しあわせの熱分解

 ほんの出来心だった。
 いつもサボからしてもらうそれをたまには自分からしてみたいというちょっとした好奇心半分、サボの驚いた顔が見てみたいという邪な思惑が半分。いつも彼に翻弄されているフレイヤも少しは自分が優位に――というより、翻弄する側に立ちたいという思いがあった。


 昼休憩中の執務室。フレイヤは食堂から少し早めに戻ってきたサボのために食後のコーヒーを持ってやってきた。
 コアラや直属の部下たちもきっとまだ食堂や談話室で各々自由に過ごしているだろう。執務室は時おり紙が擦れる小さな音がするだけで、穏やかな時間が流れている。しかし、彼の表情は難しそうに眉をひそめ、「うーん」と唸り声をあげていた。珍しく手こずっている案件なのかもしれない。
 サボはフレイヤがコーヒーを持って尋ねてきたことに「ありがとう」と言ったきり、また書類に目を向けてしまったので手持ち無沙汰になったフレイヤは邪魔するのも悪いと思って部屋を出て行こうとしたのだが。
 "ここにいていい"
 一言だけ言われてフレイヤの体はぴたりと固まった。振り返ってサボがいる机に視線を投げると、相変わらず書類を睨んでいた。目の前の紙から視線を外さずに言ったのだろうことがうかがえて苦笑する。集中しているというのに、こちらの気配だけは気づくらしい。器用な人だと思う。
 いていいとはいえ手伝うわけにもいかず、フレイヤはじっと待つしかなかった。備えつけてあるソファに座りながら彼の仕事ぶりを観察してみる。
 やっぱり難しい顔をしたまま書類にペンを走らせ、また別の報告書に目を向ける。
 いつもの茶色い皮手袋は無造作に置いてあって、帽子とゴーグル、コートはラックにかけてある。任務に出る前の彼とはまた違う雰囲気でフレイヤは気に入っていた。シャツとベスト、そしてスカーフ。貴族を彷彿とさせる恰好に思われるが、所々に少年らしさが垣間見える。たとえば帽子とゴーグルは幼い頃からのアイテムでフレイヤも知っているし、ラックのそばの鉄パイプは彼の武器であり、エース達との思い出の品でもある。懐かしさと今の彼のかっこよさが上手く融合していてとても好きだ。
 しばらくしてからサボが書類から顔を上げてコーヒーに手をつける。目頭を揉んで疲れた表情でふうっと息を吐きだした姿を見て声をかけようか迷った。いったん目途が立ったようだが、疲れているなら話しかけずにいるほうがいいだろうか。フレイヤは立ち上がったところで、しかしある考えがよぎった。
 馬鹿馬鹿しいかもしれないし、こんなことしたところで効果があるかはわからない。しかし彼はよく充電といってフレイヤを腕に抱くことがある。それの延長線上だと思ってもらえればいい。あとは、自分の好奇心と下心も少し含まれる。
 フレイヤはそっとサボに近づいていき、眉間あたりをマッサージする彼の名前を呼んだ。

「どうした――」とこちらに振り向いた瞬間、フレイヤはサボの唇に自分のそれを重ねた。いつも感じる温もりと柔らかさがすぐに伝わり、けれどいつも彼がしてくれるような情熱的なキスはやっぱりできずに一度重ねて離した。彼にとって不意打ちだっただろうし、思いもよらぬ行動だったはずだ。予想外のことに驚いているに――

「えっ」
「ッ……見るな」

 サボの手のひらがフレイヤの顔を覆うように視界を遮られる。見るなと言われると見たくなるのが人間の性というし、フレイヤも人並みに好奇心がある。彼から見るなと言われたら余計に気になってしまう。

「どうして?」
「どうしても何も――だからやめろって……ッ」

 覗き込もうとしたら、そっぽを向かれた。その瞬間、サボの耳が赤いことに気づいてはっとする。もしかして先ほどのキスは成功したのかもしれないと嬉しさがこみ上げてくる。顔を覆って見せてくれない彼がもどかしく、フレイヤは回り込んで「ねえ見せて」と引き下がらなかった。
 これまでサボがフレイヤを幾度となく翻弄してきたが、たまには立場が逆になったっていい。計算高いことはできないし、駆け引きもきっと彼には勝てない。見透かされてしまう。ベッドの上でも主導権はいつも向こうに握られていてフレイヤが優位になることはほぼない。だから、こうした自分の行動が彼の稀な反応を引き出すことに成功したのなら見てみたいと思うのは当然のことだった。
 しかし、フレイヤが回り込むとサボは椅子ごとくるりと回転したかと思うと立ち上がった。どうやら何が何でも見せる気はないらしい。それならこちらも譲らない。

「サボが逃げるなら追いかけるだけだよ」
「わっ、ついてくるな」

 こちらから距離をとって逃げたサボをフレイヤは小走りで追いかける。それに伴ってまた彼がフレイヤから逃げる。二人の距離は縮まったり、離れたり。まるで追いかけっこをしているようだった。食堂のように広くない場所で、小さな攻防戦が繰り広げられる。照れていても彼は器用な人なので、絶対に捕まってくれない。
 いつしか彼の照れた顔を見ることが目的ではなく、ただ捕まえたくて必死になっていた。ようやくシャツの袖を掴んだと思ったら、上手くかわされて結局また追いかける。彼との攻防戦はそれからしばらく続いた。


*


 フレッドが執務室へ戻ってきたとき、不思議な光景に出くわした。サボさんとフレイヤさんが追いかけっこをしているのである。フレッドは首をかしげながら「これはどういう状況なんだろうね」と同僚に尋ねたものの、当然ここへ来たばかりの自分達にわかるはずもなかった。
 昼休憩は間もなく終わりを迎える頃だったが、彼らはフレッド達が戻ってきたことに気づいているのかいないのか「見せて」「見せねェ」という押し問答を繰り返していた。
 フレッドには何のことかまったくわからなかったが、こんな場所で堂々と恋人と戯れる上司を呆れつつもやっぱり微笑ましく思うのだった。よく見ればフレイヤさんのほうが押している気がするので、もしかしたら珍しくサボさんの身に何か恥ずかしいことがあったのかもしれない。
 と、しばらく二人の様子を見ていたとき隣の同僚が「おい」と肘でつついてきた。

「なに」
「お前総長と仲良いだろ、なんであんなことになってんのか聞いて来い。このままじゃおれら気まずいじゃん」
「聞いて来いって無茶言うなよ。あの中に入れると思うか?」
「お前は総長と同期だから大丈夫だろ」
「……」根拠になってねェよ。

 間髪を入れず突っ込みを入れたフレッドは、しかし自身もサボさん達が何をしているのかは気になるのでさりげなく声をかけてみる。

「えっと……サボさん達は何をして――」
「だから見せねェって言ってるだろ」
「少しくらいいいでしょ」
「あの!」負けじと声を張り上げて自分の存在を主張する。

 すると、サボさんが急に立ち止ったのでフレッドはようやくこちらに気づいてくれたのだと安心した――のだが、フレイヤさんのほうに振り返った彼は突然彼女を腕の中にすっぽりと抱き込んでしまったので愕然とする。それどころかサボさんは「これでおれの顔は見られねェな」とどこか愉快そうな雰囲気を漂わせてフレイヤさんの顔を自身の胸に押しつけた。
 二人の絶妙な身長差は革命軍内でも有名で、比較的女性陣の中でも低いほうに部類されるコアラさんよりもさらに低いフレイヤさんはサボさんと並ぶと本当に小動物のようで愛らしい。今もああしてサボさんの腕に収まってしまうのだから、庇護欲を駆られるのも無理ないと思う。とはいえ、こちらの存在を忘れて夢中になられても目のやり場に困ってしまうのだが。
 顔を押しつけられたフレイヤさんが苦しそうに身をよじる。そんな彼女のつむじあたりを愛おしそうに見つめるサボさん。腕の力を少し緩めた彼は、解放されて顔を上げた彼女としばし見つめ合う。二人の横顔がフレッドに、そして隣の同僚にも映る。
 見下ろすサボさんと見上げるフレイヤさんの姿は、なんだかとても胸が締めつけられる。それは心地よい締めつけであって、苦しさではない。幸せそうな二人を見ているだけで、こちらも心が満たされていく感覚になる心地よさ。
 ややあってからどちらからともなく照れくさそうに笑うと、サボさんはフレイヤさんの頬を撫でた。

「これでお互い様だな」
「えっ」
「お前も顔が真っ赤だ」
「……ッ、それはっ……だって、こんなに近いから」
「けど好きだろ?」

 鼻先同士がぶつかるほどサボさんの顔がフレイヤさんに近づいた。言葉にならない悲鳴を上げてあたふたする彼女は、けれどやっぱり嬉しそうで小さく頷く。その答えにサボさんが自分達には絶対に見せない顔で微笑むのでもう胸がいっぱいになる。これ以上は胸焼けしそうだ。
 しかし、ずっとそうして笑い合っていてほしいと思う。二人のこうした光景は緊張感が走る本部内で、ある意味平和の象徴でもあるのだから。

「あの〜ラブラブなのは全然いいんですけど、おれ達が来たことにそろそろ気づいてもらっていいすか」

 ぼうっと二人を見て何も言わないフレッドを見かねたのか、それともあの光景に胸が焼けたのか。隣の同僚が気まずそうに目線を逸らしながら言うのだった。

2024.06.29 追いかけっこ