甘ったるい愛の果実に溺れて死ぬ
酷く怠い体を引きずりながら誰の手を借りるでもなくここまで来たというのに、彼らは何の労いの言葉もなく「おせェ」だの「待ちくたびれた」だのと文句を言うものだから、ナマエは胡坐を組んで頬杖をついている二人組を睨みつけた。
薄暗くて埃っぽい臭いが鼻につく。相変わらず物が散乱していて整理整頓されている形跡のない部屋は、混沌としていてどうも落ち着かない。本来なら入れるはずのない部屋にいることが、ただでさえ疲れている体に余計に疲労感を増幅させた気がしてナマエはため息をついた。
一階の教材室は彼らのたまり場である。各教科の問題集や辞書、地図など授業で使用する物品がこの部屋に収納されているのだが、どういうわけか彼らの休憩室と化し、いいように使われていた。なお、教師がこのことに気づいているのかは定かではない。面倒事に巻き込まれたくないナマエは、この事実を知っていながら沈黙を貫いている。
下校時刻をとうに過ぎた午後六時。三年の秋ともなればすでに部活を引退しているどころか受験勉強に勤しむ時期だが、ナマエは進学ではなく就職する予定になっていた。友人たちがこぞって予備校に通う中、ナマエ一人で帰宅するはずが、後輩から呼び出しを食らってそれに付き合っていたらもう外は真っ暗であり、やっと終わって帰ろうとしたところに、今度は彼らから呼び出される始末。なんだって私がこんな目に――
立っているのも億劫になってきたためにしゃがもうとしたナマエは、しかし床につこうとした左手をとられてバランスを崩し、胡坐をかいた目の前の(見た目だけ)爽やかな金髪――サボまでダイブするように前のめりになった。「ひゃっ」まるでナマエのほうから抱きついているように思えて慌てて身を引こうとしたのに、その努力も虚しく男が力強く引っ張ったため叶わなかった。訳あって貧血気味の体はそのまま彼にもたれかかり、抵抗する気力もなくその場に留まる羽目になる。
隣にいるもう一人の黒髪の男――エースが先ほどからやけに静かだと思っていたら、急に近づいてきて「これ、どういうことだよ」とものすごい不機嫌な顔で首の横を指さした。
「あっ……」
気づいたときには遅く、隠そうとしたナマエの手はエースに阻止され、そのまま髪を払われた。二人の視線がナマエの首に注がれる。サボにゆっくり上体を起こされて、まじまじとその部分を見つめられれば別に何か悪いことをしたわけではないのに、なんだかばつが悪い気持ちになって俯くしかなかった。
そもそもこれはナマエのせいではなく、彼ら同じ特異体質の人間が原因であり、ナマエはむしろ被害者という立場を主張したい。こちらに非はないのだ。
この学校に変な噂があることは知っていた。入学してすぐに友人たちが「生徒の中に吸血鬼がいるらしい」と騒いでいたのを思い出して、ナマエはそんなおとぎ話のようなことがこの現代にあるわけないと鼻で笑っていたのだが、ある日突然吸血鬼の餌食になったナマエは自由奔放な二人にされるがまま血を吸われてその存在を認めざるを得ない状況に陥った。
「黙ってたらわかんねェだろ。理由を説明しろよ」
エースの口調が厳しくなり、咎める言い方にナマエは肩を竦めた。彼に比べたら僅差で優しいサボに助けを求めて視線を送ってみたが、憐れむ目を向けるだけで何も言ってこない。
すぐに熱くなる癖があるエースは手がつけられないのか、親しい間柄でもなかなか世話が焼ける質らしい。思えば喧嘩を吹っかけるのは大体エースのほうで、サボは冷静に状況を見ており、場合によっては彼を止める姿を見かける。
とはいえ正直に言ったところでエースの機嫌が直るとは思えなかった。
初めて吸血されてからというもの、彼らはたびたび「ほかの奴には気をつけろ」と謎の忠告をしてくるのだが、詳しく聞いても教えてくれないのでナマエもよくわからないまま学校生活を送っていた。唯一わかっていることと言えば、一度吸血されると、本人の意思に関係なく血の匂いを周囲に振りまいてしまうらしいということだ。それも吸血鬼だけが嗅ぎ取ることができる匂いを。まったくもって理不尽なメカニズムであり、自分には何のメリットもない。
だからといってその忠告を本気で受け取ったわけではなく、特別気にする必要はないと思っていた。吸血鬼しかわからない匂いなら普段通りに生活していて問題ないし、逆に警戒すべきはエースたちのほうなのだと。
わかるはずもない。そもそも彼ら以外にも吸血鬼がいるなんて聞いていないし、勘弁してほしい。
「説明したってどうせ怒るくせに」
「……わかってんなら話は早ェ。言い訳ぐらい聞いてやる」
「言い訳も何も不可抗力だったんだって。ルフィやゾロも吸血鬼だなんて知らなかったんだから」
用事があると後輩に言われて向かった先はバスケ部の部室だった。
二つ下のゾロが聞きたいことがあるから放課後部室で待っていると、自分宛に連絡きたのが五限目終わり。思えばこのとき不信感を抱くべきだった。確かにバスケ部の先輩ではあるものの、ナマエはマネージャーでもなければ女子部の部長でもない。練習日が同じといっても、男女で関わることはほとんどないのだ。ましてや後輩なら尚更。ゾロと話したことだって数回程度だし、彼が懇意にする女子部の人間は自分ではなかったはずだ。
そうしていざ向かってみたら、いたのはゾロだけじゃなかった。彼とつるんでいるルフィ、それから一年の問題児であるトラファルガー・ローやキッドまでいたのである。それから後は察する通り、彼らに逆らえず血を与えてしまった。馬鹿みたいに後輩を信用した自分が恥ずかしい。
「あいつらには近づくなって言っただろうが」
「言ってないよ。二人とも気をつけろしか言ってないから。わかるわけないじゃん」
「もういいよエース。言ってもわからないナマエには体に教え込むしかねェんだ」
「はあ? 意味わかんないっ……それに今日はもう無理だよ……疲れてるの」
そもそも弁解を聞く余地がないらしいサボは再びナマエの体を引き寄せると、逃げられないよう横抱きにして抱え込んだ。相変わらず胡坐の姿勢を崩さない彼の上に収まってしまい、「離してっ……」と逃げようともがく。しかし、力で敵うはずもなく簡単にいなされて動けない。
自分勝手な彼らに苛立ちを込めた視線を送る。やはり最初からこちらの言い分を聞く気なんてなかったのだ。大体この学校はどうなっているのだろう、なぜ吸血鬼ばかりが集まっているのか。知ってたらこんな学校来なかったというのに。
そんなこちらの思いも虚しく、おれらに楯突くなという二つの視線を浴びて肩を震わせた。
「ナマエ。お前の血はおれ達だけのモンだってことを忘れるな」
サボの唇が妖しく弧を描いた。同い年なのにどうしてこんな妖艶に笑えるのだろう。この表情に恐怖を覚える一方で、ゾクゾクと恐怖とは別の何かが背中を駆け巡る。ナマエを虐めるのが愉しいとでもいうような顔。普段の分け隔てなく優しく接する彼からは想像もできない、加虐的な部分が顔をのぞかせる。
二人に関わるようになってから知ったことだが、サボはエースのように普段から親しい人間以外寄せつけないどころか基本的に誰とでも仲良くなれるタイプであるのに、どういうわけか時折見せる相手に有無を言わせず自分の意のままに従わせる面があるのだ。
サボの手がゆっくりとナマエの喉元に触れる。すりすりと猫を愛でるような手つきにくすぐったさを覚えたのも束の間、彼の顔が近づいてきたかと思った刹那、喉に激痛が走る。あまりの痛みに声を出すことができない。そしてそんなナマエの苦痛の表情に、サボは満面の笑みを浮かべた。
「どうしたナマエ。いつもみたいに啼いてくれねェのか?」
「いたっ……サボ、痛いよっ……ッ」
「んっ……」
ナマエの訴えを聞いているのかいないのか、そのまま強く吸われて更なる痛みに短く叫ぶことしかできない。
サボが優しいなんて、誰が言ったんだろう。そんなの嘘だ。彼は、表向きは確かに優しいかもしれないが、吸血鬼になった彼は優しさとかけ離れた存在だ。ナマエには本能のまま獲物を貪る悪魔に見える。
このまま意識が飛ぶまで終わらないのだろうかと絶望しかけたとき――
「おいサボ、そのくらいにしとけ。気ィ失っちまう」
すでに脳内がぼんやりとする中、ナマエは珍しく冷静な態度でいるエースに視線を向けた。すっかり体内の血を奪われた体は起き上がる気力もなく、サボの腕に力なく抱かれたままだ。「わかってる」首元から顔を上げたサボの口の端に赤い筋が見える。それが自分の血だと思うと、本当に吸われているのだと自覚させられる。サボはナマエを抱えたまま立ち上がったかと思うと、近くのソファに座らせた。
本当にまずいかもしれない。クラクラする。視界がぼやける。ぼうっとしている間に、右にエース左にサボが腰かけてきたのはわかったが、彼らが何をしようとしているのか、もはや抵抗する元気がナマエには残っていなかった。
浅い呼吸を繰り返しているうちに、エースが覆いかぶさってくるのが見えた。
「……とは言ったがナマエ。これで終わりだなんて思ってねェよな? おれァ怒ってんだ」
「はっ……ん、エース、待っ――」
後輩に付けられた傷痕に、エースがそっと唇を寄せた。まださほど時間が経っていないからか、じんとした痛みが残っている。舌でなぞりながら、エースが新しい傷を同じ場所に穿つ。それは痛いはずなのに、すっかり慣れてしまった自身の感覚が麻痺したのか、心地よい眩暈とともに神経を優しく撫でられているような甘い痺れが駆け巡る。
体が熱くなって、ますます脳内がふやける。抵抗力も判断力もない今のナマエは、彼らにしてみれば恰好の餌食そのものだった。サボと同じように愉快な表情を作って口角を上げるエースがぼんやりと映る。
「言ってもわからねェなら、体に覚えさせるまでだ」
「ナマエの手は白くて綺麗だな。紅がよく映える」
左右から同時に聞こえた台詞の直後、
――かぷり。
「んッ――」
鎖骨と手首の内側に牙が穿たれ、血を貪られる感覚がナマエを襲った。荒々しさの中に慈しむような――普段であれば考えられない感情を向けられているようで、体の奥がずくんと疼いた。
遠のいていく意識の狭間で、二人の妖しい笑みが脳裏に焼きついて離れなかった。