花の名前を知ってるかい?

 まるで囚われた仔猫みたいに震えている彼女を見下ろしながら、サボは愉しそうに口元を綻ばせた。狭くて薄暗い教材室の隅で彼女に迫る自分と親友のエースは、さながら飢えた狼かもしれない。

「勝手にピアスホールを開けるとか言ったらしいな」

 エースがしゃがんで――いわゆるヤンキー座りで彼女に視線を合わせ問いただした。身に覚えがある彼女はわかりやすく反応を示して目を見開いた。なんで知ってるのかという顔だ。

「ど、してそれ……」
「悪ィな、たまたま聞こえたんだ」

 彼女の疑問に、サボは間髪入れずに答えた。その言葉に悔しそうな表情をした彼女が床を睨む。
 彼女が友人たちとピアスの話をしているのは、サボもそのとき偶然教室にいたので「たまたま聞こえた」というのは嘘ではない。エースはときどき授業を抜け出して校内の空き部屋で休憩という名の昼寝をしていることがあるが、サボはほぼ授業には毎回出席している。昼休みが始まってすぐ彼女は友人三人と机をくっつけて昼食を取るのが常だ。
 サボが席を立とうとしたとき偶然聞こえたのがピアスホールを開けたいという彼女の言葉だった。病院に行って医者に開けてもらうとか何とか、具体的な話をしていた。彼女はお洒落がしたいという至ってシンプルな理由で特に深い意味はなく呟いたのだろう。現に彼女はいま、どうして問いつめられているのかまるでわかっていない。

「おれ達に許可なく開けていいと思ってんのか?」
「頼む相手が間違ってるぞ」
「なに……どういう意味――」

 後ずさる彼女にサボは左から、エースは右から近づいて退路を断つ。彼女の背中の先は壁だ。逃げたって無駄なのに、抵抗するのが癖なのか、いつものことながら「やめて」「私は餌じゃない」と言葉を並べ立てる。けどな――
 今日に至ってはお前が悪いんだぞ。

「これで開けてやるから安心しろ」と、エースがニッと笑って自身の牙を指差した。その言葉にようやく理解を示した彼女は「嘘でしょ!? やめて、痛いに決まってるっ……」にじり寄るエースを引きはがそうと小さな力で押し返す。その隙に、サボは一気に距離を縮めて彼女の耳元まで唇を寄せた。

「そうは言っても、おれ達の牙にいつも感じてるだろ? 大丈夫、お前はただ受け入れるだけでいいんだ」

 諭すように、サボは珍しく優しい声でそう囁いた。


 ▽


 じわじわと体を這うように音の振動が左右両方から伝わってきて、ビリビリ痺れる感覚がする。鼓膜から神経をゆっくり撫でられているみたいで体が勝手に縮こまる。やめてほしいのに、そんなこと望んでないのに。二人の声が耳をくすぐるたびに、体がじんわり熱を帯びていく。
 ピアスホールを開けてみたいと確かに口にしたが、それがどうして彼らを怒らせてしまったのだろう。関係ないはずなのに、彼らは許可なく開けるなと言うし、その上自分たちが牙で開けるなんて横暴的すぎる。なんて理不尽な話なんだろう、ぼうっとし始めた頭の片隅で二人に対して恨み言を放つ。
 「すぐに終わる」「力抜け」という言葉の直後、尋常ではない痛みが襲ってきて耐えきれず悲鳴を上げた。耳たぶに突き刺さるような、引き裂かれるような――表現しようのない痛みが。その苦痛から逃れたくてもがこうとしても、二人が左右の肩をそれぞれ壁に押さえつけるせいで抵抗することすら許されない。
 早く終わって、と懇願するうちに痛みは次第に甘さを帯びてくる。耳元で血をすする音が聞こえる。いつもよりダイレクトに振動が伝わってくるからか、聴覚が麻痺を起こしていよいよ痛覚どころではなくなってしまった。

「んッ……」
「良い顔だな。可愛い」
「そこ、で喋らない、でっ……」
「――って言われると余計喋りたくなるんだよ」

 瞬間、強く吸い上げられる。まるでわざと音を立てているみたい。すごく卑猥で、けれど視界に映るのは彼らの髪の毛だけ。いま自分の耳がどんな状態なのかもわからない。怖い。なのに、身体の熱は治まるどころかどんどん加速するように内側から自分を追い詰めていく。

「あ、やっ……だめっ」
 もはや痛みは最初の一分くらいで、あとはもう彼らから与えられるキスのようなそれに耐えることのほうが自身にとってある意味では苦痛だった。
 ある日突然「美味そうな血」だと認識されて、事あるごとに血を吸われ、終わる頃には体力を奪われている。私が一番戸惑っているのは、痛いのに快感が伴うことだった。決してそんなつもりはないのに、身体が勝手に「気持ちいいこと」だと判断している。それが納得できなくて、けれど抗えなくて結局流されてしまう。とはいえ、拒否しても彼らは私の事情など関係なくこうして吸血してくることに変わりはないけれど。

「お前、腰が浮いてる」

 エースが一度耳元を離れ私に向かって妖しく笑ったかと思うと、するりと腰を撫でていった。「はっ……ぁ」出したくもない声が自分の喉から発せられる。でも、実際に身体の火照りは高まるばかりで一向に治まらなかった。
 耳がふやけていくのではないかと心配になるほど散々弄られた末、ようやく解放されたときにはすでに私の体は力が入らない状態だった。だるくて、起き上がるのもしんどくて。そんなどうしようもなくなっている私を、サボが「大丈夫か」なんて白々しく聞きながら背中を支えてくれた。

「最低っ……」

 涙目になりながら、二人に向かってそう叫んだ。しかし当の本人たちは意に介したふうもなく満足そうにこちらを見ている。やっぱり吸血鬼の彼らのことなんて一ミリもわからない。

「ん。似合ってるな」
「外すんじゃねェぞ。外したらタダじゃおかねェからな」
「おいエースやめろって。まだ体力戻ってねェんだぞ」

 訳の分からない会話を始めた二人に首を傾げていると、どこから持ってきたのかサボが鏡を手渡してきた。見てみろということらしい。言われた通り、鏡を自分の耳元に近づけて――

「あ……」

 そこには小さなピアスが存在を主張するように輝いていた。右にも同じようにはめ込まれている。いつの間にこんなものを……?
 ピアスは白い花がモチーフになっているデザインで、目立ちすぎずかといってわかりにくいというわけでもなく、程よい感じがお洒落な雰囲気を醸し出していた。可愛いだけに、二人がどうして前触れもなくこんなものを用意していたのだろう。ピアスの話は確かに前から何度か友人と話したことはあったけど、彼らの前で話した覚えは一度もない。

「なんでって顔してるな」
「お前がピアス開けてェってのは前々から知ってたんだよ」
「でも、だからってこんな都合よく、」
「なあ」サボが私の言葉に被せて言った。
「……?」
「たとえ医者だろうとお前の体に穴を開けるなんて許されねェ。おれ達以外が」

 子どもを躾けるような口調で静かに優しく、いつもの傲慢さとはかけ離れた話し方だった。まだ少しぼんやりする頭は、その言葉をかみ砕くのに時間を要した。
 "おれ達以外に、体に穴を開けられるな"
 サボが言いたいのはそういうことだろうか。そんなまるで自分たちのものみたいに言わないでほしい。私の体は私のものであって、彼らのものなんかじゃ――

「いいか。外したらタダじゃおかねェぞ」

 鏡を見ていたら、急に視界にエースが入り込んで先ほどと同じ台詞で釘を刺す。射抜くように見つめられて、蛇に睨まれた蛙のように思わずこっくり頷いた私はすぐに後悔した。
 ああ、また彼らの思うつぼにはまってしまった。
 鏡の中に映るピアスがキラリと光る。この白い花の名前は一体なんて言うんだろう。なんとなく考えたくなくて、私は鏡の中のピアスから視線を逸らした。

top