仲直りのしるし

 フレイヤの怒っている表情を見るのは初めてではないが、ここまで機嫌が悪いのはたぶんは出会ってから初めてな気がする。温厚な性格上、"怒り"を露わにすることはめったになくたいていのことは「仕方ない」で流してくれる彼女も、これには怒らずにいられないようだった。
 テーブルを挟んで向かいに座るフレイヤと目が合った途端、ぷいっとそらされる。恥ずかしくて外されるのではない。サボに対して腹を立てているという明確な意思表示だった。

フレイヤ、本当に悪かった。もう消したから機嫌直してくれねェか?」

 そっぽを向いて素っ気ない顔をしているフレイヤの顔色をうかがった。
 事の発端は、彼女がサボの部屋掃除に来たことからだった。特別汚くしているわけではないが、彼女が隙間時間を使って定期的に整えてくれていることには感謝していた。たまに衣類や本を散らかしたままでいることに呆れているものの、微々たることだからと彼女は毎回律儀にくまなく掃除する。まさかクローゼット中まで整理しているとは思わず、だからサボは油断していた。自分と――一部の部下しか知らないあの存在が本人に知られることはないと。
 最初はちょっとした出来心だった。長期任務でフレイヤと離れることが決まり、前の晩に勝手に録音したそれをサボは懐に大事にしまって本部を発った。任務を終えた部下達が島で楽しんでいる一方、サボは一人船に残って寂しさを紛らわしたことは言うまでもない。
 言い訳してもいいなら長期間会えない代わりにしたかったということだ。あとは弁解のしようもないが、男というのは非常に面倒くさい生き物でどうしたって生理現象を抑えることができない。それを鎮めるためにあんな――

「勝手にこんな……ひどいっ! せめて私に一言断って――」

 フレイヤが言いかけて口を噤んだ。それもそうだ、彼女に断ったところで許可が下りるとは思えない。今思えば、勝手に自分の声を録音されているなんて気分のいいものじゃない。彼女に会えない寂しさからつい不埒な考えに至った浅ましい自分を、サボは嘲笑った。
 ――馬鹿だ、おれは……。
 自身に悪態をついて、サボは「ごめんフレイヤ」ともう一度彼女の目を見て謝った。

「サボのばか。今日は差し入れ持ってってあげない」

 フレイヤの怒りを孕んだ声にサボは呆気に取られて何も言い返せなかった。そんな自分を彼女は一切顧みず部屋から出ていく。
 追いかける余裕も気力も今はなかった。「差し入れ持ってってあげない」と言ったときの本気で怒った顔だけが目に焼きついて離れてくれない。そしてそのことに自分がこれほどこたえるとは思わなかった。言い返せなかったのは言葉が見つからなかったわけじゃない。彼女の言葉で自分の心が傷ついたのだ。


*


「どういう状況なんですかこれ」

 後輩に耳打ちされて"彼"は何度目かの呆れとも諦めともつかない「あーー……まあちょっとな」と濁した返事をして後輩のほうに体を向ける。
 食堂内の空気は良いとは言い難かった。仲間たちが遠目に大丈夫なのかという視線を送っているのに対して、"彼"は先ほどから見て見ぬふりをしているがそろそろ総長が憐れに思えて仕方ない。
 通常、総長とフレイヤさんは向かい合って食事をしていることが多く、今日もその景色は変わらない――だが、総長が何か話しかけてもフレイヤさんは黙々と食べ続けて知らんぷり状態だった。あまり怒るタイプではないと思っていたからこそ、今回の件は相当彼女にとってショックなことだったのだろうと思う。
 "彼"は総長から事情を聞いていたので、そのときは呆れたものだったが、改めて男としての立場を考えると「わからなくもない」という結論に至った。もちろん女性に言ったら非難ごうごうなので絶対に口には出さないが。

「ちょっとって、そういう雰囲気には見えません。なんか険悪じゃないっすか」
「……言うな。みんなわかってる」
「わかってるって……なんか総長必死に話しかけてるけどフレイヤさんのほうは全然素っ気ないっていうか冷たいというか……可哀想に見えてきました」

 後輩が総長に憐れみの目を向けて言った。その視線を追って"彼"もまた総長をもう一度見やる。まあ言いたいことはわかる。確かに可哀想だ。
 そもそもこうなった原因はどうやらついに「アレ」が見つかってしまったらしいことにあった。以前任務で本部を留守にしていたとき、総長はフレイヤさんの行為中の声を録音して持っていたのだが、今日たまたま部屋の清掃に来た彼女にしまっておいたはずのそれを聞かれたのだそうだ。録音機能を取りつけた電伝虫をわざわざ作らせたらしいので総長もスケベというかよく考えるなとある意味感心する。
 とはいえ総長の場合、不健全な本や雑誌は一切見ない(フレイヤさんにしか興味ないとも言う)ので仕方ないと言えばそれまでだ。男たるもの生理現象には逆らえないし、どうしたって長期任務のときは"彼"でさえ立ち寄った島でそういう店を利用したことがある。
 そういうわけで、フレイヤさんは掃除中に見つけた「例のモノ」をたまたま落として再生されてしまった自分の声を聞いたそうだ。地獄。近くにいた若い兵士達が総長の部屋で女性の叫び声がすると、いっとき辺りはは騒然となった。

「飼い主に叱られた犬みたいですね。垂れた耳が見えるようです」

 後輩の言い得て妙な発言に、"彼"は苦笑する。確かに今の総長は犬みたいだ。イタズラをしてフレイヤさんという飼い主に怒られ、へこんでいる犬。参謀総長も形無しである。
 互いに食事が終わってフレイヤさんが先に席を立つと、後を追いかけるようについていく総長。立場が逆転しているようでちょっと奇妙な光景だ。ふくれっ面の彼女を見る目は、しかし最初に比べてだいぶ落ち着いてきたように思う。"彼"は、きっと時間が解決してくれるだろうと考えた。

「けどまァ、そのうちなんとかなるだろ。フレイヤさんだってちょっと気が昂ってるだけだ。本当に嫌いになったんならわざわざ同じテーブルで食事するはずねェさ」
「……」
「……なんだ」後輩の顔がもの珍しそうに"彼"を見るので聞き返す。
「いや、二人のことよく知ってるんだなと」
「そういうわけじゃねェが、見てたらわかるんだこういうのは」

 "彼"の言葉の意味がよくわからなかったのか後輩は首を傾げて「はあ……」と曖昧な返事をした。それから思い出したように席を立ってやべーおれ呼ばれてるんだったと食器を抱えてカウンターへ走っていったので騒がしい奴だと"彼"は呆れながら、残りの昼ご飯をかっ込んだ。
 ざわざわとどこか落ち着かない雰囲気が漂っていた食堂に平穏さが戻ってくる。総長達に注目していたほかの連中もようやくほっとしたように食事を再開していく。はたして、午後の仕事はどうなることやら。"彼"は去っていった二人を案じた。


*


 フレイヤと一緒にいて、沈黙がこんなにつらいと感じたことはなかった。日中からずっと冷たい態度をとられて(自業自得だが)途方に暮れたサボは午後の仕事を一足先に終えて、あるモノを求めて町のほうまで出かけたあと今しがた本部に戻ったばかりだった。
 彼女が応対してくれない可能性もなくはなかったが、自身の名前を告げると少し間を置いてから扉を開けてくれた。中には入れてくれるらしい。
 テーブル越しに彼女と向かい合うこと数分。読書したままの彼女は先ほどから一度もサボのほうを見なかった。中には入れてくれたが話す気はないようだ。静かすぎて耳が痛い。とはいえ、いつまでもこの状況でいるわけにはいかなかった。サボは彼女に許してもらうために来たのだから。

「夜に突然ごめん」
 まずは前触れもなく来たことを詫びた。本来はフレイヤがサボの部屋にいるはずなのだが、今日はああいうことがあったから当然彼女は来ないだろうと考えた。本部に戻って真っ先にここへ来たのは、だから正しい選択だ。
「別に……気にしてない」
 と、やはり素っ気ない台詞で返される。気にしてないなんて嘘だ。
 午前中にフレイヤの最中の声を録音した電伝虫が見つかり、咎められ、昼食の間も冷たくされ、仕事は仕事でこなしたがかなりこたえた。もちろん謝罪は会うたびにしているし、でき得る限りの誠意を見せたつもりだ。そして最後の手段として思いついたのが、いまサボが後ろに隠しているモノだった。彼女に渡すために町に出て買ってきたモノ。仲直りと言うにはあまりにも自身に非があるが、以前のように彼女とまた笑い合える時間を取り戻したい。そういう想いで買ってきたモノ。

フレイヤ、そのままでいいから聞いてほしい」
「……」
「勝手にああいうことして本当にごめん。寂しかったとはいえお前からすれば気分悪ィよな」一度言葉を区切ってひと息つく。次の言葉を考える。誠心誠意、フレイヤに伝わる言葉は――

「おれから許してほしいって言うのは図々しいが……お前に詫びたくて買ってきた」


*


 お前に詫びたくて買ってきた――
 そう言われてサボから渡されたのは小さな花束だった。見たことある花とそうじゃない花。気づけばフレイヤは視線を本から彼に移してじっと見つめていた。
 きっかけは午前中に彼の部屋を掃除しているとき。クローゼットの中から見たことない電伝虫が出てきて、けれど仕事関係のものだと思って避けようとしたら誤って落としたのが運の尽き。録音機能がついている電伝虫なのか再生されてしまい、あろうことかそこから聞こえてきたのは自分の……喘いでいるときの声。
 男性がそういう本を持つことは健全なことだと以前から聞いているので、それが音声であっても何も変なことじゃないし、むしろほかの女性のものじゃなくてよかったとほっとしてるはずなのに、気づけばフレイヤはサボを咎めていた。差し入れ持って行かないなんていう子どもみたいな発言もしてしまった。彼の部屋を出たあと、だから自責の念にかられた。
 サボが本当に悪いと思って謝罪していることは表情を見ればわかる。休憩中も必死に謝ってくれていたのに、それをフレイヤは意地を張って無下にしていた。冷たくして素っ気ない態度をとった。自分でも珍しいほど、怒っているのかショックなのかどういう感情なのかよくわからなくなった。こんな誠実に謝ってくれている彼に対して自分の心の狭さが居たたまれない。仕事中もどこかうわの空で、先輩たちから心配されてしまった。
 仲直り……したい。
 そう思うのに素直になれず、夜もサボの部屋に行けなかったフレイヤのもとに彼は夜九時を過ぎた頃やってきた。花まで用意してくれて。

「……私も、ごめんなさい。サボが本当に悪いと思って謝ってくれてるのわかってたのに、あのときは恥ずかしさとショックで気持ちが抑えられなかった。子どもみたいなことも言った」

 ようやく吐き出せた自身の気持ちに、フレイヤは目を伏せてほうっと息をついた。サボに冷たくしている間、自分の心も冷えていくのがわかってどうすればいいのかわからなかった。喧嘩は――幼い頃、エヴァとよくしたけれど、あれは喧嘩というより一方的に怒っている妹を相手にしていただけだ。サボとこんなに話さずにいたのはここに来てから初めてだった。

「いや、フレイヤが謝ることねェよ。おれが悪かった。だから……これ受け取ってくれるか?」と、花束をフレイヤの前に差し出す。少し照れくさそうだ。
「ありがとう。すごく、嬉しい」

 花はピンクのマーガレットとポピーに似た形をしているもの――初めて見る花だ。小さいけれど、そこにサボの誠実さが凝縮された花束だった。

「ねえ、これ花屋さんになんて伝えたの?」
「え?」
「サボは花に興味ないでしょう? 店員さんになんて伝えたのかなって」

 花屋で花束を作ってもらうとき、そのほとんどは買ったり贈ったりするときの用途を伝える。もちろんフレイヤのように趣味で買う人間もいるが、サボのように初めて花屋に足を運ぶような人が来店したら店側も当然聞くだろう。この花束はとてもよくできている。

「あー……仲直りしたい人がいるって言った」

 視線をそらしてこめかみあたりを掻くサボが少し言いづらそうにしながら教えてくれた。
 花屋に行っていろいろ見ていたら店員から声をかけられという。"贈りものですか"と。それで散々迷った結果、仲直りしたい人がいるの一言だけで、十数分後にこの花束を渡されたのだそうだ。謝るときは誠実に。見送りしてくれた店員にそう言われて。
 だから込められた想いはとても深い。

「ピンクの花はマーガレット。よく見かける有名な花。それで……こっちはたぶんポピーの仲間だと思うんだけど、初めて見た」
「それはここでしか咲かねェ花だそうだ」
「……そうなの?」
「モモイロ島の環境に適してるんだと。モモイロポピーって言ってた気がする」
「そうなんだ。綺麗な色」

 モモイロ島限定のポピーは春以外も咲く、品種改良した特別な花だそうだ。赤、オレンジ、黄色、青。色とりどりで見栄えもいい。あとで花びんに生けよう。

「ピンクのマーガレットは真実の愛。ポピーには思いやりやいたわりが花言葉になってるんだ。きっと店員さん、サボが思い詰めた顔をしてるのを見てこの花を選んでくれたんだね」
「ごめんフレイヤ。お前に触れられないのはすげェつらい」
「うん、私も寂しかった。意地張ってごめんね」
「抱きしめていいか?」と、サボが立ち上がってこちらまで近づいてくる。もらった花束をテーブルに置いてからフレイヤは「もちろん」笑顔で答えて自分から彼に抱きついた。

2023/10/22
10周年リクエスト9 フレイヤの機嫌を直そうと必死なサボくん