月の背中に乗って

 私には、忘れられない断片的な記憶がある。
 八歳の頃、父と船旅中に突然海賊に襲われ、瞬く間に船が炎に包まれる中、黒いマントで覆われ、顔に刺青を入れた巨漢に「逃げなさい」と小舟に乗せられて、ひとり大海原をさまよった。子どもがたった一人で海に投げ出されて生きていけるわけがないのに、とそのときは思ったのだが、運が良いのか悪いのか、たどり着いたのは大きな国家を築く一方で売春を黙認する娼婦・男娼の島<アルカディア>だった。



 数分前に会ったばかりの男が下品な笑みを浮かべて私を見下ろしている。これからすることに興奮している様子で、手つきは丁寧なのに気持ち悪さが拭えない。男の顔の後ろに映る見慣れたはずの天井は、まるで初めて見るかのようだった。
『いいかい? お前の初仕事だ。しおらしく、か弱い女を演じて男の気を引くんだよ』
 今朝、煙管をふかした女主人が神経質な表情で私に言った言葉がふと脳裏に浮かび興覚めする。窓から差し込む月明りはロマンチックだったが、私の心はちっともこの雰囲気に馴染めないほど冷めていた。
 何がしおらしくか弱い女を演じて男の気を引く、だ。全員が望んでここにいると思わないでほしい。しかし、首を横に振れば恩を仇で返す気かと怒鳴られるだけなので、あの場は仕方なく頷いてしまった。
 この島に来て十年。とうとう迎えた初夜の晩。
 私のハジメテの相手はよくわからないどこかのチンピラみたいな男だった。ここへ来る直前まで酒を大量に飲んできたらしく、アルコールの臭いがきつくて吐きたい。

「君が噂の<白の麗人ホワイトビュート>だろ? へへ、まさかそんな上玉がいるとはな」

 肩に触れていた指先が鎖骨へ下りてくる。形を確かめるような撫で方にうすら寒さを覚えて身震いした。どうして私はこんな場所で組み敷かれて大人しくしているのだろう。
 誰が名付けたのか、<アルカディア>で育って十年が経ち、私のことをいつしかそんな小洒落た異名で呼ぶようになった。同僚や先輩の遊女には羨ましがられるが、ここで大金を稼ぐことよりももっと大切な何かがある気がして、私はいまだにこの生活に馴染めない。
 大好きだった父と突然離ればなれになったまま、漂流したこの島で人生を終わらせて本当にいいのだろうか。見ず知らずの男たちに好きなようにされるだけの人生でいいのだろうか。
 いや、私は――

「やっぱり無理。私の居場所はここじゃない」
「は?」
「ごめんなさい。あなたとはできませんっ……!」

 図書館で借りた『万が一のための撃退法』という本に書かれていた"男性の急所を思いっきり蹴る"というシンプルなやり方で目の前の男を跳ねのけ、部屋の窓から身を投げた。二階だったが、屋根伝いに隣の建物へ飛び移り、振り返ることなく走る。背中越しに聞こえてくる男の怒声を無視してひたすら。裸足だったし、どこまで行けばいいのかもわかっていないが、とにかくあの娼館から離れなければ。私の頭はそのことでいっぱいだった。
 進行方向に見える月が、まるで引力のように私を引き寄せ、脱走を手助けしてくれるように思えて仕方なかった。


*


 目的の港に到着したサボは、さてどうしたものかと頭を悩ませた。
 探している女の名前と身体的特徴しかわからず、顔がわからなければ服装もわからない。どこで働いているかという情報もなく、この広い島でひとりの人間を探し出すのはなかなか至難の業である。
 革命軍に在席してから早いこと十年。記憶は相変わらず戻っていないが、ここでの生活も板について今では参謀総長という肩書きもついた。数年前からチームの中心で動くことが増えたせいか、向こう見ずに敵地に突っ込んでいく自分をコアラやハックは咎めることもあるが。
 こうして順調に任務をこなしていた頃、唐突に上司であるドラゴンから「<白の麗人>と呼ばれる女を探しだし保護しろ」という命を受けた。詳細は一切伏せられており、娼婦・男娼の島<アルカディア>にいるということだけを頼りに探す旅に出ることになったサボは、バルティゴを出発してから二週間弱、ようやくその島にたどり着いたのだった。
 アルカディアという島については、サボも噂だけは知っている。身寄りのない子どもを引き取って、娼婦や男娼として育て金づるにしているという噂を。世界政府に加盟する国が法治しているが、娼館が黙認され無法地帯となった今、海賊や盗賊のたまり場になり、荒くれ者が集まる場所として悪い噂が絶えない。
 こうした島も革命軍がターゲットにするところであるものの、ドラゴンから得た指示は『ひとりの女を保護すること』だった。彼はとある人から託されたとだけ言ってあとは説明してくれなかったので、きっと極秘事項なのだろう。
 夜だというのに、港は活気づいていた。商船から木箱が大量に下ろされ、恰幅のいい男達が大声をあげながら荷台に積んでいく。どうやらこのあたりは娼館ではなく、レストランやマーケットなどの店が建ち並ぶエリアのようで、一般的な港町とそう変わらない雰囲気だった。

「サボ君、この近辺に娼館はないみたい。例の女の子は白銀館って場所で働いてるんだって」

 背後で声がして振り返ると、聞き込みをしてきたらしいコアラが町の奥のほうを指さした。町の中央まで行けば、花街――いわゆる娼館が集まる場所が存在するという。どうやら<白の麗人>は巷ではかなり有名な女のようだ。

「なら、その白銀館という場所に潜入しよう。客としておれが行く」と、答えた直後、港へ続く坂道から男が何やら急いで走ってくるのが見えた。息を切らして荷下ろししている男達の輪の中に駆けていく。
「お前、今まで何してたんだよ。こっちは重いモン運ぶのに苦労してるってェのによォ」
「それどころじゃねェんだよ! 海賊が女の子を追って森の中へ向かったらしんだが、詳しいことを聞いたら例の<白の麗人>だってさ。捕まえた奴には一億ベリーって破格の金だ」
「マジかよ。おいおれ達も――」
「おっさん。悪ィが、その話おれにも詳しく聞かせてくれ」

 ひそひそ話をするみたいに大の大人が頭を突き合わせているところに割り込んだサボは彼らに尋ねた。突然現れた見知らぬ男の姿に大声をあげた彼らは、しかし同じ金目的の一般人だと思ったらしく快く女の行方を喋ってくれた。


 港町の西側は「迷いの森」なんて名前がついており、知らない者がひとたび入れば戻って来られないと恐れられているらしい。確かに道という道はなく、進んでも進んでも同じような景色ばかりで開けた場所にたどり着かない。慣れていない奴からすれば、森を抜けて海へ抜けるのも、はたまた港町のほうへ戻るのも苦労するだろう。
 サボは月明りを頼りに、<白の麗人>の姿を探していた。よく晴れているおかげで、今夜はランプが必要ないほど明るい。
 男達の話によれば、白銀館から脱走した<白の麗人>は現在海賊に追われているとのことだった。娼館が雇った海賊なのか、それともまったく関係なく追っているだけなのかはわからなかったが、すでに市民が脱走の件を聞きつけているとなると、ほかの連中からも狙われている可能性がある。早く保護しなければ。海賊に捕まったら面倒だし、海軍まで出てきたらさらに面倒だ。
 だが、脱走したとは随分お転婆な女である。ドラゴンから十八歳だと聞いているが、娼婦をしているのであればもっと大人しそうなイメージをしてしまう。<白の麗人>、一体どんな女なのだろう。サボは単純に興味を引かれた。
 右斜め前方から、女の悲鳴が聞こえてきたのはその時だった。
 目を凝らして見つめた先に、行く手を阻むように海賊と思しき男達が何かを取り囲んでいるのが見えた。その隙間から、白いナイトドレスを着た女が岩壁を背に追い詰められている。距離にして数十メートル。サボは一直線に向かっていく。
 海賊は女が二人、男が三人の五人組だった。見たことない顔ぶれだったので無名の海賊かもしれない。娼婦ひとりなら簡単に捕まえられると思ったのだろうが、一般人の女に対して銃に短剣に刀と物騒な武器を振りかざすのはやりすぎだろ。
 サボは彼らに気づかれないよう、気配を消して一歩ずつ近づく。

「もう逃げ場はないよ、さっさと捕まっちまいな」
 中央に立つ背の高い女が言った。
「大人しく捕まれば痛い目には合わせねェからよ」と、刀を向けたのは太った男。
 しかし、海賊の脅しに<白の麗人>はまったく意に介さず、それどころか挑戦的な目で彼らを見据えている。

「捕まるわけにはいきません。私はここを出てやりたいことがあるのです」

 彼女の返しにサボは目を丸くさせた。随分と肝っ玉が据わっているらしい。
 段々と距離を詰めていき、ようやく彼女の姿をはっきり認識できるようになったところで息をのんだ。月影に照らされた肌は雪のように白く、白金の髪は月の光を受けてさらに輝いて見える。そしてサボがいちばん惹かれたのは、黒曜石のような輝きを放つ純粋そうな瞳だ。とても娼館にいる人間には見えなかった。
 海賊たちは彼女の言葉に眉をひそめて顔をひきつらせた。端にいた女が銃口を彼女に向ける。そろそろ応戦したほうがよさそうだと判断したサボは鉄パイプを構えて一気に距離を詰めた。

「口だけは達者のようだけど、お前の目の前にいるのは海賊だよ。ナメんじゃ――」
「一般人を捕まえるのにこんな武器は必要ないんじゃねェか、海賊」

 彼女と海賊との間に割って入り、鉄パイプで銃を弾く。宙に飛んでいった銃は弧を描いて森の中に消えた。と、同時に「誰だ」という声が飛び交い、瞬く間にその場は騒然となる。一斉に相手が襲いかかってきたので、サボは庇っている女を振り返った。

「おれの後ろに隠れてろ」

 返事を待たずに女を自分からさらに後方へ押しやり、敵との距離を開く。直後、やっちまいなという女船長の声とともに、海賊達は武器を振り回してこちらに向かってきた。
 億超えの賞金首ともなればそれなりに警戒が必要だが、正面から見てもやはり顔に見覚えがないのでサボ一人でも容易に済ませられる。港に置いてきたコアラ達には電伝虫で伝えればいいだろう。
 まず、刀を持った大男が滅茶苦茶な動きで振り回してきたので、「おっと危ねェ」ひょいと回避してみぞおちに一発、それから首にもう一発。こいつは筋肉より脂肪分が多いので殴打があまり効果ないようにみえたが、首への攻撃が効いたらしく、地面にくずおれた。バズと倒れた男の名前を呼んだあと、こちらを忌々しく見つめた女船長が舌打ちした。
 次にかかってきたのは銃を持った女と残り二人の男だった。格闘家なのか、顔が似ている男二人は両手の拳を胸の前で組み、パンチで襲いかかってきた。それを上手くかわせたと思った刹那、銃声が轟き、サボの肩すれすれをものすごいスピードで銃弾がかすめていく。

「卑怯だぞ」
「フン、海賊にルールもクソもねェだろ」
「そりゃそうだ」

 女の乱暴な物言いにサボはふっと口元を緩めた。最近こうした接近戦はなかったので、久しぶりに暴れてもいい戦闘に武者震いした。訓練ばかりじゃ腕がなまる。

「とはいえ、あまり遊んでもいられねェから一気にいくぞ」

 右手に構えた鉄パイプで、三人相手に立ち向かっていった。


*


 月光に照らされた金色の髪と漆黒のロングコートに長い鉄パイプ。迫りくる海賊達の前に突如現れた高身長の男は私を彼らから守ってくれた。どこの誰かもわからなかったが、とにかく強くて豪快で、戦闘を楽しんでいる様子すらあり、海賊達はまるで遊ばれているかのよう。船長である女も短剣で応戦したものの、力の差は歴然としていて、武器を奪われた彼女達は「<白の麗人>! あたし達はお前を諦めてねェからなァ」という捨て台詞を吐いて去っていった。
 そもそも追いかけられる羽目になったのは、白銀館を飛び出して屋根伝いに港まで走っていたときだ。突然銃撃を食らい(幸い左足をほんの少しかすめただけで済んだのでよかった)、どうやらもう追っ手を寄こされたのだと思って必死に逃げていた。相手が海賊だというのは女船長の帽子を見てすぐにわかったので、迷いの森へ逃げれば私にも勝機があると思った。
 ところが、手慣れた彼女達の攻撃に追い詰められ、とうとう逃げ場のない岩壁に追い込まれてしまった。聞けば、白銀館に雇われたわけではなく、とある人物に依頼されたとだけ教えてくれた。ただの一般人で狙われる覚えがないが、神様は私を見捨てていなかった。きちんと助けを用意してくれた。

「怪我してるな。悪い、気づくのが遅くなった」

 金髪の男が私の足元を見て申し訳なさそうにした。
 海賊達を追い払ったあと、話しやすい場所まで移動しようという彼の提案に乗って、ひとまず森を抜けて入り江までやってきた。陸地をえぐるように海が侵食してきている不思議な場所だったが、月の光を反射してキラキラ輝く夜の海は言葉にできないほど綺麗だった。

「いえ、かすり傷なので……それよりあなたは誰なんですか、どうして助けてくれたの?」
「おれは革命軍のサボ。お前を助けた理由は上司に頼まれたからだ」
「かくめいぐん……」
「娼婦のあんたでもその名くらい知ってるか」

 サボと名乗った男が人の好い笑みで言う。どうやら革命軍の人間らしい。
 この島にずっといた私も組織の名前くらいは聞いたことがある。革命家、ドラゴンが率いる世界政府と対抗する人々。各地でクーデターを起こし、一般市民を扇動していると新聞では批判されているが、実際は悪政を働く国や戦争に巻き込まれて生活の場所を失った一般市民を救っている。
 ただそんな組織がどうして私を助ける必要があるのだろう。過去に革命軍と接点があった覚えもないし、父の知り合いに革命軍がいたという話も聞いたことがない。

「でも、革命軍に助けてもらう理由がわからないです」
「その点についてはおれも詳しくは知らない。だからおれ達と来てもらう」

 手を差し伸べたサボの口調は柔らかいのに、どこか有無を言わさない強引さも感じられた。いきなり一緒に来いと言われて簡単に頷けるほど私の頭は単純ではなく、もっと思考を重ねて慎重に判断を下す必要があると思うのだが、心のどこかでこの人についていかなければならないとも思うのはどうしてだろう。
 保護しに来たという彼の話をまとめるとこうだ。
 彼の上司、ドラゴンから私を保護するよう頼まれたが、その理由については詳しく聞かされなかったという。ある人から託されたと言われただけらしいがまさか父なのだろうか。
 十歳の記憶は、実は断片的だったりする。船が海賊に襲われ、黒いマントの男に逃げろと船から下ろされたのだが、その男の人の顔もよく覚えていないし、父が助かったのかも知らない。しかし、ドラゴンが父と知り合いで、あの日助けてくれたのが彼だったとしたら? 私のことを託されたということにも頷ける。だったら、私はサボについていって、ドラゴンから話を聞くべきだ。

「無理やり連れていくのはおれも本意じゃねェが、ここにいたくねェんだろ? 逃避行だと思えばいい」
「逃避行……」
「やりたいことがあるとか言ってたな。すぐには叶えてやれねェかもしれないが、少なくともここにいるよりは近づくはずだ」

 サボが自信ありげに言うので、不思議とそんな気がしてくる。そもそもやりたいことというのはあの場をしのぐための建前でもあったが、娼婦として生きるなんていうのは死んでも御免だ。
 今ならはっきり言える。父の死の真相と託した相手がドラゴンであるのか確かめること。それが私のやりたいことだ。偶然にも、私はその場所に向かうための切符を目の前に提示されている。どうせ行く宛のなどないのだから、慎重になるとか単純だとかそんなことは捨て置いて、私はこの手を取るべきなのだと思う。

「オーケー。あなたについていくわサボ。よろしくお願いします」
「いい返事だ」

 サボがニッと笑って立ち上がる。彼の金色の髪と後ろに見える月がちょうど重なるように映り、綺麗な光景を作っていた。
 なんだか気分が高揚してくる。冒険の予感――私は確かにそれを感じたのだった。

written by ゆに
2024.12.31