雨と傘ときみと


case of Ace

 土砂降りの放課後のことだった。
 補修教室を担当している教員が出張の関係でいつもより早く帰宅することになったが、雨の影響で電車が大幅に遅延し結局いつもとあまり変わらない時間帯のこと。近所のおにぎり屋の軒下で、文字通り転がっている人を見つけた。住宅街の一角にあるおにぎり屋は定休日でシャッターが下りているため、店には迷惑がかかっていないものの、明らかに異様な光景だった。素通りすることもできたのに、なんとなく気になってしまった私はおそるおそる人影に近づく。
 シャッターに頭を預けて仰向けになっている人は学ランを着ていた。同じ高校生だろうことがわかって少しほっとするが、女子高に通う私には無縁の男の子だ。この様子だと雨宿りしているようには見えないし、まさかこと切れている訳ではないだろうけど、こんな場所で寝ているのもおかしい。よく見たら頬に傷があって、血がにじんでいるのも気になる。

「あ、あの……だいじょうぶ、ですか……?」

 両親から怪しい人には近づくなと言われているのに、放っておけなくてつい声をかけてしまった。仮に疲れて寝ているだけだとしてもこの雨では風邪をひくだろう。
 しゃがんだまま、男の子の顔をまじまじと見つめる。きれいな黒髪は雨のせいで額や頬にへばりついており、そばかすが特徴的な子だ。着崩しているらしい首元からは、数珠っぽいアクセサリーも見える。視線をさらにずらしていくと指にはテーピングが施してあって、ますます危険な雰囲気は否めない。「それに、なんでこんな場所で……」このあたりで学ランの学校はあっただろうかと思案していたとき、視界の端で何かが動いた。

「あ?」
「ひっ」

 寝ていたはずの男の子の瞼が開かれて、鋭い眼光に睨まれる。機嫌が悪いのか、眉根を寄せて険しい表情をしていた。選択を間違えたかもしれない。いくら同世代とはいえ、やっぱり怪しい人には声をかけるべきではなかった。相手が何かを言うより早く、ここを立ち去るべきだと本能が判断を下す。

「私、家がすぐそこなのでっ……傘どうぞ。あとこれッ……血が出てるから」

 開いたままの傘をそばに放置し、慌てて鞄にあるポーチから絆創膏を二枚取り出すと、彼の手に無理やり持たせた。
 じゃあ私はこれで。
 逃げるようにおにぎり屋を後にする。雨脚が先ほどよりも強くなっていて、体に打ちつける雨が痛い。マンションまですぐとは言っても、びしょ濡れになるのは覚悟していたが思った以上だ。
 男の子の返事を待たずに一方的に傘を押しつけてしまってから、要らない親切だったかもしれないと後悔した。彼にとっては本当に休憩しているだけの可能性もあったし(だとしたら相当不審人物だけれど)、ほんの数秒しか目を合わせていないが人を寄せつけない雰囲気を感じた。
 お気に入りの傘だったなと頭の片隅で残念に思いながら、もう会うこともないだろう男の子が無事に家へ帰ることができるよう祈った。まさかこの先再び彼に会うことになるなんて、この時の私は知る由もない。


***

case of Sabo

 6限目が終わるまではギリギリ曇り空を保っていたのに、ホームルームを終えて昇降口に来たらもう傘をささないと濡れてしまうほどになっていた。せっかく互いに部活がない日だというのに、これではどこかに寄り道するのも一苦労だろう。
 上履きからローファーに履き替えて、仕方なしに鞄から折り畳み傘を取り出したとき、先に下駄箱で待っていた彼女もまた準備よく折り畳み傘を広げようとしていたところだった。
 ところが、こっちに視線を向けて数秒。なぜか広げた傘を鞄に入れ直した彼女が恥ずかしそうにしながらいそいそとサボのほうへ向かってきた。不思議に思って、「どうした?」と聞く。
 ちらちらと周りをうかがいながら誰もいないのを確認したかと思うと、背伸びしてサボの耳元に口を寄せてきた彼女が一言。

「入れて」

 小さな声で懇願される。
 一時ぽかんとしてから意味を理解したサボは、目を覆って深く息を吐いた。
 ――なんだよ、可愛いすぎだろ。
 どくどくと鼓動が激しくなるのを誤魔化すように、右手で傘を持つと反対側を彼女に向かって伸ばし、「いいよ」平静を装って答えた。サボの返事に嬉しそうに手を重ねてきた彼女がまた可愛くて、さっきまでの憂鬱な気持ちがどこかへ飛んでいく。
 ふとしたらだらしなく緩んでしまいそうになる口元にぎゅっと力を入れて、サボは彼女と二人で昇降口を出た。雨はもう気にならない。