その熱のなまえは疾うに知っていたのに
※吸血鬼ファンタジーパロ
身支度を整えてから下の階へ行き、広間のソファで読書をしているこの屋敷の主へ「行ってきます」と声をかける。いつも通りちらりと目線をこちらに向けた彼は、爽やかな笑顔とよろしくの一言だけで私を送り出す。玄関まで見送るとかもう少し興味を持ってくれてもいいのに、と思わなくもないが、所詮彼にとって私は栄養補給程度なのだろう。考えるだけ時間の無駄なので、軽い会釈を返してから屋敷を後にした。
私の住む、ノースデールの学術都市ヴァトマには大学を含めた研究機関が多く存在し、学生や学者たちの知識の手助けとなる中央図書館が都市の中心部に建つ。普段はその図書館で司書として働いているが、今日は私の勤務日ではないので図書館を通りすぎて、運河の市場へ向かう。主から頼まれた物のほか、食料品などの必要物資を調達するためだ。
学術都市とは言っても、国と国を結ぶ中継地なので人の往来は激しい。学生以外にも商人や職人が多く行き来するし、他国の品物が定期的に輸入されてくる。ここを拠点としている商人もいるが、中には店舗を持たずあちこち移動して商売をする行商人もいるので、案外そういったお店から掘り出し物を見つけりするのだ。
食料品は後にするとして先に彼が必要としているものを購入する。人間は栄養とは関係なく、味や香りといったものを楽しむ習慣があるが、彼もまたそうした嗜好品を持っていた。コーヒーである。私はどちらかというと紅茶派なので、コーヒーに関して詳しくない。以前、「どれも同じ味でしょ」と言ったらちょっとむすっとしながら、産地や品種によって味も香りも違うと彼に主張された。まあ紅茶も同じだからそれもそうかと思い直す。
運河に沿った市場の半ばまで来たとき、ようやくいつもの露店を見つけて中を覗きこんだ。コーヒー豆が入れられた麻袋がずらりと並ぶ中から、サウスデール地方の豆を探す。しばらくきょろきょろと探していると、店のおじさんがこちらに気づいて手をあげた。
「お、また来たな嬢ちゃん。今日はどこの豆を探してる?」
「ありがとうございます。酸味が控えめのサウスデールの豆をお願いします」
「了解」
おじさんは満足そうに笑ってこちらが求める豆をいくつか見繕ってくれた。市場の露店は毎回同じ店が出ているわけではないが、ここは二か月に一度のペースでやってくる。世界各地のコーヒー豆を取り揃えているのはここだけなので、主がひどく気に入っていた。かれこれ一年ほどの付き合いになるだろうか、すっかり顔なじみである。
「あいよ。おまけで、昨日手に入ったウエストデールの新作も入れといた」
「わ、喜ぶと思います。支払いはこれで」
「まいどあり」
気前よく札を受け取ったおじさんは素早く計算を済ませて釣銭を手渡すと、私の隣にいた客に声をかけた――と思ったら、くるりと首を戻して「そうだ」と何かを思い出したように言った。
「最近この町は物騒だから気をつけな。何でも人じゃねェバケモンが町を闊歩してるって噂だ。特に若い女が狙われやすいらしい。一昨日襲われたのもヴァトマ学院の女学生だってよ。おれァ、吸血鬼とかそういうのは信じねェ質だが、周りで見たって奴もいるしなァ」
最後のほうは独り言に近い発言だったので、曖昧に頷いてから私は別の店へと歩を進めた。
ヴァトマに妙な噂が流れていることは知っていた。最近、人ならざる化け物が町の人々を襲っているという。それも若い女が多く、新聞に掲載されていた犠牲者の名は確かに全員女性だった(といっても死人が出たわけではなく、何かに刺された痕が首に残っているというだけだ)。しかし、この世界に人ならざる者が存在することをすでに知っている私は驚かない。
朝の時間帯なのに市場だからか人通りが多く、学生や観光客のような集団とすれ違い、思考はそこで途切れた。自分でもぼうっとしているつもりはなかったが、前方から勢いよく向かってきた人がいたようで、私は思いっきり吹き飛ばされて地面に尻もちをついた。
「うわっ、ごめんなさい……って、もしかしてシェリン?」
差し出された腕を掴みつつ、なぜか名前を呼ばれたので目の前の人物を見上げる。切れ長の目にほっそりとした顎、そして独特な銀髪。私の知っている中でこの外見に相当する人間は一人しかいない。
「……もしかしてアーニー?」
「そうだ、僕だよ! よかった、本当にこの町にいたんだ!」
私を支えながら起こしてくれた彼は、再会を喜ぶように抱きしめてくれた。喜びよりも驚きが隠せない私はぎこちなく抱きしめ返すだけで、言葉が出てこない。
最後にアーニー(正式にはアーネスト)と会ったのは九年前、彼が施設を出るときだった。それからは年に一度彼から手紙が届くだけで、しかも手紙だって最初の五年間だけでそれ以降は音沙汰もなく、私も十八で施設を出たからもう会えないものだと思っていた。まさかこんなところで再会するとは夢にも思わず、ようやく離れた彼の顔を見上げて呟く。
「どうしてここが……?」
「シスターに聞いたんだ。君の就職先がヴァトマの中央図書館だってね、それで探しに来た」
「そうだったんだ……手紙が五年でぱったりなくなったから、施設のことなんて忘れちゃったんだと思ってた」
「ごめん。手紙を書く暇もないほど仕事が忙しくてさ。最近になってようやく休暇をもらえたから、旅行もかねて君に会いに来たんだ」
ここで話すのもなんだから、僕の泊まっている宿に行こう。
アーニーは強引に私の手を引いて、市場の通りから抜け出した。買い出しの途中だったし、主に寄り道をすることも伝えていないが、少しくらいなら問題ないだろうと考えて結局ついていくことにする。
そのとき、時計台から九時を告げる鐘の音が鳴った。公共機関の始業開始時刻となり、人々が営みを始める。一日のはじまりの音を聴きながら、私は最後に見たときよりさらに大きくなったアーニーの背中で揺れる伸びた銀髪を静かに見つめた。
*
アーニーが宿泊しているホテルはヴァトマの中でも一流ホテルで、一瞬入るのを躊躇ってしまうほどだった。億劫そうにする私にクスッと笑みをこぼした彼は、「そんなに構えなくても大丈夫だよ」と紳士よろしく手を引いて部屋に案内してくれた。
中に入ると、一人で泊まっている割には広い作りになっていて、ベッドやシャワールームのほか、大きなソファとローテーブルまであった。もしかしたらホテルの中でも、ランクの高い部屋なのかもしれない。仕事が忙しいと言っていたが、一体どんな仕事に就いたら高級ホテルに泊まれるほど稼げるのだろう。そんな疑問を抱く私の心を見透かしたように、アーニーはソファに座ってすぐに自身のこれまでについて語ってくれた。
施設を出てからの彼は教養を身につけるために三年間学校へ通い、卒業後とある機関の書記官に就職したという。最初の二年は見習いとして働いていたが、以降はすべてのことを任されるようになって手紙を書く余裕がなくなってしまったということだった。故郷へ帰る時間がとれた頃には、私がすでに施設を出ていったあとだったので、シスターに聞いてわざわざ会いに来てくれたそうだ。確かに、私はヴァトマの図書館に就職したことを近況報告もかねて世話になった施設へ手紙を出したので、施設の人間であれば誰でも知っているからここへ訪ねてくることは容易いだろうけど……。
アーニーと私は生まれてすぐ、ノースデールにある修道院が管理している児童保護施設へ預けられた身寄りのない子どもだった。ほかにもそういった子どもたちはたくさんいて、そこでは修道士の大人が面倒を見てくれる。私たちは五歳差だったが、すぐに仲良くなり、彼が旅立つ十六歳まで苦楽を共に過ごした。友人として一番気心が知れた仲だと言ってもいい。当時は彼が旅立つのを寂しく思い、「行かないで」と泣きついたのだが、それでも人は意外と図太くできていて、彼のいない生活にも慣れたものだった。
現在安定した職につき、最後に会った十六歳のときの面影を残しつつ硬派な大人へ成長したアーニーは、施設にいた頃、森の中で泥まみれになって遊んでいた自由奔放な一面がすっかりそぎ落とされて近寄りがたい雰囲気さえあった。
「会いに来てくれてありがとう。いろいろ大変なこともあるけど、司書の仕事は楽しいし、この町の人も比較的皆いい人だからそれなりに上手くやってるよ」
私も私で、就職してからの二年間をアーニーに打ち明けた。もちろん、主のことや身体の変化についてはさすがに話せないが、当たり障りのない程度に、下宿生活をしていることと今の生活に満足していていることを伝えた。彼が心配して訪ねてきたようだから。
「……そうみたいだね。安心したよ」
「じゃあそろそろ帰るね。実は下宿先の人に買い出しで出てくること以外伝えてないから戻らないといけないの。でも、帰って時間を作れないか聞いてみるから少し待ってて」
購入したコーヒー豆の入った袋を持ち、ソファから立ち上がる。別に何時までに帰らなければならないという決まりはないが、買い物をしている時間がいつもより長ければ何事かと注意を受けるかもしれない。明確な主従関係がないとはいっても、家の主を蔑ろにするのは気が引ける。
そうして、部屋の扉に手をかけたときだった。
「やはり獣と暮らしているという話は本当だったのか」
「え?」
アーニーの声色が変わったことに気づいて振り返る。下宿先という表現はあながち間違いないではないので、深く追及されないためにそう言ったのだが、獣と暮らしているという話に飛躍するのはどうしてなのか。背中に嫌な汗が流れていく。
どういう意味かと問う前に、彼がこちらに距離を詰めてきた。部屋の扉を開ける前に挟まれてしまったせいで逃げ道がない。見上げたアーニーの表情はほの暗く、何を考えているのかわからなかった。先ほどまでの穏やかな雰囲気とは変わって目が笑っていない。その事実に戸惑いながら、私は彼にどういうことなのかを聞いた。
「本当はね、君を迎えに来たんだ。一緒にサウザンドシティへ行こう」
「なに言ってるの……? 私には私の生活が――」
「来ないというのなら、君と一緒に住んでいる吸血鬼を殺すしかないな」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。そして理解した直後、どうしてアーニーが吸血鬼のことを知っているのだろう。正確には、私が"彼"と住んでいることを知っているのか、だけれど――
この世界において、吸血鬼の存在が珍しくないことは大人ならほとんどの人間が知っている。彼らは人里離れたところに住み、静かに暮らしているという(その場合、栄養となる血はどうやって得ているのか知らない)。ただ、見た目が人間と変わらないせいか、"彼"のように人間に紛れて生活している者も多いそうだ。
しかし、人間の生き血を吸うことから、人間から恐れられ、化け物扱いされるというのは昔から聞いていた通りだった。吸血鬼として生まれた彼らは、二十代前半まで年を取ったあと老化が止まる。つまり同い年の人間と同じ年数を過ごしても、彼らだけは年を取らない。不死人ではないが、不老である。それはすなわち、自分が吸血鬼であるということを示している。周囲に感づかれないように、だから数年ごとに移住するのだという。
周囲が老いていくのに自分は変わらない。それが彼らにとって負い目になるようで、だから人知れずいつの間にか姿を消して、別の街で生きていく。そうやって彼らは生きていた。
「……アーニーが何を言っているのかわからない。私は吸血鬼と一緒に暮らしてなんかいない。大体どこからそんなことを聞いたの?」
とっさに誤魔化した。この人に真実を知らせてはいけないと脳が警鐘を鳴らしたからだ。アーニーがどういうつもりで言っているのか、真意がわからない。
彼は私が同行しなければ吸血鬼を殺すと言ったが、吸血鬼は何も処罰対象ではない。確かにその身体能力や戦闘力から化け物だと恐れられている存在ではあるものの、"彼"のように理性がはたらく者もいる。すべての吸血鬼が悪だと決めつけるのは、その存在を知ってしまった今、納得できなかった。
しかし、相手が求める回答ではなかったらしく、アーニーの表情はますます険しくなっていき、
ドン――!
顔の真横で扉を叩く激しい音が鳴り、私は恐怖で体を震わせた。彼の右手が扉を叩いたのだと理解したとき、ようやく彼が苛々していることに気づく。
「白を切る気かい? 別にそれでもいいけどね。僕は僕の権限で吸血鬼に制裁を与えることができるから」
「……どういうこと?」
「言っただろう? 僕はある機関で書記官をしていると。それは人ならざる者を討伐できる警察隊ヴィジル・ド・モンテなんだ」
「ヴィジル・ド・モンテ……」
もちろん名前は知っている。首都サウザンドシティにある政府直轄の警察隊。体力、知力ともに優秀な人材を集めた精鋭メンバーで構成されている機関。ノースデールしか知らない自分には縁の遠い場所だ。まさか、アーニーがその書記官を務めているなんて思わなかったから驚きが隠せない。
しかし、ヴィジル・ド・モンテが人ならざる者を討伐しているなんて話は聞いたことがない。彼らは国家警察組織であり、国の安全を脅かすような敵に対して働く機関だ。当然吸血鬼はそういう対象ではない。だから、討伐だなんてそんなこと――
「詳しくは説明できないけど、最近吸血鬼が若い女性を襲っているという話は聞いているだろう? それはヴァトマだけじゃない、ほかの都市からも報告が届いているんだ。だからヴィジル・ド・モンテが動くことになった」
市場のコーヒー売りのおじさんが言っていた噂だ。人ならざる者――すなわち吸血鬼が若い女性を狙って血を吸っている事実はたしかにある。新聞の「刺された痕」というのは、吸血鬼の牙のことだ。だから"彼"からも気をつけるよう言われていたし、それはつまり"彼"が無関係であることを証明しているのだが、アーニーが言うように理性を失い、人を襲う吸血鬼がいることもまた事実であった。人間を脅かす存在だから排除せよと政府が進言すれば、直轄機関は動かざるを得ない、ということだろうか。
だけど、と内心反論する。"彼"には心があり、理性があり、少なくとも誰彼構わず血を吸うという暴挙を起こすことはない。討伐対象になんてさせるものか。
「悪いけど、貴方に"彼"のことを話す義理はない」
「やはり知っていたようだね。シェリンは悪い子だなあ、僕に嘘をつくなんて。小さい頃はよく後ろにくっついて何でも僕の言うことを聞いてくれてたのに」
「……そんなの――ッ」
昔のことでしょう?
そう言いたかったのに、最後まで言葉を紡げなかった。右腕に鋭い痛みが走り、気づけば鮮血が流れているのが見えた。何が起こったのかわからず、ずるずると床に崩れ落ちる。そんな私の姿を見たアーニーは屈んで目線を合わせると、「悪い子にはお仕置きが必要だよ」と耳元で囁いた。
*
「それで許したっていうのか君は。……まったく、とんだお人好しだな」
「う、ぁ……くっ」
両腕を縛っている縄が一層強く引っ張られる。こちらがもがけばもがくほど、縄が皮膚に食い込み、血がにじむ。
アーニーの言う”お仕置き”が始まってから三十分ほどが経過していた。
あのあと彼によって連れてこられたのは、ヴァトマの北部にある古びた刑務所だった。全国にいくつかある刑務所のうち、ヴィジル・ド・モンテが管理している刑務所は限られているらしく、ここはそのうちの一つだという。そこには特別凶悪な犯罪者を隔離するのに使われる独房が最上階に位置し、私はその場所で彼から折檻を受けていた。
コートをはぎ取り、ワンピース一枚になった私の体を縛りつけて上から吊るすと、暴くように「どこを汚されたんだい?」と肌にキスを落としていく。後手に縛られているせいで両手の自由はなく、足も微妙にかかとがつかないのでずっと辛い体勢をとらされている。
上半分だけはだけたワンピースから露わになった肩や鎖骨、胸元にはこれまで"彼"がつけた牙の痕が紅く残っているのがわかる。アーニーはそれを見た途端、一瞬眉をひそめたものの、すぐに憐れみの表情を浮かべて私の頬に触れた。
「こんなに穢されて可哀想に。僕が清めてあげるからね、安心してシェリン」
「痛っ……」
はだけた胸元に口づけて、アーニーは私の身体に触れていく。優しい手つきとは裏腹に、その表情からは怒りや焦燥、不満といった負の感情が読み取れる。
「いいかいシェリン。君は僕が見つけた聖女なんだ。これからは誰の目にも触れさせない」
「ぅ……あ、」
「大丈夫だよ。僕が化け物から守ってあげる」
「……ッ」
痛みで何も答えることができない。バストを圧迫する縄も身じろぎすれば肌に食い込んで擦れる。アーニーにとっての「お仕置き」がどうやら吸血鬼の毒牙によって汚された身体を清めるということらしいが、私は"彼"に汚されたとは思っていない。それに"彼"を化け物と呼称するのもやっぱり納得がいかなかった。
アーニーの指先が胸の膨らみに触れる。つぅっと下から上へ動く様は、生き物が身体を這っているようで気持ち悪い。しかし、身動きがとれない以上、私の抵抗はただ肌を傷つけるだけだった。このままお仕置きが終わるのを待つしかないのだろうか。落胆した直後のことだった。
――ドォン!
レンガの壁を破壊する爆発音が真横で轟き、正面からその衝撃を受けたアーニーが後方へ吹っ飛んだ。
「イイ匂いがするな」
粉塵が舞い上がって視界がおぼろげだったが、誰かが私の足元へ屈んだことだけはわかった。「ったく……こんな場所に監禁しやがって。趣味悪いなあんた」その言葉で、ようやく助けてくれた人が"彼"だとわかり、緊張感や不安といったものから解放された私は意識が朦朧としはじめた。背中と膝裏に"彼"の腕が回され、抱き上げられたことがわかる。
「黙れっ……この汚らわしい獣めっ!」
「この女はその獣がお気に入りだぞ」と、アーニーを煽るような発言をして"彼"は妖しく笑う。
「シェリン、どうしてそんな悪魔のような男についていくんだ! こいつは君を喰い物にしか思っていないんだぞ!」
アーニーは裏返った声で叫び、苛立ちを表すかのように拳を地面に叩きつけた。しかし、私はそれに答えるだけの気力がすでになく、口を開くのが精いっぱいだった。その様子を見かねた"彼"がやれやれといったふうに肩をすくめる。
「何とでも言えばいいさ。彼女はおれのモノだ、連れて帰らせてもらう」
"彼"の愛用する黒いマントがばさっと音を立てて翻り、次の瞬間身体が宙に浮く感覚がした。アーニーが何か喚いているが、返す余裕もなければ言葉も思いつかない私はただ黙って"彼"に抱かれていた。
*
屋敷へ到着するなり、"彼"は私を応接間のソファへ放ると、マントを脱ぎ捨てて覆いかぶさってきた。まずい、逃げられなくなった。"彼"の表情には怒気が滲んでいる。出会った当初こそ恐怖があったものの、"彼"が理性を失った獣ではないことは私が一番よく知っているはずなのに、今はまったく知らない別の人みたいだった。
押し倒されて身動きできない私に、"彼"は暗い瞳をこちらに向けて尋ねてくる。
「買い物だと言っていたのに、ほかの男のところでこんな姿を晒したとは悪い子だな」
「ちがっ……あれは不可抗力で、私が望んだわけじゃ……」
「まァいいよ。今から気絶するまで可愛がってやるから」
"彼"の顔が近づいてきて、そのまま一気に首元へ噛みつかれた。牙が深く突き刺さり、直後、血をすすられる感覚に襲われる。
それが、いつもと違うということはすぐにわかった。普段の"彼"は、私が元は人間だという理由から吸血行為を加減してくれていたのだが、今日はまったくその欠片も感じられないほど、激しく吸われている。怒りという感情を、血を吸うことで発散しているような――そんな感じがする。それでも私が"彼"を拒めないのは、私が"彼"と同じ吸血鬼になってしまったからだろうか。
「ぁ、サボさっ……はっ、んン」
「あいつの匂いなんて消してやるよ」
じわじわと這ってくるようなテノールの声が耳元で声がしたかと思うと、かぷっと耳に牙が突き立てられた。最初はやんわり食むような強さで吸血されていたのが、段々首へ下がってくると激しさが増してくる。痛さで目をぎゅっとつぶっていても、次第に快楽をもたらすことはすでに知っていた。
息が上がってくる。感覚が麻痺してくる。しかし、このペースで吸い続けられれば私の体がもたない。それに、縄で擦り切れた肌はまだ血が滲んでいて痛かった。
「あ、あのっ……も、少し、やさしく……ぁ、縄の感覚が、んっ……」
「シェリン。お前はおれのものだろ? ほかの男に与えられた快楽を感じるなんて許さない」
「ひっ、ぁあッ……サボさ、待っ――」
「もう十分待った。あの場で見せつけてやってもよかったが、おれは下品な吸血鬼達とは違う。雑種じゃないしな、誰彼構わずってわけでもねェんだ。だからお前を傷つけられたことにすげェ腹が立ってる」
今度は肩に牙を立てられた。そこから瞬く間に血を吸い取られ、また別の場所に突き刺して――そうして痕を残していく。
痛みと快楽。吸血行為にはこの二つの感覚が伴うのだが、不思議なことに後者を感じる人間は稀だという。"彼"の話によれば、処女が吸血鬼に血を吸われるとそうなることがあるというが、それも「人による」そうだ。
思考を奪うような吸血に私の脳は少しずつ鈍くなっていき、身体が火照りはじめる。血をすする音がまるでキスをするときのリップ音のようで、聴覚まで犯されている感覚がした。
「あいつにどこを触られた?」
いったん私の身体から離れた"彼"が、今度は胸元に手を伸ばして触れる。やさしい手つきはアーニーと同じ触れ方なのに、まるで違っていて気持ち良さをはっきり自覚していた。
「ふっ、ぁ、あっ……んっ」
「ここ?」胸の先端を摘ままれた。
「ゃっ、それ、やめっ……ッ」
きゅぅっとこねられて、身体が大げさに跳ねる。片方は舌ですくうように舐められて、片方は指先で転がすように弄られて。吸血行為とは別に、"彼"は私の身体を弄ぶ。これ以上されたらおかしくなってしまうのに、"彼"はひどく愉しそうだ。そして、そんな私の心を見透かしているように笑う。
「なんでだよ。血がどんどん甘くなってる。気持ちいい証拠だ」
「でもっ……」
「言ったろ? 気絶するまで可愛がるって。覚悟しとけ」
ひどいことを言われているはずなのに、私の額にキスをする"彼"の表情が優しくて、「可愛がる」という言葉に体の奥が疼いてしまった。
*
「悪い。人間は脆い生き物だってことを忘れてた」
目が覚めると、隣で頭を撫でる"彼"と目が合った。いつの間にかベッドに移動していたので"彼"が移動させてくれたのだろう。あのあとの記憶はほとんどないが、ひたすら"彼"の吸血と愛撫に応えていた気がする。ゆっくり体を起こして、たくましい上半身を晒した"彼"の隣に寄り添う。
「私はもう人間じゃないよ、サボさん」
「そうだけど、眷属種は純血種と違って力が弱いだろ。こうして撫でてる手だって、加減を間違えたらお前の頭を握り潰しちまう」
吸血鬼という種族には主に二種類いる。"彼"――サボさんのように生まれながらにして吸血鬼である場合。いわゆる純血種と呼ばれる存在だ。そして、もう一つは吸血鬼によって吸血鬼にさせられた場合。これが眷属種と呼ばれるが、純血種が人間の能力をはるかに超える戦闘力や再生力を持っているのに対して、眷属種は能力が劣るため体力も人間とほぼ変わらない。見た目はどちらも二十代くらいが多く、老化現象が止まった時点から一生を同じ姿で過ごす。
私はサボさんと出会い、彼によって吸血鬼にさせられたが、自らそうなることを選んでここにいる。強制されたわけじゃない。
「心配してくれてるの? 普段は素っ気ないのに」
私のことをただの餌としか見ていないのかと思えば、時々愛されているかもしれないと勘違いするほどサボさんは私を求めてくれる。
アーニーとのことだって、あんなに怒るとはちょっと予想外だった。決して彼にされた「お仕置き」に快楽を感じたわけではないのだけれど、サボさんがほかの男性の匂いを嫌ったり、快楽を覚えるなと怒ったりするのは少しでも私を想ってくれているからなのだろうか。
「そうか? まあ細けェことはいいだろ」
サボさんがあっけらかんとした表情で笑う。誤魔化されたような気もするが、今はそれでもいいかと思えた。私はこの先も彼とともに生きていくと決めているから。
「朝ご飯まだでしたね。作ります」
「んー……おれはどっちかって言うとお前が足りねェからそっちのほうが、」
「さっき十分吸ったでしょ! 今日はもう終わりです!」
怒ってベッドから抜け出すと、背中越しに軽快な笑い声が聞こえてきた。やっぱり弄ばれている気がする!