サボくんと図書館
テスト勉強を一緒にやろうと提案したのは確かにのほうだったが、まさかここまで真面目にすると思っていなかったサボは手持ち無沙汰にペンをくるくる回してぼうっと隣に座る彼女を見つめた。入口から見ていちばん奥まった場所を陣取ったので、端の書架に用がない限りここは死角である。
午後の二時。平日の図書館は比較的空いている。館内のあらゆる場所に設置された閲覧兼勉強スペースは学生が多いらしい。制服姿の高校生や大学生と思われる人が一つ空きの間隔でうまっていた。図書館という「静」をそのまま具現化したような場所は普段から爆音の中で生活するサボにはやはり落ち着かない。喋ってはいけないルールはないだろうが、ほとんどが一人で来館しているから喋る必要がないのだ。つまり、サボとのように二人以上で来る人間のほうが少ないのである。
隣ではが物理の計算問題を一生懸命考えていた。先ほどから同じ問題を考えているのか、数分前に見たときとノートの埋まり具合に変化がない。彼女の成績は悪くなかった(それどころかどちらかというと上位だった)はずだが、どうやら苦手な分野もあるらしい。書いては消して、消しては書いて。教科書と問題集を行ったり来たりさせて励んでいる。真面目だなァ、と真剣な横顔を見ながら苦笑いをこぼしてふと二時間前のことを思い出した。
テスト一日目が終了してのクラスへ行き、彼女と親友のエースを待っていたサボは、しかし先にやって来たエースから「なんでお前らと一緒に帰らなきゃいけねェんだ」と文句を吐き捨てられて、一瞬きょとんと相手を不思議そうに見た。そのあとすぐに、ああなるほどと納得したものだが、エースにしては空気を読んだのかと失礼極まりないことを思った。ああいう言い方なのは照れ隠しのつもりか、サボとを二人きりにさせてくれたのだろう。
付き合ってそろそろ一か月が経とうとしている。好きだと先に言ってくれたのはだったが、サボも彼女に対して好意を抱いている自覚があったので流れるまま彼氏彼女の関係になった。だからといって別にエースやルフィを蔑ろにしているわけではなく、バンド活動も続けているし、彼らとも頻繁に会っている。むしろ四人でいることが確実に増えたので、逆にエースが気を遣ったのかもしれない。
サボが返事をするより早くエースはさっさと昇降口へ行ってしまったので礼も言えなかったが、どのみち同じ家に帰るのだから構わないだろう。エースが行ってから数分と経たないうちに、が支度を終えて出てきたので二人で下校する。話は自然とテストのことになり、から勉強はどうしてるのか聞かれて適当に復習して終わりだって答えたら目を見開いて驚かれたのだ。
こうして、だったら一緒に図書館でやろうと誘われたので嬉々としてついてきたわけである。先述の通り、と二人きりになれる時間はそうそうないから。なのに――
「なんでこうなるかな」
「……え、なんか言った?」
つい口に出してしまったらしく、耳ざとく聞き取ったがこちらに顔を向けた。何かの映画のヒロインを真似た髪型だというショートボブがよく似合う。彼女は特別美人というわけじゃないけど、バドミントン部で鍛えた健康的な手足は思わず二度見したくなるほど魅力的だ。スラっとしてて、でもほどよく筋肉がついている。机の下に隠れているスカートからのぞく素足が隣にいるサボを誘惑してくるのでなるべく見ないようにしていた。
こてん、と首を傾げたはあざとい女子のそれに似ているが、彼女はこう見えて計算した行動ができないタイプである。
出会った頃のは、派手で目立つグループにいながら実際のところ心はいつも孤立していた。学校と家しかない"高校生"という立ち位置からもがき、普通で終わりたくないと願い、新しい居場所を求めている不思議な女の子だった。バンド活動をする自分たちに憧れの眼差しを向ける一方で、学校での立ち位置を失う勇気がないと嘆いてもいた彼女に、サボがそっと背中を押してあげたのだ。
そういう経緯があって四人でいることが増えてからのはみるみるうちに、自身の感情をはっきり表現するようになっていった。楽しいときは笑い、悲しいときは泣き、好き嫌いを正直に伝える。建前なしのそれは簡単そうで実は難儀だと語っていた彼女が、こうして取り繕うことがなくなったのは良い傾向だった。
でも。おれはエースやルフィと同じじゃ納得できねェよ。の特別になったんなら、あいつら以上に知りたいし、近づきたい。
だから悪いな。ちょっと付き合ってもらうぞ。
「。おれ飽きたから、ゲームしようと思うんだ」
「意味がわからないんだけど……ここでゲームするの? ていうか飽きたってテストは大丈夫なの?」
「まァなんとかなるよ、物理と世界史は苦手じゃねェし。それに言ったろ? 適当に復習して終わりだって」
「じゃあ教えてくれないかな、どうしてもわからない問題があって全然先に進めないんだよね」
その言葉を待っていたかのようにサボは歯を見せて笑った。
いいよ、教えてやっても。
との距離をつめて、彼女がわからないという問題を見る。確かにこれは公式を当てはめるだけではない一捻り必要な発展問題だった。ペンを動かしてまずは自分が解いてみる。少し複雑だったが、解き方がわかればなんてことない。計算は得意だから。
答えが導き出せたところで、に「できたよ」と見せる。「本当に得意なんだ」驚きつつ感心の目を向けてくる彼女に、サボは悪戯を思いついた子どものように意地悪い表情を作ってさらに近づいた。
「教える代わりと言っちゃなんだが、一問正解するごとにキスさせて」
「えっ! どういうこと!?」
「バカ、大きい声出したら聞こえるだろ」サボが慌てての口をふさぐ。幸いなことに館内の一番奥側ということもあって不審に思われることはなかったが、いつ誰が来てもおかしくないのであまり大きい声を出すのは得策ではない。そもそも図書館でこんなことをするほうが間違っているのだから。
と、真面目な優等生――というか一般的な感覚を持っているならそういう思考になるのだろうが、生憎サボは頭の出来は良いほうだという自覚はあっても優等生ではないので律儀に守ることはしない。自分のしたいようにする。もちろん周りに迷惑かけないといった自制心はかろうじて残っているが。
うろたえるの口に人差し指をあてて静かにするよう促し、こくんと小さく頷いたのを確認してから「よし、じゃあ始めるか」と視線を問題集に移した。
やっと楽しみを見つけたサボの表情には今日一番の笑みが浮かんでいた。
*
物理はできるほうだというサボに教えてもらえるはずが、話が変な方向に進んでしまっては内心ひやひやしながら目の前の問題を解いていた。横から注がれる楽しそうな視線に落ち着かない気持ちで計算に励もうと努力する。
勉強に飽きたといって三十分と経たないうちに放棄したらしい彼が「教えるから正解するごとにキスさせてくれ」と頼んできたのは少し前のこと。下校中テストの話になって、どうせなら一緒に勉強したいとサボを図書館に誘った。昼食を取ったら図書館に集合ってことにして、普段使っている特等席が空いていたのでそこを二人で陣取りすること数十分。早々にサボが飽きていることには気づいていたものの、明日は苦手な物理なので自身のことに精一杯になっていた。そのせいかどうかはわからないが、サボが妙なことを言い出して半ば強制的に参加させられる羽目になった。
浮力。液体によって物体を押し上げる力。水圧。水による圧力、水深が大きいほどその力も大きい。あ、これは公式に当てはめるだけか、なんだ簡単……。
黙々と一ページ分の問題を解き終えて、サボに答え合わせをしてもらう。心臓がバクバクと早鐘を打っているのを感じながら、は問題集にバツ印が増えていくのを見て安心する。いくら書架のおかげで死角になっているからといっても、公共の場でキスなんて恥ずかしい。サボにとってはなんてことないのかもしれないが、今まで彼氏がいたことないにはハードルが高すぎるゲーム内容である。
丸つけが終わったのか、サボが一度ペンを置いてに体の正面を向けた。
「、お前……」
「な、なに」
「わざと間違えてるだろ、これ」
「……やだな、そんなわけないでしょ。ほんとにわからなかったんだよ」
「じゃあこれは? なんで最初書いてある答えを消して書き直したんだよ」
「ぐっ……」
サボの示す先は二つ目の問題だった。公式さえ知っていれば、当てはめるだけで済むたった二行の問題。計算も難しくない。何よりは数学に関しては得意中の得意だから計算ミスなどめったにしないのだ。そして、運悪くサボはそのことを知っている。
簡単だということは正解する可能性も高いし、つまりサボとその――キスをしなければならない。別にしたくないわけじゃないけど、なんでこのタイミングかつ図書館なのか甚だ疑問だった。
だからせめてもの抵抗として、は答えをあえて書き直したのだがどうやら意味がなかったらしい。すぐにバレてしまった。
「お前が計算得意なことは知ってんだ。暗算でもできるこの問題を間違えるはずがねェ」
「だって正解したら、きっ……キスするとか言うから」
「おれとしたくないのか」
「ちが、そういうことじゃなくてっ……なんでここでしなきゃいけないのってことで」
ああ、もうなんで言わなきゃいけないのか。はもどかしさにぐっと口を噤んだ。最後まで言わなくてたってわかってるくせに、サボはある意味エースより質が悪い性格だ。好き嫌いがはっきりしているエースはこんなふうに相手を試すようなことはしない。言い方はきついが、まっすぐ言葉をぶつけてくるだけまだマシかもしれなかった。
おかしい。出会った当初はもっと優しく、暗い海の底からを救い出してくれたはずだったのに。付き合った途端、まるで人が変わったみたいに意地悪だ。
「なんでってそんなの別に意味なんてねェよ。あえて言うなら暇つぶしか? せっかく二人きりなのにがちっともこっち見ないからつまらねェ」
「……」
頬杖ついて本気で「暇つぶし」だとか「つまらない」だとかのたまうサボの顔を見ながらは呆然としていた。
つまり、あれなの? 構ってもらいたいってこと? なにそれ可愛い。三人の中でいちばん大人っぽい雰囲気出してるくせして、急に子どもみたいなこと言うんだなあ。
の胸がきゅんと疼いた。なんて返したらいいんだろう。サボのことは好きだし、二人きりになれたことも嬉しい。一緒にテスト勉強するのだってちょっと憧れていた。一人でいるのも嫌いじゃないけど、隣に誰かがいて苦しくなるのは初めてのことだった。この形容しがたい切なさと苦しさというのは好きな相手にしか抱かない感情なんだろう。だからといって意地悪されるのは御免こうむりたいところだった。
「あのさ……せめて勉強おわってからにしない?」
「おれも知らなかったけど、どうも好きな子はいじめたい質らしい」
「えっ、あ、ちょっ……んっ」
が返事をする前に、サボによってその口は塞がれてしまった。
ああ。落胆しながら、けれどどこか未知の刺激に背中がゾクゾクする感覚もあって。結局流されるままサボのペースに巻き込まれる形になった。
は忘れていた。この人もまた、エースルフィと同類の自由人であることを。