月下のバルコニー
「サボ。そのくらい一人でできるわ」
艶やかなストレートの髪がサボの真っ黒なタキシードに触れた。すっかり使わなくなっただろうお嬢様言葉は、ブランクを感じさせないほど違和感がない。
美しい肩と鎖骨を晒し、ふわふわとした生地が胸元から腕にかけて覆い、そこから細い腕が伸びている。詳しいことはサボにはわからないが、ベージュを含んだピンク色のドレスは足首あたりまで隠して上品さを強調させていた。華やかすぎず、しかしそこにいるだけで存在感を放つ今の彼女は立派な貴族の令嬢だった。
椅子に座り、靴擦れを起こしてしまった踵に応急手当をしたあと、再び靴を履こうとした彼女の手を止めて、サボが彼女の足元に触れたときだった。一人でできる――そう言われて苦笑する。それはそうだろう、普段なら絶対にこんなことしない。だが、今の状況は"普段"ではないので仕方ないことだった。
「いいえ、フレイヤお嬢様。これも私の務めですので」
恭しく片膝をついて彼女の前に跪き、普段の自分では到底"らしくない"口調で答える。そして白くて綺麗な足首にそっと触れながら今日のドレスに合うリボンがあしらわれた低めのヒールの靴を履かせた。
リベルタ城内の大広間から少し離れた廊下の曲がり角。そこに設置されたベンチには、貴族の令嬢に扮した恋人フレイヤがドレスを身にまとい、執事役であるサボに向かって「ありがとう」と令嬢らしく、しかし彼女らしくないちょっと横柄な態度で礼を言った。パーティーの歓談中、足を痛めた彼女に付き添って少し休憩をとっている最中のことだ。
良家の令嬢たちが社交界へデビューするためのお披露目パーティー。王への謁見を歯切りに一人前のレディとして社交界への参加が認められ、彼女たちは将来の伴侶を探すため王族・貴族、そして上流階級の名家など爵位や称号を持つ人々が集まる舞踏会に出席するという。今日はその社交界へいよいよ旅立つ、十六歳から二十歳までの令嬢が集められたパーティーである。
どうしてそんな場所に革命軍であるサボがフレイヤと出席しているのかと言えば、今回のパーティーの招待客の一人にターゲットが出席することが判明したからだ。
名はローズウォール侯爵。個人資産家で世界各地にいくつもの不動産を持ち、ワインコレクターとしても有名で自身の家にはワインセラーがあるという。話だけ聞けばただの金持ちにすぎないが、実はこの男、武器商人・薔薇侯爵という名で裏の顔を持っており、独自ルートで取り寄せた武器を内戦地域へ送って戦争を助長している非常に危険人物である。
今回、そのルートを見つけ取り締まり、武器の輸出を止めることがサボ達に課された任務だ。そして手始めに、ローズウォール侯爵が参加するこの社交界デビューパーティー、通称「デビュタント・バル」に潜入調査としてサボとフレイヤが選ばれたというわけだ。理由は簡単、自分達が元貴族で適任だからである。
こうして彼女は貴族令嬢、そしてサボはエスコート役の執事としてパーティーに参加する資格を手に入れ、現在二人で潜入中だった。彼女も設定上社交界デビューの令嬢だが、実年齢は二十二歳なので二十歳として偽り、デビューする令嬢の印である羽飾りを頭につけている。
靴を確認したフレイヤが立ち上がり、くるりと振り返ったかと思うとこちらに向かって微笑みかけた。いつもと違う格好にサボの心臓がざわめく。着飾らなくても彼女の容姿は当然好きだが、こういうときにしか見られない濃い化粧の彼女もまた妖艶なのだ。
「ふふ。でもサボってば、執事っていうよりボディガードみたい」
小声で内緒話をするようにフレイヤが耳打ちしてくる。いたずらっぽく愉しそうに笑っている姿はいつもの彼女そのもので調子が狂う。
「なんだよボディガードって。どう見ても執事そのものだろ?」
「だってこっちに話しかけてくる人たちに今にも噛みつきそうな番犬みたいな顔で対応してるんだもん」
「……」
「まあ私が潜入調査に慣れてないから気を遣ってくれてるんだと思うけど、これでもサボより貴族生活が長いからこういうの得意だよ」
ちょっと得意げに言うフレイヤに向かって、そうじゃねェよとサボは胸中ですかさず否定してから、まったく理解していない目の前の令嬢に対して聞こえない程度にこっそり嘆息した。これだから彼女を一人にさせられない。
パーティーの参加者には令嬢のほかに、爵位を持つ人間や貴族も当然多くいる。その中にはまだ伴侶のいない男もいて、デビューする若い女を狙っているのが透けて見えた。フレイヤの演じる令嬢の設定は、「リベルタ南方地方の資産家の娘」だが、彼女よりももっと地位が高い女はいるというのになぜか彼女に色目を使おうとする輩が多いのが目に余った。
とはいえサボには彼らの気持ちがわかる。贔屓目なしに、フレイヤがこのパーティーに参加する貴族令嬢の中で一番綺麗だからだ。それは容姿だけではなく、一連の所作からにじみ出る内面の美しさも関係している。総合的に考えて、フレイヤより良い女はいない(サボの過大評価含む)。
「ともかく広間に戻ったらお嬢様と執事に戻るぞ。いいな?」
「ええもちろん。では早速だけど――」
フレイヤが右手を差し出してくる。その意味を瞬時に理解したサボは口元に笑みを浮かべてから、「お供いたします」と再び慇懃な態度で彼女の手を取った。
*
サボやコアラからくれぐれも目立たないようにと口酸っぱく言われていたのに、フレイヤは今バルコニーでシャンパンを頭からかぶっていた。デビューの証である羽飾りも、着飾ったエレガントなドレスもこれでは台無しである。
事の始まりは三十分ほど前。ターゲットであるローズウォール侯爵がなぜか話し相手として執事のサボを気に入り、人がいないところで話したいというので大広間の隣である小さな控室に二人して消えた。サボはフレイヤを一人で残すことにあからさまに嫌な顔をしたが、任務のほうを優先すべきなのでフレイヤは「私のことは構いません。どうぞお二人で」と侯爵に譲った。会話の節々からサボの頭脳に目を付けたのかもしれない。
こうしてフレイヤは「広間の隅で大人しくしてろ」と言われたのだが、数分後にそうも言っていられない事態を目にしてしまった。貴族の間ではよくあることで、フレイヤにも経験があることだからこそ放っておけなかったというのもある。
国王への謁見が終わり、大広間で招待客が思い思いに過ごしている中、一部の令嬢達がバルコニーに消えていくのが気になったフレイヤはこっそり後をつけていったのだ。
「貴女のような家柄の娘が公爵様に見初められるのは何かの間違いじゃなくって?」
「土地の面積で言えば、我が××家のほうが上ですし、称号の数も違いますわ」
「それに貴女そのドレス……なんだかみすぼらしい色だと思いません? お披露目ドレスは白かピンクと決まっていますけど、貴女のはなんだか……くすんだ茶色に見えますわ」
その言葉に一度馬鹿にするような笑いが起きてから、「けど、貴女にはそれがお似合いだと思います」と中央にいる××家だという女性がとどめを刺した。
囲まれている女性のほうは俯いたまま何も言い返せずに震えていて、近くで聞いていたフレイヤには令嬢間でよくある妬み嫉みの醜い罵りだとすぐに理解できた。自分にも苦い経験があるし、言われる側の気持ちがよくわかる。大事にならなければそのまま立ち去るつもりでいたのが、一人が「そうねえ。でもこうしたら華やかになるんじゃなくって?」と持っていたシャンパングラスを目の前の俯く彼女に傾けたとき、フレイヤは無意識に動いていた。
ぱしゃん――
羽飾りから髪、顔、そしてドレス。勢いよく飛び散った液体はフレイヤの全身にかかっていた。微かにフルーティーな香りがする。
「かの××家ともあろうご令嬢がこんな陰湿ないじめをなさるなんて聞いて呆れます」
フレイヤはかぶったシャンパンを気にもとめず、目の前の令嬢たちを冷ややかな目で見つめた。突然割って入ってきた人間にみんな驚きを隠せないが、中央にいる女性だけはぐっと唇を噛み、悔しそうな表情でフレイヤを睨んでくる。
「フン。誰かと思えば、いろんな殿方からモテてらっしゃったフレイヤさんとおっしゃったかしら。その子と貴女に何の関係があるの?」
「関係がなかったら助けてはいけないの? あなた方がやっていることは立派ないじめですわ。そんなくだらないことをする暇があるなら、好いている殿方にアピールでもなさったほうが賢明だと思いますけど」
「う、うるさいわね。ちょっと容姿がいいからって調子に乗ってんじゃないわよ!」
ぱしん――
今度は頬に痛みを感じて、叩かれたことに気づく。まさか大人になってまで頬を叩かれることがあるとは思ってもみなかった。
確かに何度も話しかけられたのは事実だが、サボがほとんど対応したので実際フレイヤと話し込んだ男性はいない。任務に忠実に動いているので調子に乗っているつもりもなかったフレイヤには、言いがかりだと納得いかなかった。「お言葉ですけど」と言い返すために口を開いたとき、「お嬢様!」誰かの声が重なってフレイヤは開いた口を一旦閉じて、こっちへ向かってくる人物に目を向けた。
光沢感のある黒のタキシードに、普段はウェーブがかった髪を今はべったりなでつけてオールバックにまとめている執事のサボが血相変えて走ってくる。ローズウォール侯爵との話はもう終わったのだろうか。フレイヤといじめっ子達との間に立った彼は、呼吸を整えることもなくさらりと言った。
「うちのお嬢様に何か御用でしょうか?」
フレイヤの位置からだと顔色はわからないが、声から察するに少し怒っている気がした。役職上、執事は従事する者の身の回りの世話のほかに護衛もしなければならないから仕方ない。
彼女達のほうは別の人間が現れたことに動揺して言葉に詰まっていた。大きく騒がれて困るのは向こう側なので無理もないだろう。ところが××家の令嬢だけは憮然とした態度でサボを見つめていたかと思うと、
「貴方はこの子の――」
「おれのフレイヤに何か用か?」
「ひ……ッ」
どういうわけか、情けない声を出して肩をすくめた。そして「べ、別にちょっと忠告してあげようと思っただけよ、本気にしないでよねっ」と謝罪する気のない捨て台詞を吐いて嵐のように去ってしまった。その様子を見ながらフレイヤは呆れたため息を吐く。場所が変わっても、自分より境遇が良い者を見ると妬む気持ちが生まれるのは変わらない。特に貴族ではそれが顕著だというのを改めて思い知る。
この騒動にまぎれて、気づけばフレイヤの後ろにいたはずのいじめられていた女性もいなくなっていた。彼女もまた騒ぎ立てられることを望んでいなかったのだろう。残されたフレイヤは、しかしサボの発言を聞き逃すわけにはいかなかった。
「でもサボ。今のは執事の発言としておかしいよ……おれのって」
内心嬉しいくせに、あくまで「お嬢様と執事」であることを強調する。
「事実だろ、お前はおれの女じゃねェか。なのにこんな簡単にぶたれやがって」と、白い手袋がフレイヤの頬に触れる。今日はいつもの茶色い皮手袋ではなく、執事用の白い――指の感覚がよりわかりやすいものだ。メイクをしているせいで、彼の手袋にファンデーションがついてしまった。
「ごめんね……見過ごすわけにはいかなくて気づいたら体が勝手に動いてた」
「正義感が強いのはいいが、怪我されちゃあ困る。お前を守るのがおれの役目なんだ」
「それって執事だから?」
「ンなわけあるか。今は執事とか関係ねェよ、フレイヤを守るのはおれだろ?」
「ありがとう。でもこの程度で済んだのはサボが来てくれたおかげだよ」
笑って答える。少しヒリヒリするので赤くなっているかもしれないが、冷やしておけば大丈夫だろう。フレイヤはいまだに仏頂面で腕を組むサボに氷を持ってきてほしいと頼んだ。心配性な執事は「今度こそそこを動くなよ」と念を押して一度バルコニーから姿を消した。
*
ローズウォール侯爵から有益な情報を聞いたサボが大広間に戻ってきたとき、しかしそこにフレイヤの姿はなかった。化粧室に行ったのかと近くにいた給仕に聞いたが違うという。まさか彼女を狙っていた誰かに連れていかれたのかと一瞬不安がよぎったが、バルコニーに続く大きなガラス窓に視線を向けると羽飾りをつけた複数の女の姿が見えた。今日の主役達がこぞって外で何をしているのかと思えば、その中心にフレイヤがいてぎょっとする。グラスの中身をぶちまけられた瞬間だった。
またあいつは――と悪態をつく前に、サボの体は素早くそこへ向かっていた。俯いている女を庇っているところから察するに、いじめられている現場を目撃したのだろう。放っておけなかったのかもしれないが、それで自分が怪我したらどうするつもりだ。
そんなこちらの胸中など露知らず、毅然と「関係がなかったら助けてはいけないの?」なんて言い放つ彼女は清々しいほどかっこよかった。 しかし、感心しているのも束の間、頬を叩かれた彼女を見てサボの頭に血が上る。
そこからの展開は早かった。執事としてフレイヤ達の前に出たものの、相手に反省する様子が見受けられなかったために「おれのフレイヤに何か用か?」とついいつもの自分に戻ってしまった。とびきりの笑顔で女に凄むと、途端にしおらしくなって逃げていったので手ごたえがない。女に手をあげるつもりは毛頭ないが、フレイヤにつっかかり、シャンパンを浴びせたどころか引っぱたいた報いとしては釣り合いがとれない気がして嫌味の一つくらいは言っておけばよかった。
赤くなった頬を冷やすために水で濡らしたタオル(と、ついでに二人分のサングリア)をもらってきたサボは、バルコニーに戻ってきてその場に立ち尽くした。時が止まったように動けなくなった。何かがあったわけではなく、視界に広がる光景に見惚れてしまったのだ。
バルコニーから見渡せる、崖下に広がるリベルタ湾を見つめているフレイヤにサボの視線は奪われた。
崖にそびえるリベルタ城は東側に海、西側に山脈が見える。東の大広間からは月に照らされた黒い海が見えるのだが、彼女はその一点を切なそうに物憂げな表情で見つめていた。さっきの出来事が彼女に貴族時代のことを思い出させたのかもしれない。
しかし、そんな表情さえ今の彼女を美しく、それでいて儚く映し出す要素になっていた。月明かりが差し込み、羽飾りとピンクのドレスが照らされる。汚されたはずなのに、まったく気にならないほど彼女の立ち姿は美しかった。
絵になるよなァ――だからこういうところに連れていきたくない。ほかの男の目に晒したくない。フレイヤの美しさを自慢したい一方で、閉じ込めておきたい身勝手な思いもあるサボには複雑な心境だった。このままずっと見ていたい気持ちも大いにあったが、待たせている彼女に悪いので足早に近寄る。
「お嬢様、今宵は月が綺麗ですね。このあと二人で祝杯でもいかがですか?」
「――! ええ、喜んで」
振り返ったフレイヤが目をぱちくりさせてぽかんとしたあと、瞬時に祝杯の意味を悟り笑顔になって答えた。
バルコニーの手すりに持ってきたタオルや飲み物を一旦置いたサボは、彼女の腰をさっと抱え上げるとそのまま手すりに下ろした。「わ――」驚いた彼女がとっさにサボの肩を掴んだので二人の距離が縮む。いつもは彼女に見上げられるサボも今は手すりのおかげで彼女のほうが、少しだけ目線が上だ。
貴族令嬢と執事。一般的にそういう関係になることはないだろうが、生憎サボ達は例外なので堂々とこの距離感でいられる。
「その前に頬を冷やさなきゃな」
濡れたタオルをフレイヤの頬にあてる。よく見ると、やはり少しだけ赤くなっていた。
「ん、つめたっ……」
「ったく、お前の身体はおれのものでもあるんだから大事にしろよ」
「……それ、言い方がえっち」
「知らなかったのか? おれはフレイヤにだけこうだって」
ドレスではわかりづらいフレイヤの足の間を割って入り、首筋に垂れたタオルの水滴を舐めとった。ビクッと腰を引こうとした彼女の腰をすかさず掴んで、「お前が持ってろ」とタオルを彼女に預けたサボは、小さく開いた彼女の唇に吸いついた。
月下のバルコニーに二つの影が重なる。貴族のお嬢様と執事――傍目にはそう見えるが、実際は愛し合う男女だ。この場に二人を咎める者は誰もいない。パーティーの喧騒から少し離れた場所で、サボは夢中で彼女の柔らかい唇を堪能する。そこからは微かにフルーツのような香りがした。