価値などないわ
迷子のようだと思ったときにはその手を取って走り出していた。背中にぶつけられる怒鳴り声を追い風に転がるようにして路地を抜けていく。戸惑いを孕んだ嫌悪の声もそこに追加されるが知ったことかとギュッとささくれている手を握りこむ。足元に転がっていた酒瓶に躓いても、水の入ったバケツをひっくり返して野良猫がぎゃぁと鳴いても足は止まらない。大通りに飛び出し、街を過ぎ、足元が石造りから土の獣道に変わり。すっかり息が上がり切ってしまい歩いているよりもずっと遅い速度になっていたがそれでもずるずると足を進めていた。低空飛行をしていた小鳥にぴゅんと腕を掠められ、驚きのせいでべしゃりと転んだためにやっと停止した足はガタガタに震えしばらくは動けそうにもない。対して、ここまで引きずられてきた少年はこちらを怪訝に見下ろすばかりで息の一つも乱していなかった。
偶然だった、といえば少し語弊がある。その少年がいつも薄暗い路地やあまり評判がよろしくない酒屋にいっては何かを聞いて回っていることは知っていた。険しい顔で、一体何を調べているのか。鋭い眼光を揺らめかせているのはどうしてなのか。とうとうそれが悲しみに塗りつぶされてしまったから、思わず手を引いてこんなところまで走って来てしまったのだが。
「何なんだよお前」
ごもっとも。ヒューヒューと嫌な音をさせている喉から、言葉のかわりに咳が飛び出す。握った少年の手は走ったというのに汗すら感じず、硬い豆のザラつきが目立っていた。震える膝を立ててはうはうの様相で立ち上がり、反対の手でぐいと汗を拭う。いらぬお節介どころか、いい迷惑だっただろう。傷ついて泣いてしまいそうだなんて思っていたがそんな気配はどこにも見当たらない。強気で勝気、人を寄せ付けないピリピリとした空気をまとった男の子。そばかすの散った頬には殴られたような痕が痛々しく残っているが、痛みなど感じていないのか気にかける様子もない。
ただ、それでも。握った手が冷たくて、振り払われない。そのことだけで間違えではなかったかもしれないと思えてしまったから、少年の手をまた引いて今度はゆったりと歩みを進める。
「おい!どこ行くんだ!」
ぎゃんと吠えた声に驚いたリスが凄まじい勢いで枝から枝へと飛び跳ねて逃げていく。どうにもそれが面白く見えてしまい、つい息を漏らしてしまう。繋がっている手のひらからその振動を感じたのだろう、少年はまたもぎゃあと怒鳴って地団駄を踏んだ。
「あっちにね、いいのがあるよ」
浮かんだ笑みを隠さずに振り向いて、不機嫌そうに深いシワの寄せられた眉間をみてまた笑う。悪童なんて街では噂になっていた、けれどやっぱり年の近い普通の子だと確信して握った手に力を込める。それだけで声を収めてくれるのだから、やはり噂とはあてにならないものだと上機嫌に坂道を登る。噂では目があっただけで歯が折れるほどに殴られただの、小動物を笑いながら蹴飛ばしていただの、尾鰭がいたるところに生えていそうな野蛮な話をよく耳にしていた。
「なんで俺に構うんだ」
「もうちょっと先だったかなぁ」
「お前も俺を馬鹿にするのか、それとも鬼の子だっていうのか」
「久しぶりに来たから覚えてないなぁ、前も連れてきてもらったから」
「ほっとけよ、離せ」
「あっち側だったかなぁ、川は超えなかったと思うけど」
「殺されたいのかよ!」
ふらふらと彷徨うように動いていた足をとめ、威嚇するように声を荒らげた少年を振り返った。
「君も嘘つくんだ」
「……は?」
「殺す気がないのにそんなこと言ったらだめだよ、あ、ついた!」
呆然としている少年を引っ張り、目的地であった丘へと進む。木々が空を遮ることのないその場所には色とりどりな野花が風に揺られて踊っている。売れるような花は一つもない、なにかの効能があるような薬草というわけでもない。特別きれいでもなく、珍しいものもない。ただここに集まって日を浴びて空に向かってぐんぐんと伸びているこの景色が好きだった。獣道の一つもないので、一歩進むたびに花のいくつかを踏み潰すことになるが、それでも気にせず進んでいく。明日にでもなればまたにょっきりと上を向いているのだ。存外彼らは逞しい。
「あ、みてみて。これ葉が4つあるよ、四葉ってやつかな」
「……それは元々葉が4つの花だろ」
「え?違うの?」
「普段三つ葉なのに四葉だから縁起が良いんだろ」
「そうなんだ、ものしりだね」
「……普通だろ」
「そっか」
いちに、さんよんと葉を裂きながら数えてみる。たくさん付いているものもあるが、多ければいいというわけでもないようだ。
「価値ってさ、それぞれだと思わない?」
「……」
「私にとってここはお気に入りの場所だけど、きっと君にとってはどうでもよくって。誰かにとって四葉を見つけることってすごいことなんだろうけど、私にとっては正直ここにある野花となにが違うのかわからない」
目的もなく花畑のなかをうろうろとする。少年は迷子のように後ろに黙ってついてきていた。
「君が鬼?にこだわるのも、きっと大事なことなんだろうね」
それでも、あんなに悲しそうな顔をしてまで縋る理由までは理解できそうにない。
「……世界中の嫌われ者でもかよ」
苦いものを喉の奥に突きつけられて、やっと絞り出したような声。顔も違わず苦くて苦しそうで、どうしてそこまでとやっぱり思ってしまう。
「世界中に全員に嫌われるなんてできっこないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないけどなぁ……」
それって世界中全員に好かれるのとおんなじくらいありえない話だ。ぶち、と引っ張った橙色の花の花弁が相槌を打つように上下に揺れた。
「じゃあ勝負してみる?誰に聞いても大嫌いっていう人が本当にいるのかどうか賭けでもしよう!」
花を眼前に突き出すようにして宣言する。
「負けたほうが勝った方の言う事一つだけ聞くの」
どうする?と首をかしげて問いかける。はく、と口を開閉させただけで少年は考え込むようにして黙してしまった。それでもずっと仄かに薄暗かった目の奥に花が反射して映るようにはなったから、ひとまずは満足としよう。
written by 飾
2024.06.06