溺愛ダーリン

 出先から戻ると、複数の女性社員が群れを作ってある一点の方向に視線を向けている光景が目に入り面食らったミウは、しかしその視線を集めている人物の姿を認めるとああなるほどと納得した。何かと話題にあがる男だと理解しているとはいえ、相変わらず目立つなと苦笑する。同期で営業部の若手ホープで容姿端麗。唯一、難点があるとしたら――

立石さんお疲れ。帰ってきて早々悪いんだが、この仕様書わかりづらい箇所がいくつかあったから修正しといてくれるか?」

 フロアの入口で突っ立っているミウを目ざとく見つけた?彼?がこっちに資料を振りながら笑顔で話しかけてきた。見つかっては仕方ない。無視するわけにもいかないし、"彼"がいるのはちょうどミウのデスクの隣だった。
 刺さるような女性社員の視線を浴びながら、ミウは自身のデスクまで歩いていく。どうやら"彼"は元々隣に座る同期に用があったようだ。"彼"の同期、すなわちミウの同期でもあるエースは"彼"と親友のようで、仕事上も営業部と企画部で別部署ながら上手く連携をとって円滑に業務が進むよう手回ししてくれている。入社三年目でこの仕事ぶりは同僚だけでなく先輩も目を見張るものがあるのか、何かと二人は注目の的だった。

「……いつまでに?」
「明日。印つけておいたからよろしく頼むよ」

 軽々しく言ってくれる。印つけておいたからってこの量を? わかりづらい箇所がいくつかってどれくらい? 明日までって定時まであと二時間半しかないけど。
 言いたいことはいろいろあったが、すべてをのみ込んで「わかった」とだけ返してから席につく。"彼"はミウの返事に満足したのかそのまま一つ下の階の営業部フロアへ戻ろうと踵を返した――だが、そこで運悪く女性社員たちにつかまってしまう。
 瞬く間に囲まれた"彼"はあからさまに面倒そうな顔を作ったのも束の間、すぐにいつもの能面のような無表情で対応しはじめた。
 
「ねえサボ君、今日みんなで食事でもどう?」
「そろそろ彼女がいるか教えてくれてもいいんじゃない?」
「連絡先交換しようよ」

 聞くつもりがなくても耳が勝手に拾ってしまうため、ミウはなるべく気にしないように徹する。"彼"がなんて答えるのか、はじめからわかりきっているから慌てる必要もない。しいて言うなら隣で笑いをこらえるように肩を震わせているエースが気になるが、どうせ冷やかしなので無視する。唯一秘密を共有している彼はいつもミウたちを面白がっているのだ。

「おれ、仕事で忙しいので。このあと外出だし。それと……彼女はいません、今は作る気もないです」

 孤高のプリンスとは誰が付けたあだ名だったか。どう見てもプリンスって柄ではないし――いや、見た目だけで言うなら甘い顔をしているが、実質心を開いている相手は少ない。社交的そうに見えて、実はとんでもなく興味関心がはっきりした人間である。
 "彼"は女性社員たちの誘いを見事にはねのけてフロアから立ち去っていった。そのクールな対応にも彼女たちには魅力的に見えるらしい。感嘆のため息がここまで聞こえた。
 "彼"のああいう態度は今に始まったことではなく、いつも誘いには一切のらない。営業部の若手ホープで容姿端麗。難点があるとしたら、女性を寄せつけないあの冷たい態度だろう。しかし、彼女たちはそれをミステリアスだなんだとポジティブな方向に転換しているので、"彼"の魅力に拍車をかけてしまっていることに本人は気づいていない。ミウはあそこまではっきり線引きしている姿にクスッと笑みを浮かべてからデスクに向き直る。
 と、隣の同僚がいまだに笑っていることに気づいてミウは不満を口にした。

「ちょっとエース、いつまで笑ってるつもりなの。これ、明日までに修正しなきゃいけないんだから」

 ミウはエースのほうをじろりと見やって、さっき"彼"から受け取った印がついているらしい資料を隣のデスクに置いた。

「あそこまで徹底されてるっつーのはいっそのこと清々しくておもしれェな」
「……先輩たちが女性に興味がなくて仕事一筋なんてクールだよねって言ってた」
「あいつのプライベートを見たら卒倒するんじゃねェか?」

 不敵に笑ってそう言ったエースの顔はやっぱり面白がっている様子だった。他人事だと思って言いたい放題だ。そして、もうその話題に興味が削がれたらしい彼は例の資料を手に取ると、印のつけられた箇所を確認する作業に取り掛かる。
 しばらくエースの言葉を反芻していたミウは、けれど今はそれどころじゃないと思考を断ち切り、同じようにパソコンに向かい作業をはじめた。


*


 結局、ミウが会社を出たのは午後八時――定時から二時間半過ぎた頃だった。自宅まで電車で五十分、少し前に「メシ作っといた。あと風呂も沸いてる」と送られてきたメッセージに帰宅を意味するスタンプ一個で返したミウは凝り固まった肩を動かしながら夜道を歩く。駅前の活気溢れる雰囲気から一変して、住宅街は一定間隔で街頭があるだけのもの悲しい風景だ。一本道なので楽だが、もう少し明るい何かがあってもいいのにとミウは一年半変わらない光景に悪態をついた。
 やがて、目的地の七階建てのマンションまで来てから鍵を使ってエントランスに入りエレベーターで三階へ向かう(いつもは階段だが、今日は疲れたので機械に頼る)。
 三階の廊下へ降り立ち、左側に進むと三つの扉が見える。奥から三〇一、三〇二、三〇三。ミウが住む真ん中の三〇二のドアノブを確認せず回して中へ入り、「ただいまー」と奥にいるだろう人物に聞こえるように大きな声で言った。くたくたになった足を早く解放したくてパンプスを脱ぐ。その間に奥からこっちへ近づいてくる足音に気づいて、ミウは顔を上げた。

「おかえり。お疲れ」
「……なによ。無理難題押しつけといて自分は客先から直帰? 良いご身分ですね」
「はは。すげー機嫌悪い」
「だってエースが保存忘れてファイル閉じちゃったから作業がやり直しになって大変だったんだもん」

 そう、あのあと定時から三十分ほどで片付いたはずの仕様書修正は、ところがエースの誤操作による保存忘れで一からやり直しになったのだ。とはいえ、ミウも確認せずに画面を閉じてしまったことがあるのであまり強く言えない。だからこうして一緒に残って帰りが遅くなったわけだ。

「それは災難だったな。けど、終わったんだろ?」
「終わらせたよ。明日必要だっていうからね」嫌味たっぷりに言って、鼻先に指を突きつける。
「ありがとう。さすがおれの彼女」

 満面の笑みで調子のいいことを言ってミウの腰を抱き寄せた"彼"は、そのままミウのこめかみに軽く口づけた。それで終わりかと思いきや、今度は唇に降りてきて何度か食まれる。しっかり腰を抱かれているせいで抜け出すこともできないから大人しく"彼"からのキスを受け入れて、されるがままになる。
 ミウの恋人であるこの男こそ、同期で営業部の若手ホープであり何かと女性社員の注目を集めているサボだ。昼間の「彼女がいない」なんて発言はもちろん嘘だし、仕事が忙しいという理由で誘いを断るのも半分は嘘だ。確かに忙しいだろうが、根本的な理由はそこではない。

「ねえ、ごはん作ってくれてるんでしょう? 早くたべ、」
「その前にまずお前を補給したい。ミウが足りねェんだ」

 飢えた犬のような瞳で見つめられてミウは言葉に詰まった。職場でのサボしか知らない彼女たちがこの姿を見たら、エースの言う通り卒倒するのかもしれない。あまりにも違いすぎる。塩のように愛想のない態度とは打って変わって、どろどろと蜂蜜のような甘さを放つ"彼"のプライベートはミウしか知りえないことだ。そのことに優越感を抱いてしまうのも、だから無理ない。
 しかしそうした感情を悟られるのも悔しいので、ミウは努めて不本意だという表情を作りながら、

「……サボのえっち」
「おれは女に興味がないわけじゃない、ミウ以外に興味がねェんだ。正直でいいだろ?」

 などと軽口を叩いてそのまま奥――ではなく手前の寝室に連行された。せっかくサボが作ってくれた夕飯にありつけると思ったのに、先に食べられてしまう運命だとは。
 足りないという言葉通り、"彼"のキスはさっきのより荒々しく興奮と安堵が混ざった熱い吐息とともに繰り返される。角度を変え、舌を遣い、何度も重ねる。でも、まだ足りない。
 ――ねえサボ。私も同じだったみたい。
 ミウはおとなしく"彼"につかまることにした。

2023/07/08
10周年リクエスト5 現パロサボくん