ハイドランジアの御守
その窓からは紫陽花が見えた。青に桃、紫もある。詳しくはないが地面に植えてあるのが一般的だったはず。ところが、この家の紫陽花は鉢植えにして育てているらしい。サボは徐々に覚醒していく頭でそんなことを考えていた。
「怪我は大丈夫なの?」
くるりと窓から反対側へ首を捻ると、ひとりの女が立っていた。麻のような生地のエプロンを身に着けた若い女だった。手に持っているのは切り取られた青の紫陽花で、鉢植えになっているものと比べると少しサイズが小さい。
自身の記憶が正しければ、任務中にちょっとした手違いから負傷し、見つからないよう潜入先から離れた路地裏で息をひそめていたのだが途中で力尽きた。そのあとしばらくして誰かに声をかけられたものの、意識が朦朧としていてあまり覚えていない。
「適切な処置のおかげでな。これはお前がやってくれたのか?」
背中から右腕にかけての包帯を示して問いかける。痛みはまだ残るが、血は止まったようだし安静にしていればいずれ治るだろう。怪我は日常茶飯事なので特別気にする必要はない。
「正確に言うと、包帯を巻いたのは私だけど処置を施したのは医者。懇意にしてるおじさんよ」
「そうか。ありがとう助かった。ところで――」
「私の家の裏側で倒れてたあなたを見つけた。ひどい出血だったからすぐに医者を呼んで診てもらったあと、ここまで運んでもらったわ。私は花屋を営んでるこの家の住人。下に店があるの」
質問する前に聞きたいことをすべて答えてくれた女は、あっさりとこちらのテリトリーに入ってきて包帯の状態をうかがう。少し血がにじんでる、後で変えたほうが良さそう。独り言ちてベッドから距離を取ると、片笑みを浮かべて「ほかに聞きたいことでもあるのか」という顔を作った。
「いや……おれのことは聞かねェのかと」
「聞いたら教えてくれるの? そうとは思えないけど」
つかみどころがない女だと思った。妙に察しがよく物分かりがいい。怪我人とはいえ、得体のしれない男を助けた上に身分を聞かないとは少し警戒心が薄いのではないか。サボは眉をひそめて女に問いかける。
「おれが海賊や物盗りだったらどうするんだ」
「大丈夫よ。魔除けの御守りがあるもの」
女はこちらの発言を可笑しそうに否定して窓の上を指した。指先をたどって見えたのは、軒下に吊るされている何かだった。少し体を動かして窓に顔をくっつけ目を凝らすと、赤と白の紐で結ばれた紫陽花が逆さまになっていた。しかしこれが何だというのだろう。
「この地域では、ハイドランジアは魔除けの象徴なの。だからこの家に災いはおとずれない」
ハイドランジアは紫陽花の名前だと付け加えた上で、女は真面目に語った。察しがいいかと思えば、目茶苦茶なことを言う。紫陽花が魔除けだと? ここでおれが能力を使えば確実に怪我をするだろうに。
「いま、私のことを変な女だって思ったでしょう。はじめて見た人は必ずそう言うわ。でも効果は絶大。あなたはこの家で何もできない」
自信満々に言うのが気に食わなくて、サボは少し脅してやろうと炎を――と、手に力を込めたところで違和感を覚えた。いつもなら指先からジリジリと炎をまとわせることができるのにまったく変化がない。どういうことだ……?
「ふふ、どうしてって顔してる。ここで育てているアジサイはすべて魔除けの効能を持っていて、逆さに吊るすか身につけるか、そのどちらかを行えば自分の身を災いから守ることができるの」
「花にそんな能力があるとは思えない」間髪を入れず否定する。だってそうだろ、たかだか花に?悪魔の実?の能力を遮断する力があるなんて聞いたことがない。
「そうね。にわかには信じられないと思う。だから……あなたにもあげる。お兄さん、この島で何か調査してるんでしょう?」
「……どうしてそう思う」
「だって見たことない顔だもの。数日前に見覚えのない船も見かけたし、こんな大怪我して倒れてるなんて一般人じゃない」
だからあげる。そう言って、彼女は手にしていた青の紫陽花を手渡した。受け取ったそれは窓に吊るされているものと同じくらいの大きさで、もしかしたら鉢に植えてある紫陽花は観賞用ではなく彼女が言うところの魔除け用なのかもしれない。こんな小さな花で身の安全が保障されるとはやはり信じがたいが。
「いいのか? 海賊かもしれねェぞ」
「おかしな人。海賊はいいのかなんてわざわざ聞かないわ」
女が声を出して笑う。それはサボの前で初めて見せた柔らかい表情だった。つられてこちらの頬も緩む。
「それもそうだ」
「じゃあ何かあったらお店にいるから。しばらくは安静にして寝てること。いい?」
サボを子ども扱いするように釘を刺した女はそのまま静かに部屋を出ていく。
ひとり残されたサボは手元の紫陽花を見つめて、真面目にこんな花を御守だという彼女をおかしく思った。