ハンドクリーム

「うわっもしかしてあかぎれ……?」
 客先から戻ってきて早々、自分の指先を見て思わず声が漏れた。
 皮に亀裂が入っている――なんて表現は大げさに聞こえるかもしれないが、実際ぱっくり割れてしまっていた。指の関節あたりが。いくら乾燥しているからって女としてどうなんだ、この手は。とりあえず誰にも見られまいと周りを気にしながら、何事もなかったかのように自席に腰を下ろす。幸い、自分の島は全員が外出しているらしく、今の大きな独り言は誰にも聞こえなかったようだ。
 今日はこのあと打ち合わせが一件あるだけで、残りは終業まで自分の作業だったはず。帰りにハンドケアのサロンにでも寄ろうか、と考えながら急いで会議の準備をはじめた。

 話が長いっつーの、あの主任。
 内心、毒づきながら会議室を出て部署フロアに戻る。当初、一時間で終わる予定だった打ち合わせは一時間半オーバー、つまり二時間半もの間、狭い個室にすし詰め状態だった。別に必要な打ち合わせならいいのだが、主任の場合は一つの話題が膨らむたびに脱線するから困る。進行役の新人があまりにも可哀想だったので、私や先輩が先を促すほどだった。おまけに、これで自分の作業に費やせる時間は一時間半しかなくなった。あり得ない。今日は何が何でもサロンに寄りたいのに。
 憂鬱な気分でデスクまで戻ってきたとき、ふと先ほどと何かが違うことに気づいてあれ? と首をかしげる。デスク右側の書類などが積み重なった山と中央にあるパソコンとの間に、あきらかに開封済みだと思われるハンドクリームが置いてあった。よくある市販のもので、表側には赤字で「ひび・あかぎれ・つらい手洗いに」と書かれている。
 もしハンドクリームだけだったなら気味が悪くて捨てていたところだが、よく見るとハンドクリームには水色の付箋がついていた。
「……!」
 "気をつけろよ"
 たった一言、殴り書きでそう書かれていた。
 見慣れた筆跡に息を呑んで、ぐるりと顔を右側に向ける。窓側の島に、ひとり涼しげな顔でパソコンを動かす綺麗な金髪の男がいた。しばらくして、こちらの視線に気づいた彼は私の顔を見るなり、「随分とデカい独り言だったな」と可笑しそうに言ったのだった。

2025.12.02 現パロ