呼吸ひとつ上手くいかない夜のこと


※『たしかに恋をしていた』の番外編です

「やめろフレイヤ

 注射器を取り上げてサボは膝をついた。洗面台の前で座り込んでいる彼女を支えるように肩を抱き寄せると、「ふっ」短く吐息を漏らして震えた。呼吸が浅い。恐れていた吸血衝動が起こっている証拠だ。やはり様子を見に来て正解だった。
 フレイヤが吸血鬼に突然変異したのは今朝のことだ。犬歯が生えていることに気づいて悲鳴をあげた彼女が、涙目で「どうしよう」とすがってきた。医者曰く、「稀に見る吸血鬼化現象」だそうで、二日経てば元に戻るという。ただし、注意しなければならないことがあった。

「でもっ、これがなきゃ私――」
「わかってる。苦しいんだろ? だったらおれの血を吸えばいい」
「ッ……そんなの、」
「できねェって? いいんだよ、お前につけられる傷なら。血だって必要なら与えてやる」

 吸血鬼には生きる上で避けられないことがある。それは吸血行為だ。血を吸わないと生きられない。そして血が不足しているときに起こる、激しい吸血衝動。吸血鬼によって差はあるようだが、欲に身体を支配されて苦しむ者もいるという。医者はそれを恐れて、彼女に抑制剤を処方してくれていた。
 だが、サボはフレイヤに薬を打たせたくなかった。医者の話じゃ、衝動を抑えるための強い薬だというし、副作用があるかもしれない。そんなものを打たせるくらいなら、喜んで自分の血を捧げる。「我慢しなくていい。おれは大丈夫だから。な?」涙を流している彼女に、サボは自身の右腕を差し出した。それでもしばらくは躊躇っていたが、やがて理性の限界がくると、

「ッ……ごめんねサボ……んっ」

 腕に鋭利な何かがつぷんと刺さった。しかし、不思議とあまり痛みがない。穿たれた場所から血が滴り、直後、じゅるじゅるという生々しい音が響く。フレイヤの柔らかい唇の感触と、吸われている感覚。彼女と繋がっているときの気持ち良さとはまた違う、この浮遊感は一体なんだろう。
 吸血鬼にしては随分と可愛らしい吸い方をする彼女がたまらない。そしてちろちろと舐める拙い舌の動きがひどく官能的で眩暈を起こしそうだった。

フレイヤッ……」

 そんなつもりなどなかったのに、彼女の普段と違う姿にサボは本能的な欲を抑えようと必死で歯を食いしばった。