アンコールは望まない
音楽の都、バルタ。優秀な音楽家を多数輩出している名門スチュアート音楽院やオペラ劇場、現代音楽を中心としたライブ会場など幅広い音楽が四六時中鳴り響く。そんなバルタを人々は眠らない町と呼び、朝も夜も一日中どこかで聴こえる音楽に耳を傾ける。
バルタの中でも歴史的建造物に囲まれた中心部には格式高い貴族達が住み、毎晩のように夜会が開かれていた。サボが今いる場所も同じ――とある貴族の屋敷の控室で自身の出番が来るのを待っている。同じく出番待ちのフレイヤは慣れていないせいか、妙にソワソワと落ち着かない様子で先ほどから部屋中を歩き回っている。この日のためにイワンコフが調達した高価な商売道具がソファの上で放置されているのが気になるが、部屋には自分と彼女しかいないので問題ないだろう。
バルタ一贅沢好きな貴婦人――ラメール公爵夫人は今宵の夜会主催者である。
有名な音楽家達を招いて演奏を披露させ、豪華な食事と歓談を楽しむ今夜のパーティーは演奏がメインの催しだった。主催者のラメール公爵夫人が今回のターゲットであり、夜会に潜入することが決まったのは三か月ほど前。彼女自身、有名なオペラ歌手で時折近隣諸国からも歌声を聴かせてほしいという依頼が来るそうだが、そんな有名人にも裏の顔があった。
危険鉱物の密売。とある国から出土したものであり、最初こそ高エネルギーで機械の動力源になると騒がれた鉱物――星晶石は、使用するたびに人体に有害な物質を排出してしまうのだ。国は即座に使用禁止の勧告を出したが、目ざとい売人達に目をつけられ今もなお秘密裏に売買されている。特にその効果を知らぬ者の手に行き渡った場合、その能力に魅了されて大量に使用してしまい少しずつ人体を侵されていく。気づいた頃にはもう遅いというのがこの鉱物の恐ろしいところだった。
オペラ歌手として名声を築き何人もの前で人の好い顔を作りつつ、裏では禁止鉱物密売人として悪名を轟かせている貴族を、革命軍は見逃さなかった。彼女に近づくために演奏家として潜入することになったサボは、フレイヤとアマチュア枠のオーディションに参加し、見事夜会での演奏出演を勝ち取ったというわけだ。
元々フレイヤはバイオリンを、自分はピアノを幼少の頃に習わされていたおかげで三か月に及ぶレッスンで感覚を取り戻し、プロの演奏には到底及ばないもののアマチュアとしてなら申し分ない演奏ができるまでになった。
有名音楽家がずらりと並ぶ中で、名も知られていない自分達だけが浮いた存在だが、逆に興味を持つ招待客が多く、始まる前から期待の言葉をかけられてフレイヤに至っては縮こまっているくらいだ。くわえて、彼女の容姿が貴族令嬢と並んでも見劣りしないと騒がれて注目度が高まっていた。
「まだ落ち着かねェのか?」
化粧台に座って髪をいじっているフレイヤに話しかけた。歩き回るのをやめて、今度は身だしなみをくまなくチェックしはじめた彼女に苦笑する。十分綺麗でこれ以上直すところなどないのに。
すでにセットしてある髪をいじっていた手をとめて、彼女が振り返る。
今日のフレイヤの恰好はコアラと選んだナイトドレスだ。公爵夫人が金色を好むというので、それよりも目立つことのないよう招待客には事前に言い渡されていたのだが、金よりも目立つ色を知らないサボには意味を図りかねた。もしかしたら同じ色は着るなという意味かもしれない。結果、フレイヤは爽やかなエメラルドグリーンのドレスを選び、演奏に集中できるよう落ち着いた色合いになっている。
「だって、あんなふうに期待されるなんて思ってなかったから……失敗したらどうしよう」
「おれ達はプロじゃねェんだ。失敗したって夫人はどうとも思わねェよ」
「そうかもしれないけど……」
やるからにはきちんとやりたいとこぼしたフレイヤは自分以上に真剣な目をしていた。あくまで演奏はおまけなのでそこまで力を入れることもないと思うが、彼女の性格からしてやりたくないことでも真面目に取り組んでしまうのだろう。授業をたびたび抜け出すサボとは違い、彼女はつまらないと言いながらも習い事をこなしていたと記憶している。
サボは先ほど本番で使用するピアノで練習をしてみたが、やはり最高峰モデルなだけあって弾いた瞬間反発が少ないことがよくわかった。音楽で生計を立てているだけあって、屋敷内の楽器はすべて一級品らしい。どれも腕利きの職人が作ったものばかりだ。
弦楽器に至っては各自で用意するよう言われていたので、フレイヤ以外の奏者も皆持参している。ほかの連中がどれほどの実力かはわかりかねるが、自分達以外はプロの演奏家だというから上手いのは当然だ。だからたとえ彼女が失敗したとしても何か言われるということはないだろう。
「まァなるようになるだろ。それよりおれ達もそろそろ広間へ行こう」
「うん……」
まだ浮かない顔をしているフレイヤに、サボは心配しなくていいという意味を込めて彼女の小さな手を握った。そのあと少し間を置いてから握り返す可愛らしい力を感じた。
*
大広間にはそうそうたる顔ぶれが並んでいた。王侯貴族はもちろん、各界の著名人――たとえば経済界、作家、芸術家。当然のことながら音楽家も大勢いる。事前に招待客はコアラからリストを渡されていたが、こうしてみると町を歩く一般人とは貫禄が違う。話し方も振る舞いも業界を牽引しているだけのことはある。
そうした雰囲気にのまれそうになっているフレイヤの緊張を和らげようと、サボは彼女の鼻先に指で触れた。
「ひゃっ」
驚いたフレイヤが可愛らしい声をあげた。突然のことに目をぱちくりさせてから、一拍を置いて「急にどうしたの」と首を傾げる。自分では気づいていないのか、珍しく表情に焦りがにじみ出ているし、しきりにバイオリンを気にして撫でていた。
これまでに何度か潜入調査をやってきて、ターゲットと直接会話をする機会もあった彼女がたかだか人前で演奏するだけでこれほど緊張しているのはサボとしても意外に思うところだった。
「緊張してんなァって思ってさ」
「だ、だって私たちより上手い人ばっかりなんだもん」
「そりゃあプロなんだから上手くて当たり前だろ。それでメシ食ってる奴らだぞ」
「そう、だけど……やっぱり私たちって場違いなんじゃないかな」
「気にしすぎだって。ほら呼ばれた」
緊張したままのフレイヤの手を引き、前の演者と入れ替わるように壇上に立つ。そこから見渡す景色は豪奢なドレスやきっちりした燕尾服を身にまとった貴族達であふれかえる空間。縁もゆかりもない人間ばかりだが、確かにこれだけの人数の視線を一気に浴びることは滅多にないので彼女が緊張するのも無理ない。
とはいえ、サボは演奏が始まってしまえば気にすることはないだろうと考えていた。
所定の位置に立ち、聴衆に向けてお辞儀をする。彼らの目から、好奇・期待・疑心といったさまざまな感情が読み取れる。無名の演奏家がどんな演奏を奏でるのか。オーディションを通過しただけの価値はあるのか。
そうした視線に晒されながら、サボはピアノの椅子の高さを調整し、座す。フレイヤもまたバイオリンを首元へ寄せて演奏の準備をする。しばらくして彼女から開始の合図が送られると、サボはゆっくり頷いた。
いよいよ彼女との二重奏がはじまる。
サボの予想通り、心配は徒労に終わった。
フレイヤが一音目を弾いた瞬間、その場の空気が変わったのをこの広間にいる誰もが感じ取っただろう。不思議な話だが、彼女は数分前までの緊張が嘘のようにバイオリンを操り、美しい旋律を奏でている。
サボ達が演奏するのは、とある歌劇の第二幕の第一場と第二場の間に流れる間奏曲だった。ゆったりとした曲調で、ブランクのある自分達でも練習さえすれば様になる――ように聴こえる楽曲。ピアノの伴奏とバイオリンの旋律が重なって甘美な音を作り出す、その界隈では有名な曲である。
はじめはゆったりと静かに流れる音がその世界観に引き込ませ、次第に情熱的になって中間部へ突入する。クライマックスはさらに情熱さが加速し、バイオリンのソロで最高潮に達する。
ちらりとサボはフレイヤの表情をこっそり見つめる。ここからの位置では、演奏時の動きにあわせて時々彼女の横顔が見えるだけだが、背中から伝わる気迫はここからでも十分に伝わってきていた。
幼少期の習い事の中でも、特にバイオリンは彼女が得意だったという。サボは発表会といった面倒なものには毎回参加拒否をしていたので知らないが、そういった場で賞をとったこともあるらしい。どうりで上手いわけだ。家を出てから一度も触れていないと言っていた割に、数か月の練習ですっかり感覚を取り戻して見事な演奏を披露している。
そして、演奏は終わりに向かっていく。優雅でもの静かに奏でられる旋律は楽曲のタイトルにもなっている女性が新しい道へ進むことを受け入れ、心も浄化した彼女の覚悟を表していた。
終わった瞬間、しばらく広間は静寂に包まれた。やがてどこかで感嘆のため息が聞こえたかと思うと、一斉に拍手が湧き起こる。
素晴らしい。アマチュアとは思えない。あれは誰だ、見たことがない。
様々な言葉を耳にしながら、どうやら演奏が上手くいったらしいことを知る。呆けたように椅子から立ち上がり、フレイヤと同じタイミングで再びお辞儀をする。拍手はしばらく鳴り止まなかった。
*
すべての演奏が終わったあとは食事や歓談の場となり、広間は瞬く間に騒がしくなった。テーブルの上に乗るパーティー用に用意された高級そうな肉や手の込んだ料理は、見た目も美味そうで数時間何も胃に入れていない腹が物欲しそうに鳴る。
ここからはターゲットであるラメール夫人にいかにして接近するかが問題だったが、やはり主催者なのであちこちで話しかけられており、こちらが近づく隙は今のところない。夜会は始まったばかりなので急ぐこともないだろう。少しだけ気を緩めたくなったサボはタキシードを脱いだ――と、その拍子に胸ポケットから小瓶が落ちた。
それはコアラからいざというときのために、と言って渡されていた物である。サボは小瓶をズボンのポケットに移動させて何気ないふうを装う。演奏では拍手喝采を浴びたが、今はもうアマチュア音楽家のことなど誰一人気にしていなかった。
そのあとしばらくしてから、楽器を片付けに控室へ行っていたフレイヤが広間に戻ってきたので声をかける。
「お疲れ。やっぱり問題なかっただろ」
演奏のことを言っているのだと気づいたフレイヤは安堵の息をついてから、
「弾く直前までは本当に手汗がすごかったの。でもなんとか様になったみたいでよかったね。サボのピアノもすごく弾きやすい伴奏だった」
こっちの演奏まで褒めてくれた。フレイヤのバイオリンに比べたら自分のピアノはただの引き立て役のようなものだが、サボ自身上手くいった自覚はあったので素直にありがとうと受け取る。
「はあ〜緊張から解放されたらお腹空いたね。私、とってくるから待ってて」
本当に緊張感がどこかへ吹き飛んだのだろう、フレイヤの足取りは軽く、どこか楽しそうでもあった。その様子にふっと口元を緩めて見守る。彼女と二人でいると、任務であることを一瞬忘れそうになる。まだラメール夫人からは何も情報を得られていないので気を引き締めなければならない――
「ねえそこの紳士の方。貴方、先ほどタイスの瞑想曲を演奏されていたわよね」
ぼうっとフレイヤを見ていたら、突然後ろから声をかけられてサボはゆっくり振り返った。渦中の人、ラメール夫人である。まさか向こうから近づいてくるとは思わず一瞬言葉に詰まるが、すぐに社交用の微笑みを携えて「お褒めに預かり光栄です」と受け答えた。
「アマチュア枠で選ばれたと聞いたけれど、想像以上の演奏だったわ。本当にプロではないのかしら」
「我々は趣味で嗜んでいる程度であり、プロの方々の足元には到底及びません」
「そう……ところで、」
「サボ!」ラメール夫人が何かを言いかけたとき、別の方向からフレイヤの声がした。
しかし、すぐに声をかけた相手が一人ではないことに気づいて口を噤み、しかも話し相手がターゲットだとわかると「大変失礼いたしました。どうぞお話を続けてください」深々と頭を下げて、こちらから距離を取った。瞬時にああいう態度が取れる彼女のことを内心褒めて、サボは改めて夫人に向き直る。
「妹が失礼しました。それで、お話というのは?」
サボは二十四歳という若さで公爵夫人となった、この広間にいる女性の中で一番目立った恰好をする女性に目を向けた。彼女の視線がなぜかフレイヤに向けられているのが気になったが、「妹……」ぼそぼそと呟いたかと思うと口元に弧を描いて笑った。
「今夜はお時間あるかしら。私のプライベートルームへ貴方を招待したいのだけれど」
*
こうも都合良く展開が進むと不安になるものだが、相手が自分の容姿を気に入ったことは、これだけ熱烈な視線を浴びればどんなに愚鈍でも気づく。互いのことなど大して知りもしない間柄で、簡単に寝室へ呼び込むとはなかなか尻軽である。仮にも彼女は契りを結んだ相手がいるというのに。
もっとお話ししたいわ。
そうやって誘われたサボは、夜会の途中にもかかわらず彼女が突然体調不良を訴えたので、肩を貸しながらこの部屋までやってきた。もちろんパーティーを抜けるための嘘である。
高そうなシャンパンを開けて二つのグラスに注いだ夫人は、片方をこちらへ寄越すと自分はこれまた高そうなふかふかとした椅子へ腰を下ろした。すでに彼女の頬は赤くなりはじめ、酔っていることは明白だった。
「そんなところに突っ立ってないで座ったらどう? 貴方のことがもっと知りたいの」
熱っぽい視線を鬱陶しく思いつつ、サボは言われた通り向かいの椅子に座る。思った以上の柔らかさで尻が沈んだことに驚いたが、足を組んで相手の様子をうかがう。
潤んだ瞳はほかの男からするとそそられるのかもしれないが、サボにとっては何の感情も湧かない。自分がそそられる対象はただ一人なので滑稽に映ってしまう。こちらの目的はただ一つ。鉱物の輸出先とそれを受け入れている港の特定だ。できれば保管場所も知りたいところだが、それは芋づる式でわかるだろう。
「そうですね。私も夫人のことに興味があります」
「まあ。私達気が合いそうね」
妖艶に笑った夫人がそっと席を立つと、覚束ない足取りでこちらに向かってくる。
と、案の定バランスを崩してもたれかかってきたので一応立ち上がって支えてやる。ドレスの構成上、くっきり見えてしまう谷間を腕に押しつけて明らかにこちらを挑発しているとしか思えない態度に、内心辟易しながら任務だと割り切ってサボは相手の誘いに乗った。
捕まえたと言わんばかりの夫人は、サボの腕を引っ張ってベッドへと誘う。
天蓋付きのそこは先ほどの椅子のクッション以上にふかふかとしていて、場違いにも一体いくらする代物なのか気になってしまった。
女からのこうした誘いに乗っかったことは一度もないので、任務だとしてもこれが初めてになる。なんと味気のないことだろう。一般的に少しは興奮する状況なのかもしれないが、ちっともそういう気分にはならない。雰囲気や相手の目が本気であればあるほど、サボの頭は冷静になっていく。
夫人は慣れているのか、サボの身体を押し倒し大胆にも馬乗りになって見下ろしてきた。これがもしフレイヤだったのなら、これから起こることに期待と興奮とで身体が反応を示すというのに。目の前の女にはただただ嫌悪感しか抱かなかった。
サボは短い息を吐いて、女に問いかける。
「その前にひとつ、聞いていいか」
もはや酒と雰囲気に酔っている夫人に丁寧な言葉遣いは無用だった。こちらが気を許したのだと勝手に勘違いした彼女は甘ったるい声で「なあに」と微笑む。そして弄ぶように彼女の手がサボのネクタイに触れた。
「あんたが密かに取引してる星晶石の輸出先におれ達の国も追加してほしい」
「……どういう意味かしら」夫人の目が少しだけ鋭くなる。酔っていてもすぐには吐いてくれないらしい。サボは構うことなく続ける。
「おれ達は金に困ってるんだ。プロじゃねェからな。あんたが手助けしてくれると助かる」
「あら、だったら私が貴方を養ってあげてもいいのよ」
サボの眉がぴくりと動く。
冗談だろ。話を聞いてなかったのか? おれ一人の問題じゃねェんだ。
頭の中でいくつもの批判する言葉が浮かんだ。兄妹であることも、アマチュアの演奏家であることもすべて作り上げた偽りの設定だが、現実だろうが虚構だろうがサボの中でフレイヤを蔑ろにする選択肢は有り得ない。
「妹がいる。あいつを一人にさせるわけにはいかねェ」
「ふーん……随分とあのバイオリンの子に肩入れしてるようだけど彼女も大人でしょう? 妹離れしてない兄は嫌われるわよ」
「そうかもな」
実際は兄妹ではないし、さして問題はないのでサボは夫人の言葉を受け流した。こちらが食いついてこないことを面白く思わなかったのか、彼女がむっとして顔を寄せてくる。依然として馬乗り状態なのでこちらの動きは制限されるが、いざとなれば彼女の体は力でどうとでもできるので問題ない。
蝶ネクタイを強引に奪われ、シャツに手がかかる。ボタンをゆっくりと外していく手つきは慣れている人間のそれだ。これまでにもほかの若い男をこうやって連れ込んできたのかもしれない。冷ややかな目で一連の動作を眺めながら早く情報を吐いてくれと念じる。
「まあいいわ。輸出先のリストはドレッサーの引き出しの中だけど、実際管理してるのはバルタ港の三番ドック長だから明日紹介してあげる」
そんなつまらない話より、こっちに集中してよ。
夫人の手がシャツの隙間をぬって胸元に侵入してきたときが反撃の合図だった。サボは相手の手首を掴んで起き上がり、彼女の体を逆にベッドへ縫いつけた。その間、実に数秒足らず。あまりの展開の早さに、彼女は状況をまったくつかめていない様子で目をしばたたかせた。しかし、構わずサボは口を開く。
「悪ィな。あんたとこういうことをする趣味はない」
「……何の冗談かしら」
「冗談だと思うか?」
「人を呼ぶわよ」
「その脅しには乗らねェ。使用人はみんなパーティーに従事してるだろ。ここからじゃ声は届かないはずだ」
「馬鹿ね。賢い人間は緊急用の電伝虫を持ってるのよ」
夫人がドレスの胸元から小さい電伝虫を取り出して非常用ボタンを押そうとしたので、考えるより先に脊髄反射で取り上げてから床に放り投げた。「あっ」小さい悲鳴を上げた彼女を見て侮れないと考えを改める。万が一近くに使用人がいることも考慮してそろそろ仕上げの段階に入るべきだ。力でねじ伏せるよりはいくらかマシな方法であるそれを決行するために、サボはズボンのポケットから小瓶を取り出した。
その中に入っているのは薄い青色の液体。これは優秀な革命軍の医療班が作った人間の記憶を司る部位に働きかける薬だ。つまり、人の記憶を操ることができる。飲めば、気を失う前の数時間の記憶が脳から一切消去される。誰と会ったのか、何を話したのか。次に目を覚ましたとき、彼女はサボのことを覚えていないし、パーティーを開催したことはわかっても誰が来ていたかは定かでない。
「これで外部と連絡をとる手段はなくなった。それから――今あったことはすべて忘れてもらう」
小瓶を夫人の前でちらつかせる。小さな舌打ちをした彼女は、しかし抵抗しようという様子は一切ない。抵抗しても無駄だと諦めたのかもしれなかった。確かに頭は切れるようだが、力の差は歴然としているし抵抗したところでこちらに分があることは明白だ。
とはいえ強気な態度を崩すつもりはないらしく、あくまで表情は毅然としている。
「貴方、音楽家じゃないのね……悪い男。一体何人の女を泣かせてきたのかしら」
「さァな。おれは向こうで待たせてる女以外は興味ねェんだ」
蓋を開けたはいいが、どうやって飲ませるか逡巡していると、「その顔に騙された私が馬鹿だったと思って潔く飲んであげる」と起き上がった彼女がサボの手から無理やり瓶を奪って一気に飲み干した。セットした髪もドレスも乱れていたがもはや気にする必要はない。すでに女の態度も好意的ではなくなっていた。
サボは夫人から離れて例のリストを見つけるために化粧台へ移動する。引き出しが多すぎて片っ端から開いていくしかなさそうだ。背後では彼女が力なくベッドに横たわっていた。即効性があると言っていたから、そろそろ意識が朦朧としてくる頃合いだろう。医者曰くただの眠気だから問題ないとのことなので、サボは気にすることなく引き出しの中を順番に探っていく。
「貴方が夢中になるんですもの、私よりよほど良い女なんでしょうね」
ふとベッドのほうから恨みがましい声が聞こえた。眠そうな双眸と目が合う。かろうじて残っている意識をなんとか振り絞って喋っている状態に見えた。独り言のようにも聞こえたが、目線はこっちに向けられているのでサボは一度手を止めてから答える。
「ああ、世界一可愛いよ。あいつより良い女をおれは知らない。いるとも思わねェ」
サボが迷いなく答えたのを見て夫人は何かを言おうとしたが、口を開いただけで音にはならなかった。どうやら睡魔が襲ってきたらしい。瞼が閉じられていく姿を見届けたあと、サボは目的のリスト探しを再開させた。
*
サボが今回のターゲットであるラメール夫人とどこかに消えていったのを、フレイヤは遠目に見ていた。一人で食事をとっているさなかのことで、気づけば「大丈夫ですか」「部屋へ連れていきましょう」などといった不穏な会話が飛び交い、彼女に肩を貸すサボの背中だけが見えた。
近かったな……。
彼女から情報を引き出すことを目的としていることはわかっていても心というのは思うようにいかない。不満や嫉妬といった負の感情がすぐ体の内側から湧き起こってくる。そんな漠然とした不安を少しでも和らげようとフレイヤは美味しい料理に手をつけ、機械的に口を動かし続けた。
どのくらい待っていたのかわからない。一人でぼうっとしている寂しい女に数人の紳士が話しかけてきたが、すべて「そういう気分ではない」と断ってしまったため、楽しい夜会の中でぽつんと世界から取り残されたように広間の隅で佇んでいた。
今日の任務では、コアラは別の場所で待機しているし、フレッドとミリは演奏会が終わるまではいてくれたが、サボが夫人と接触したのを確認してから屋敷を後にしてしまった。楽器演奏だけがフレイヤの役目だったので、それさえ達成することができれば自分はただ待つしかなく、だからこそ二人きりでいるサボと夫人のことが気になって仕方なかった。
サボが戻ってきたのはフレイヤが一人になってから一時間ほどだった。感覚的にはもっと待っていたような気がするが、実際の時計と照らし合わせるとやっぱり一時間程度である。待ちわびたように彼に近づいて「サボ」と名前を呼んだ――が、彼の表情はすぐれなかった。緊急事態でも起こったのだろうか。それにしては周囲があまりにも普通で、とても任務に支障が起きたとは思えない。
一抹の不安を覚えたフレイヤは恐るおそるもう一度呼んでみた。
「あ」
難しい顔をしていたサボが突然フレイヤの右腕を掴んで、広間を大急ぎで出ていく。「任務は?」「もう全部片付いたの?」こちらの問いには一切答えず、沈黙したままどこかへ歩いていく。
すれ違う使用人たちから声をかけられてもサボは何も答えなかった。それどころか、もうこの家に用はないというように屋敷を後にしてしまう。
バルタの夜は、陽気な音楽で溢れていた。眠らない町と称されるだけにあちこちで演奏している者がいる。一緒に歌って踊って、また別の場所で歌って踊る。他人だろうと関係なく、みんなが音楽を通して心を通わせる。
しかし、そんな町の賑わいとは裏腹にサボの背中は物憂げな感じがした。苛立っているような気もするし、寂しそうにも見える。どちらにしろ、あの広間から消えて戻ってくるまでの間に何かあったとしか思えない。聞くのはとても怖かったが、聞かないことにはフレイヤ自身の心の靄も晴れない。
サボの足が急にスピードを落としてその場で止まった。息を整えて見上げた先には潜伏先の宿の看板。どうやらだいぶ歩いてきたらしい。立ち止まっているのをいいことに、フレイヤはその背中に問いかける。
「ねえサボ。もしかしてラメール夫人と何かあった?」
「ない」
「……」そこは即答なんだ。
フレイヤは自分がひどく安心したことを自覚した。ターゲットの女性と何もなかったと本人の口から聞いて、心が穏やかになっていくのがわかる。
サボの容姿が女性を惹きつけるのは最初からわかっていたし、相手が若い貴婦人となれば目をつけられるのも当然だった。演奏が成功して一層目立ってしまったのも起因する。ただそれでもフレイヤの心が追いつかず、嫌な気持ちが勝ってしまった。任務と割り切られる物分かりのいい女でいられたらどれほどよかったか。だからといって不安はあっても口に出すものじゃないということはわかっている。
「何もなかったけど、すげェ嫌な思いはした」
「そう……なら質問を変えるね。どうしたらサボを癒せる?」
この返しにとうとうサボがこっちを振り返った。複雑な顔を作ってやっぱり苛々している気がする。嫌な思いってなんだろう。すぐれない表情は気になるが、それはフレイヤが知る必要のないことでもあった。彼が何もないというのなら信じていい。任務について、ある程度の情報は自分にも流してくれるが、彼があえて深入りさせないようにしている部分もある。あくまで一般人だという自覚はフレイヤにもあるので、それを押しのけて無理やり聞こうとは思わない。
だからフレイヤにできることは、彼の心が少しでも安らぐよう努めることだけだ。
「そうだな……お前にしかできねェことを頼んでもいいか?」
「うん何でも言って」
意気込んでそう言ったら、ついにサボの相好が崩れて抱きしめられた。強い力だったが、きちんと加減するだけの理性は彼の中に残っていて、フレイヤはそれに応えるようにそっと彼の背中に触れて撫でた。
外だというのにしばらく抱き合ったまま動かなった。しかし、このあたりは宿屋が多いので道端で音楽を奏でる者も歌う者もいない。それが幸いして、フレイヤ達の姿は誰にも見られることがなかった。
そうやって長い間サボとくっついていたあと、ようやく彼が口を開いた。
「朝までずっとフレイヤを抱きたい」
「いいよ。今夜はとことんサボに付き合う」
「お、珍しく強気だな。明日は腰が使いモンにならないかもしれねェぞ」
「もうっ、人が真剣に心配してるのにからかわないで」
「あーやっぱりこの抱き心地が落ち着く……よし、まずは一緒に風呂入るか」
サボが犬のように顔を擦りつけてくるのでふわふわの髪が首元にあたってくすぐったい。先ほどまでの緊張感はもうなくなって、いつもの彼がそこにはいた。優しく笑ってこちらを見下ろし、頬を撫でていく彼の手に安心感を覚える。
促されるように手を引かれて、フレイヤは大きくて温かなその手をぎゅっと握った。