誘惑彼女


※『たしかに恋をしていた』の番外編

 夏島の夏の暑さは異常だ。照りつける太陽の陽射しを全身に浴びながら、サボは眼前に開ける海に目を細めた。リゾート地だと聞いていたから人が多いのかと思われたが、いわゆる穴場というのかこの辺りはまばらだった。少し離れたビーチは確かに人で溢れているのに不思議な光景だと思う。勧めてくれた部下に感謝して、サボは待ち合わせ相手が来るのを待った。
 革命軍がこの島を訪れているのはつかの間の休息、任務の帰還中のことだ。航路の途中にある夏島は部下の中にも知っている者が多く、この近辺では人気ナンバーワンのビーチだという。コアラはいつものように雑誌で盛り上がっていたし、フレイヤもまた一緒になってはしゃいでいた。当然能力者のサボだけが憂鬱な気分。海は弱点、ほかの奴らが遊んでいる姿を、指をくわえて見ていることしかできない。と思っていたのだが――

「サボ、ごめんね。待った?」
「いや、別にそんな」

 待ってないと続く予定だった言葉は、待ち合わせ相手の姿を認めて思わず口をつぐんだ。人は驚くと言葉が出ないというのは本当らしい。待ち合わせ相手のフレイヤが当然水着で現れるのは予想していたが、前に見た柄だろうと勝手に思い込んでいたせいで面食らう。
 フレイヤが着ていたのは黒の水着だった。胸元から伸びたストラップを首の後ろで結ぶタイプなのか、結ばれたリボンの端が動くたびに見え隠れする。胸元にはキラキラと光る宝石のようなものが装飾されていて、下は……「フレイヤ……それ、紐でとめてるのか?」作りがどうなっているのかまるでわからないから本人に聞いた。左右の腰あたりで紐を結んでいるようだが、サボからすると非常に危うい布にしか見えない。模様のないシンプルな水着なのに、彼女の白い肌とのコントラストの効果なのかいつも以上に卑猥だ。

「うん。あ、もしかして取れそうって思ってる? 私も最初それが心配だったんだけど、コアラちゃんがしっかり結べば大丈夫って言うから……ど、どうかな」

 普段はあまり選ばない黒にしてみたんだけど。俯きがちにこちらを見る上目遣いに、サボは立ち眩みする錯覚を起こした。恥ずかしそうにしつつ、けれど格好はどうしたっていつものフレイヤからすればかなり挑戦的なので誘惑しているようにしか思えない。
 そんな目で見るなよ。必死に衝動を抑え込んで、サボは身体の熱を無理やり鎮ませる。
 今日のフレイヤは髪型もいつもと違っていた。ここに上陸することが決まってからコアラと二人でどんな髪型にするかと楽しそうに考え込んでいる姿を覚えている。今朝に会った彼女は、ゆるく巻いた髪を何やら洒落たように編み込んで一つに束ねていた。コアラが彼女の髪を、彼女がコアラの髪をセットしたようだ。やはりサボには流行りとかそういったことがわからないが、夏らしくてとてもいい。おまけに麦わら帽子までかぶって、この光景にすっかり溶け込んでいた。

「似合ってる。いつもと違うけど、そういうのもすげー似合うよ」
「ほ、ほんと……? よかった」
「大胆すぎて誘ってるのかと思ったけどな」

 近づいて、フレイヤの肩に両腕を回して囲う。近距離で見つめ合うと、先に視線を外すのはいつも彼女のほうで羞恥が勝るのか未だにぷいっとそっぽを向かれるのだが、今日は格好が格好なだけにさらに恥ずかしいらしい。彼女のこうした仕草はサボの潜在的な嗜虐心をくすぐるので制御しないといけない。ふとしたことで箍が外れて彼女に負担をかけたり、あるいはコアラに説教されたりすることがあるからだ。

「あ、のね……そうだって言ったらどうする……?」

 横を向いていたフレイヤが突然視線を戻してサボを見上げてくる。聞き間違いかと思って見つめ返すが、今度はそらさずこっちを誘うような目を向けて反応を待っているように見えた。ぎこちなさは残るものの、彼女なりのアピールらしい。
 サボの視界には当然胸の谷間が見えている。いかにもそれを狙ったようなデザインをフレイヤが選んだとはやはり思えずコアラか誰かの差し金だと疑いたくなるが、結果的には感謝する思いだ。実際サボは彼女が普段なら絶対着ないだろう色合いの挑戦的な水着に興奮を隠せなかった。

「そうだな、ここで襲うわけにもいかねェからその辺の岩陰に移動するか」
「……ッ、やっぱり今のなし! サボは海に入れないけど足だけなら浸かれるよね、砂浜を歩くのはどうかな、ほらっ……」

 フレイヤは早口でまくし立てると、首に回っているサボの腕から逃げだしてひとり砂浜のほうへ駆けていく。こっちを振り返りながら、誤魔化すように早くと急かす彼女の動揺っぷりにおかしくなった。そうだって言ったくせにもう撤回するのか。
 と、前方から――フレイヤから見れば背後から複数の子どもが走ってきていることに気づいたのはそのときだった。同じように海水浴に来ているのか、浮き輪などの遊具を抱えて楽しそうにしている。
 サボは呼び止めようとして口を開いたがすでに遅く、一人の少年が彼女の背中に接触した。立ち止まるかと思いきや、少年たちはところがそのまま「お姉ちゃんごめんなさーい」と走りながら去ってしまう。はしゃいでいるせいか彼らは遊ぶことに気を取られているようだ。ぶつかった相手のことを気にかける余裕がないらしい。
 やれやれという思いでサボがフレイヤの元へ駆けていこうと一歩を踏み出したとき、しかし目を疑うような光景が飛び込んできた。

「……ッ!」

 首の紐が解けたのか、固定されていた水着はゆるゆると隙間を作っていった。とっさにフレイヤが手で押さえたが間に合わずに、際どい部分までが露わになる。かろうじて胸は両腕で押さえることに成功したが、サボの目には彼女の綺麗な膨らみ(といってもほんの少し)が見えていた。しゃがみ込んでパニックを起こしている彼女の元に駆け寄る。

「み、見た……?」
「なにが」

 とりあえずとぼけてみる。そもそも「見た」と素直に言ったらどうせ怒るに決まっているので、こういうときは嘘も方便だ。それに見えたといっても一瞬だし、いつもはもっとしっかり見ている。
 胸。俯いたフレイヤがぼそりと呟いたので「見てねェ」と安心させるように言う。彼女の後ろに回って同じようにしゃがんでから改めて水着の作りをまじまじと見つめた。
 どうやら首の紐とは別に背中も結ぶようになっているらしい。首の部分よりも太い布でリボン結びが施されている。こっちは大丈夫みたいだが、さっきの少年は長い棒を持っていたのでリボンの輪に引っかけたのだろう。偶然にしては出来すぎたハプニングに苦笑しつつ、ここは念のために両方結び直しておいたほうがいいだろうと背中のリボンをほどいた。

「ひゃっ……な、にして」
「こっちも結び直しておいたほうがいいかと思ってさ。また解けたら困るだろ?」
「そ、っか……」

 と一応納得してくれたのだが、腕を外してくれないので水着を固定できない。縮こまったまま動かないフレイヤに「結べねェだろ」と声をかけてから、サボははたと目の前に広がる綺麗なそれに気づく。
 白いな――外に出る機会が少ないこともあるが、彼女の肌は周りの人間に比べてとても白い。くわえて肩から腰にかけてのラインが妙に艶めかしく、白日の空の下、それがくっきりサボの目に映る。太陽に照らされて眩しささえ覚えそうだった。
 そんな無防備に晒されているフレイヤの背中に思わず吸いつきたくなる衝動をぐっと堪えて、「どけねェとこのまま襲っちまうぞ」囁いてやんわり耳朶を食んだ。

「……ッ」

 あ、はがれた。一瞬の隙をサボは見逃さなかった。フレイヤの腕が離れた瞬間、すばやく背中のストラップを引っ張り若干きつめに結んでから、首の後ろの紐も同じようにして結んだ。女の水着は本当よくわからない。こんな紐で布を支えるなんてどうかしていると思うが、本来はほどけないというので実際そうなのだろう。今回は運悪く引っかかってほどけてしまっただけだ。しかしそれが問題だとサボは考える。

フレイヤ。次からこれを着るのはナシだ」
「え、なんで。やっぱり似合わない?」
「違ェよ、そんな理由じゃない」

 不安そうに聞くフレイヤに、サボはすぐ否定した。
 似合わないわけない。コアラと一緒に選んできたのだろうからそのセンスに疑う余地はない。サボが気にしているのはこういう万が一の事態が起きたときのことだ。今日は子どもの不注意として留飲を下げることができるが、これがもしどこの奴ともわからねェ男だったら? こんな心許ない格好でうろうろしてたら声をかけられるに決まっている。そうなれば力で勝てない彼女は簡単にひと気のない場所へ連れていかれるだろう。そのあとどうなるかなんてことは想像するだけで吐き気がする。

「この紐がほかの男にほどかれでもしたら腸煮えくり返そうだ」

 結び目に指を一本引っかける。このまま指を動かせば、しゅるりと簡単にほどけていくほど危うい布だということをフレイヤにわかってほしい。簡単にほどけないというのは人為的でもない限りという意味だ。不意を突かれて後ろに回られたらこんな結び目はあっという間にほどけてしまう。

「で……でも、せっかく頑張ってみたんだけどな」

 ところが、残念そうにするフレイヤの背中が見る見るうちに小さくなっていくのを見た瞬間たまらくなった。ビーチだということも忘れて後ろからぎゅっと抱く。
 ――わかってるよ。
 黒なんて普段着ない色を選んだのはサボに見せるため。誘惑する気があったかどうかはともかく、彼女にしては大胆な色であることは間違いない。けど、だからこそこっちの気持ちもわかってほしいと思う。

「こんな挑発的なお前をほかの奴らに晒すなんておれが許すわけねェだろ」

 おれの前だけにしてくれ。もう一度囁いてからフレイヤを立ち上がらせると、今度こそ二人で砂浜を歩いてゆく。視線の先にさっきの子どもたちがスイカ割りをしているのが見えた。