幸せのファンファーレが鳴り響く

 ここ数日調子が悪いなと気づいたのは朝食を摂っているときだった。月のものは予定だともう来ていてもおかしくないし、食べたいのに食べられなかったり、なんだか元気がないなと思ったり、怠かったり。食事はパン一個とか軽いものばかり。当たり前だが、そんな日が続けば周りが気づかないはずがなく、サボはもちろんカフェの常連客からも早く診てもらえと念を押された。
 そうして急きょカフェを閉じてやってきたのがベルツェ唯一の総合病院だった。小さな港町なので港近くの個人が運営している診療所が一つと、町の中央に位置する大きな総合病院の一つ。この二つでベルツェ全員の健康を担っている。
 総合病院でどの科に行くべきか悩んだ結果、フレイヤはなんとなくの勘で産婦人科に来ていた。確信があったわけではないが、こういうときに働く勘というのは意外と当たったりするものだ。
 検査結果を待ち、順番が来るまで待つ。大きな病院ではあるが、町全体の人口はそこまで多くないのでフレイヤが幼少期に住んでいたゴア王国に比べたら空いているほうだろう。サボは午前で仕事を終えて帰宅してくれるというから、が帰る頃にはもう家にいるかもしれない。
 そうこうしているうちに番号を呼ばれたので、指示された診察室に入る。病院に来るのが久しぶりで妙に緊張して手汗をかいていた。それが伝わったのだろう、医師から「そんなに緊張しなくても悪い話じゃないですよ」と笑顔で言ってくれたので、ようやくフレイヤは肩の荷が下りたように用意された椅子へ腰かけた。

「おめでとうございます。妊娠していますよ」

 その言葉を聞いて、ああやっぱりとなぜか納得している自分がいた。初期症状が出た時点である程度察していたのだが、ただ確かめるのが少し怖かったのだ。
 サボと具体的に子どもの話をしたのは、実はたったの一度だけだ。家を建てることになったときに、「おれとフレイヤ。あとはそこに新しい家族が増えることも考えて――」珍しく恥ずかしそうにしながら、そう言っていたことを思い出す。彼もまた子どもの存在に前向きであることに嬉しくなった。
 しばらくは二人で結婚生活を楽しんでいたけれど、なんとなくそろそろという雰囲気が二人の間に生まれて一か月と少し前に避妊具なしでサボと交わって……でも急に不安に駆られた。あのときは、嬉しさでいっぱいだったはずなのに気持ちがしぼんでいく。サボが、本当は家族を作ることをよく思っていないかもしれない。なぜかそんな不安がよぎる。

「ありがとうございます」

 絞りだしたような頼りない声だった。めでたいことだし、自分でも嬉しいはずなのに、どうしてか素直に受け止めることができない。知らないうちにまた手汗がひどくて、手のひらが少し光っていた。

「もしかして悩んでる? 旦那さんにきちんと打ち明けて、一人で悩んじゃダメよ」

 こちらの思いを察知したかのような発言にフレイヤはハッとして顔を上げた。三十代前半くらいの若くて仕事ができそうな綺麗な女性医師だった。優しく微笑んでフレイヤの手を握り、「大丈夫」と言ってくれる彼女に、どうしてか安心感を覚えて「はい」と頷く。

「しばらくは一か月に一度を目安に検診しましょう。ただし気になることがあればすぐに受診すること、いい?」
「わかりました」
「それから、ちゃんと旦那さんに相談するのよ」
「はい」

 去り際も念を押されて、フレイヤは困ったように笑いながら返事をした。病院を出た頃には午後の三時を過ぎていたので、そのまま帰宅するのではなく夕飯の食材を買うためにパブリックへ立ち寄ることにした。


*


 ソファに座るフレイヤの表情がいつもより暗い気がしてサボは不安に駆られた。ここ数日体調が良くないらしく、ようやく今日病院に行ってきたはずだが帰宅してからどうだったのか聞いても「あとで話す」の一点張りだった。
 夕飯とその片づけを終えて(この時も元気がないままだった)ようやくゆっくり話せる時間がきたので、サボは彼女をソファに座らせてから自分も隣に腰かけた。手を組んでぎゅっと握りしめている。本当にどうしたのか。まさか医者に何か良くないことでも言われたのか……?
 嫌な考えばかりが浮かんでしまい、このままでは埒が明かなかった。無理やり聞き出すことはサボの意思に反するが、ここはそっと先を促して聞くしかない。

フレイヤ。そろそろ話してくれるか」

 強く握りしめた指をほぐすように、フレイヤの指先に触れる。一本ずつほどいてやり、手の甲についた爪の痕を撫でる。綺麗な手を傷つけてほしくないが、一体なにが彼女をこんなふうにさせているのだろう。俯いたままの彼女に、もう一度呼びかける。

「おれに話せねェことなのか」
「ちがっ……うけど、でも――」
「何に悩んでるのか知らねェけど、おれは何があろうとお前の味方だし、どんなことがあっても受け入れるって言っただろ?」

 なるべく優しく、子どもを諭すような口調で言う。
 体調が悪いと誰でも不安になるものだが、ここまで頑なだと本当に病院で何かを言われたとしか思えなかった。思わずサボにも冷や汗が流れる。

「――できたの」
「ん?」最初のほうが聞き取れず、彼女の口元に耳を寄せる。
「こ、どもができたの……」
「……」
「でも、サボとは一度しかそういう話をしてないでしょ。本当は子どもなんていらなかったらどうしようって怖くて……ぁ」

 すでに涙を流していたフレイヤを、サボはたまらず抱きしめた。もちろん体には十分配慮して。肩を震わせる小さな存在が急に愛おしく感じる。いつかはそうなるだろうと思い描いていた未来が予想より早くて驚いたが、感謝こそすれ、"いらない"なんてことは絶対にない。どうやら彼女はそれを不安に思っていたようで、打ち明けるのを躊躇っていたらしい。

「ありがとう」彼女の体をそっと離してから呟く。不安そうにしていたのは、自分に拒否されるかもしれないと思ったからだと理解した今、その不安を払拭してやるために目尻の涙を親指で拭う。
「言いづらい雰囲気を作っちまって悪かった。子どもがいらないなんてことはねェよ、お前との子だ。嬉しいに決まってる」
「ほ、本当……?」
「バカ。そんなことで嘘ついてどうすんだ」

 俯きがちだったフレイヤの顔が徐々に上を向いていき、泣きながら笑って自身の腹をさする。まだ全然そんなふうに見えないが、この内側には新しい命が宿っているらしい。サボとフレイヤの――

「まだ先なんだろうけど、少しずつ準備しねェとな。あと店もできるだけ手伝うし、心配しなくていい」
「……サボ」
「どうした」
「かっこいいね。ありがとう。大好きだよ」
「なんだよ急に」

 今度はフレイヤのほうから手を握ってきて目を細めた。さっきまでの不安や焦燥感は一切感じられず、ゆっくり立ち上がってキッチンのほうへ歩いていく。どうしたのかと思って声をかけたら、お詫びにコーヒーを淹れてくるというので慌ててついていき彼女の体を支えた。「まだ早いよ」とやわらかく笑う彼女に、ようやくサボも安心して胸を撫でおろした。
 約一年後、この家に新しい住人がやってくる。サボはその日を、首を長くして待つ。


*


 その日フレイヤが眠ったあと、サボはひとり起きて一階のソファで電伝虫の受話器を手にしていた。

『ちょっと今何時だと思ってるんすか、もう日付変わるんですけど』
「まあ少しくらいいいじゃねェか」
『そんなこと言って、以前フレイヤさんとの旅行話めちゃくちゃ長かったの忘れてないですからね』
「……悪い。けど、あいつに子どもができたんだ」
『……え?』
「おれ、父親になる」
『えっと……本当ですか』
「ああ。最近体調が悪いから病院に行かせたんだが、そこで医者に言われたそうだ」
『ええ〜めちゃくちゃめでたい話じゃないですか。おめでとうございます!』
「ありがとな。……ただ、不安もある。おれは家族に良い思い出がねェから」
『それは……けど、初めてなんですから不安があるのは当たり前でしょう。今度みんな連れて遊びに行きますから。あ、フレイヤさんはコアラさんもいたほうが嬉しいですよね』
「あー……コアラへの連絡は待ってくれ」
『どうしてですか』
「たぶんあいつ、自分で報告してェと思う」
『……なるほど。優しいですねえ』
「うるせェな、切るぞ」
『総長からかけてきたんでしょ。まあいいや、とりあえず決まったら連絡いれます』
「わかった」
『本当におめでとうございます。フレイヤさんにもよろしく伝えてください』
「ありがとう」

2023/09/24
10周年リクエスト6 二人が子どもを授かる話