれはフレイヤと一緒にいたい」

 目を見開いたフレイヤが動揺を隠すことができずしばらく呆然とこちらを見つめる。やがて、今度はゆっくり距離を縮めてきたかと思うと、サボの帽子をとってカウンターの隅に置いてから、顔をまじまじと見つめてくるので気恥ずかしさを覚えたが、逸らすこともできずにサボも見つめ返す。すると、フレイヤの右手がサボの左目にかかる前髪をかきあげて、例の傷にそっと触れた。彼女が知らない傷にもかかわらず、突然涙を浮かべて抱きついてきた。「うわっ」驚きつつも、その小さな体を受け止める。

「さ、ぼ……なの?」
「……ああ」
「ほんとう……? 嘘じゃ、ない……?」
「嘘じゃねェよ。正真正銘、ゴア王国でお前と出会ったサボだ。待たせて悪い」
「し、信じられないよ……こんな、」
「おれだって焦ったんだぞ。お前に会えると思って期待してきたら赤ん坊を抱えてるし。いもしねェ男の存在に嫉妬した」

 サボは盛大なため息をつくとそのまま床に座り込んだ。緊張や不安といったあらゆるものから解放されて、ようやく人心地がついた気分だった。奪うことも連れて帰ることもできないと一度は諦めかけたが、それが早とちりで勘違いだったことがわかり――ああダメだ。頬が緩んじまう。嬉しい。フレイヤを諦めなくていいことが、どうしようもなく嬉しかった。

「えっと……サボ?」

 座り込んで動かない自分を心配して、フレイヤが同じようにしゃがむ。顔を覗き込んでくるので一度そっちに目線をやれば、やっぱり無防備に首を傾げていた。
 情報誌で見たときから思っていた。会わない間に、当たり前だが彼女は大人の女性へ成長し、想像以上に綺麗で、けれどどこかあの頃の可愛さも残していた。悔しくて、サボはちょっと意地悪するつもりで同じ目線にいる彼女の耳元にそっと顔を寄せる。

「悪ィなフレイヤ。お前に恋人がいねェんなら、今度こそおれがもらう。大人しく攫われてくれ」

2023/03/31
10周年リクエスト3 再会ifのお話 後編