カップの苦土
呆然とした、どこか頼りない声だった。己の名前でもなかったその呼び声、確かめるような問いかけだったからだろう、思わず足を止めて振り返る。
余りの美しさに、一時息を忘れる。鮮やかなグリーン。鉱石の輝きにも等しいと思うほど、おおよそ人の顔に収まるには不相応なものに思えた。その鮮やかさは脳裏に一瞬にして焼きついて思考を奪っていく。日本人にしては珍しい瞳の色は驚きに見開かれ、夕陽の光をふんだんに浴びて煌めていた。
ぱち、と一瞬。少しだけ速度のゆったりとした瞬きが上がった時にはその驚きは収束していた。気のせいだったのかと錯覚してしまうほど平坦な表情をした男がこちらを見下ろすのみとなる。それでも立ち止ったまま動けなかったのは、互いの表情に振り払えないなにかを感じたからだったのだろう。たった数秒、されど数秒。息を止めていたのは両者とも同じだった。
「……人違い、です」
「……ああ」
絞り出すようにして声が落ちる。緊張からか掠れた声だったが、男には届いたようで短い相槌のみが返された。表情が死んでしまったかのように、男の顔はピクリとも動かない。振り返った瞬間のほんの僅か数秒だけ、まるで幻だったかのようにその瞳も今や翳っているようだった。
すれ違っただけ。人違いで呼び止められただけの希薄な関係……関係と言っていいほど強いものでもないのだが意外にもその糸は切れることなく続いた。行動範囲が等しいのか、生活圏内でもない場所でも彼とはよくすれ違うのだ。それも毎度、男がこちらに気が付き驚いたような顔をして足を止めるものだから、こちらも「あれ」と足をとめてしまう。そして数秒だけ、たったの数秒だけ男の瞳が美しく瞬いている様を眺める。そうして気が付けば。
「好きになったんですね!?」
「ちが……!」
そうじゃないと喫茶ポアロの店員、榎本梓に吠えようとして店内であることを思い出し口を閉ざす。年下のこの店員はひどく人懐っこく、気が付けば彼女に会いに店の常連に名を連ねるまでには通うようになっていた。気が合うというのもあるのだろうが、こうして長話をする程度には良好な仲だった。
「ええ〜でもでも、気にはなっちゃってるんですよね!」
「そ、んなことは」
女子高生たちのきゃっきゃとした恋バナに充てられ、いい人はいないのかと話を振られた時に男を思い出してしまった時点で敗北している。否定の言葉は千切れるように霧散した。
しかししょうがないではないかと胸中で言い訳を並べ立てる。あんなにも鮮明な色を、毎回惜しみなく晒し、一瞬にしてそれを隠すようにしまい込まれる。お前のせいで曇っているのだと言われているようで、気にしないほうが難しいだろう。
「ほらあれ、サブリミナル的な……」
「なんでしたっけそれ、詐欺のやつでしたか?」
「えっと……」
「意識と潜在意識の境界領域に対して刺激を与えることで現れる心理効果のことだよ!」
いざ説明を求められると困る。と口を噤んでいる間に溌剌とした少年の声が割り込んできた。喫茶ポアロの二階に居を構える、毛利探偵事務所に住まう少年だ。とんでもなく難しい言葉をすらすらと話しているがこれで小学一年生だという。
「コナン君、詳しいのね!詐欺で使う手法のことだと思ってたわ」
「洗脳とかにも通じるものがあるから……ほら、テレビとかで本当に一瞬だけ映った何かがものすごく欲しくなって買っちゃうとか、そういうのをサブリミナル広告っていうし」
「そうそうそれ!そのイメージ!」
「でもなんでそんな話してたの?」
「うーん、コナン君にはまだ早いかな?」
「ええ〜」
ダダをこねるでもなく少年は唇を尖らせて引き下がる素振りを見せる。しかし表情は不満を携えており、結局それに折れる形で口を開いた。見上げてくる丸い少年の目の輝きが、少しだけ男に似ていたからかもしれない。
「一瞬だけ嬉しそうな顔をしたと思ったら、次の瞬間にはがっかりされるから記憶に残っちゃったって話してたの」
嬉しそうでも、がっかりでもないが小学生相手にその機微を語るのは気がとがめた。もっとも言語化できるほど単純な感情ではないだろうことは目前で見ていたからこそ理解している。ホットコーヒーのカップを爪先で弾いて陶器を鳴らす。指の先がじんわりと熱を持ちそこから何かを吸い上げているようなそわそわとしたものを感じて、パッと指先を離す。
「馬鹿なんだろうなぁ私」
湿っぽくなった声に思わず力のない笑みを浮かべてしまう。
たった数秒、されど数秒。それが積み重なったとしてもほんの一時の出来事だ。それでも、直後に曇るせいでより際立ってきらめいていたあの瞳が焼き付いてしまった。名前も知らない男だ、不健康そうな隈を貼り付けて喪服のように真っ黒な装いをしている男。知っていることなど数えるほどなのに、それなのに数秒あの瞳に見つめられただけでうっかり心を攫われた。どうしようもない馬鹿なのだろうと女は自嘲をコーヒーとともに流し込んだ。
「最初から振られてるのになぁ」
少年にも店員にも聞こえないように囁いた声がカップの中に落ちていく。出会った時に男が口にした名は、知らない女のもの。別の誰かに向けられた瞳が、あんまりにも美しかったから。それに射抜かれて、焼かれてしまった愚かな女は諦めるようにして気持ちを認めた。ぐっと残ったコーヒーを飲み切るその数秒で、どうにかこの気持ちが死んでくれたら。カップの底に溜まっていたミルクの甘さに顰められた顔は、皮肉にも男が瞳を輝かせているときのそれと酷似していた。
後日、沖矢昴という大学院生が例の彼と同じ動作をするものだから、これまた心をかき乱されることとなるのだがそれはまたの話としよう。
written by 飾
2024.06.06