MOMENT

 窓からコツコツと叩く音がし、カーテンを少し捲り確認するとイルミが立っていた。
 月影を背負い暗闇で顔も見えない長髪の人間だなんて普通なら怖いだろうに、何故この男はこんなにも美しく見えるのだろう。

「やあ」

 解錠し窓を開けるといつもの抑揚のない声で挨拶しながら部屋の中へと入ってくる。表情どころか姿さえも朧げになってしまった。

「来るなら玄関にしてって言っているでしょう? ここ何階だと思って――」
「こっちの方が早いから」

 わたしはベランダに出て下を覗いただけで身が竦むというのに、イルミは当たり前のように毎回こうしてやって来るのだ。

「電気くらいつけなよ」
「寝ようとしてたところなの」
「ふうん、それにしては結構前から消えてたけど」
「えっ。いつからいたの」
「どうだろう、一時間くらい前かな」

 夜は冷え込むというのに。微かに輪郭のわかるシルエットを頼りに手を伸ばし頬に触れると、体温を感じる前にパリパリと乾燥した感触がやってきた。

「なにこれ、血? イルミ怪我してるの?」
「なんでもないよ」
「とりあえず電気つけるから見せて」
「怪我なんてしてないし、電気は眩しいからいいよ。このまま洗いに行こうか」
「さっきは電気くらいつけろって言ってたじゃない」
「そうだっけ」

 とぼけた口調でそう言いながら手を引かれる。
 真っ暗なのにイルミは器用に歩いてキッチンは辿り着いた。すぐに蛇口から水の流れる音がする。

「洗ってあげる」
「自分で洗えるよ」
「いいから」

 掴まれたままだった手はされるがまま冷たい水へ晒され、思わず引っ込めようとするもびくともしない。
 水から逃れられたと思えば、すぐにソープのぬるりとした感触がゴツゴツとしたイルミの指によって手のひらを滑っていく。
 思いの外丁寧に洗われている現状に戸惑っていると、再び冷たい水がかかり肩が跳ねた。
 水の流れる音が止まり、少しごわついたタオルに包まれ手から水気がなくなった。

「うん、もういいよ」
「ありがとう」
「オレがやってあげるって言ったんだから礼はいらないでしょ」

 そうだ、イルミが言っている通り。だけどやってもらった事には変わりないんだから感謝しただけだ。こうした少しの価値観のズレを伝えたところでイルミにはきっと響かないのだろう。

「もう電気つけてもいい?」
「このままベッドに行ってていいよ。オレはシャワー浴びてくるから」
「……わかった」

 どうやら電気はつけて欲しくないらしい。片手で位置を確認しながら寝室へは戻らずリビングのソファーへ腰掛けた。
 イルミが来る前と同様に、足もソファーへ乗せ膝を抱え込む。
 一体いつになったらわたしたちの関係性ははっきりするのだろう。
 名前と、価値観がわたしとはズレていることと、長く美しい黒髪の触り心地、そしてキスの仕方やわたしへの触れ方しか知らない相手。それだけで十分な気もするし、この先不十分な気もする。
 ケータイを肌身離さず持っていたところで連絡が来ることはないし、こちらから連絡したところでイルミが来たいと思ったタイミングでしか会えない。
 両の手じゃ到底足りないのだからもういつ会えるのかと指折り数えて待つことはしなくなってしまった。

「起きてたの?」

 気配も足音もなくソファーが沈んだ。
 顔を上げるもやはりシルエットしか確認出来ない。

「電気が嫌ならカーテン開けてもいい? 何も見えないの」
「そうか、じゃあ電気つけよう」
「眩しいから嫌なんでしょう?」
「そういえばそんなことも言ったっけ」
「ほんっと気分屋」
「オレの知り合いほどじゃないよ。それにお前もう寝るんでしょ、オレは見えてるからベッドまで運んであげようか」
「お姫様抱っこで?」
「してほしいならするけど」

 からかい混じりでもないいつものトーン。わたしは冗談だったけど人生で一回くらい経験しておいてもいいかもしれない。
 頷くとすぐに抱き上げられ小さく悲鳴を上げてしまった。

「怖がらなくても落としたりしないよ」

 そうは言われても身体の力は抜けないままベッドへ到着した。
 ゆっくり降ろされふたりでベッドへ寝転ぶ。

「お姫様抱っこってされる方も筋肉使うのね」
「使う筋肉あるの?」
「失礼すぎる」

 取り留めもない会話を交わしながら、そういえば、と話を切り替えた。

「本当に一時間もベランダにいたの?」
「うん、まあね」
「寒かったでしょ」
「雪山でもあるまいし、平気だよ」
「イルミの想像する寒さが過酷すぎる。で、どうして一時間もベランダにいたの?」
「窓に映る自分を見たら、このまま入っていいかわからなくなって」
「なんで?」
「感じた事ない感情だから自分でもよくわからないけど」

 ぎしりと頭の横が沈み絹のような長髪が頬にかかる。目を凝らすと頬杖をつきこちらを覗き込むイルミのシルエットが見えた。

「なにそれ。わたしがイルミの美しさにやられて倒れると思ったとか?」
「お前ってアホだよね」
「自分の感情もわからない方が相当よ」
「お前に怖がられたくないと思ったのかもね」

 何を思ってわたしが怖がると考えたのか。口を開こうとすると唇が重なり言葉はイルミの中に飲み込まれてしまった。
 心地よさで雑念が消えて、長いことやって来なかった眠気を感じる。

「お前をいつでも手放せるようにしてたつもりだけど、ままならないね」
「……わたしだってイルミと離れる準備が上手くいかないわ」
「もしオレのこと怖いと思っても――いいや、とりあえず今日は寝なよ」
「うん……」

 眠気で頭が上手く回らず、イルミの言葉を半分も理解できないまま頷いた。
 きっと朝起きたら忘れているかもしれない。
 本人でさえわからないイルミの感情を知る術があったならいいのに。叶わぬ考えを抱きながら夢の世界へと落ちた。

written by 響
2023.08.27