お待たせいたしました。

※現パロ

 社会人になったらもっと心に余裕ができるものだと思っていた。ところが、実際は仕事を覚えるのに精いっぱいだし、資格取得のために休日は勉強だし、恋人から連絡が来ても疲労が勝って一か月に二回会うのが限度だし、結局家でゴロゴロするだけという何とも味気ない日々が半年ほど続いた。だからといってブラック企業に勤めているというわけではなく、仕事は大変だがそれなりに成果をあげて、やりがいを少しずつ感じるようになってきた。
 社会人になって半年目を終える日の夜。恋人に「夕飯を一緒に食べよう」と連絡した。数か月ぶりに手料理をふるまう余裕ができたというのもあったし、この半年間のことを謝りたかったというのもある。
 こんな状況になってしまったのは、だから自分のせいだとわかっている。わかっているけれど。

「お前いい加減にしろよ」

 玄関先に、男の低くて剣呑とした声が響く。扉を開きっぱなしにしているせいで、周囲に彼の声が聞こえていないか気になって仕方ない。だけど、それよりも今は彼の機嫌をどうしたら直せるかを急いで考えなければならなかった。

「ごめん。急な顧客対応で時間がなくなったの」
「おれはデリバリーを食いにわざわざ電車賃払って来たわけか」
「だからごめんなさい。次の定時退社の日はちゃんと作るから」

 肩をすくめて弁解しながらも、どうしてこんなに怒られないといけないのだろうと疑問を持つ自分がいた。
 久しぶりに定時退社ができるから手料理を作って待っていると彼に連絡したのが、今日の昼頃。彼の好きなパスタを作ろうと思った。しかし、午後三時過ぎに客先から突然電話が入り、トラブル対応をしなければならなくなって定時退社することは叶わなくなった。その連絡を入れたのが定時の一時間前。当然彼は画面上で機嫌を悪くしたのだが、せめて一緒に食事して次の約束を取りつけようと、美味しいと評判がいいパスタ屋さんをデリバリーで注文しておいた。
 最近何かとすれ違って会う機会が減っていたのもあって、ここで距離を取り戻そうと思っていた矢先のことだ。彼からこんな心無い言葉を投げかけられるとは思ってもみなくて、疲弊していた体は余計に傷ついた。

「お前はいつもそうだよ。仕事仕事って、いくら忙しくても会う時間くらい作れんだろ。結局おれより仕事が大事なんだ」
「そんなこと……」

 言いかけたところで口を閉ざした。はたして「そんなことない」と言いきれるだろうか。
 確かにこの半年間、私は恋人を蔑ろにする場面が多かったかもしれない。疲れた顔で会いたくなかったというのもあるし、会っても優しくできない可能性があった。けれど、それでも気持ちが薄れることはなかった。
 煮え切らない私の態度に、彼がとうとうため息をつく。

「もういい、帰る」
「ま、待ってっ……」去っていく彼の腕をとっさに掴む。二人してアパートの廊下に出たせいでバタンと扉が閉まる音がした。
「うるせェな」

 迷惑そうに振り返った彼が私の体を押したので、バランスがとれずに後ろへひっくり返る――と思ったのだが、「おい」という誰かの声とともに私の体は支えられた。と、同時になぜか食欲をそそるニンニクの香りが鼻をかすめる。
 背中を起こして支えてくれた人をちらりと確認すると、そこには身軽な恰好をして大きな黒いバッグを背負った青年が立っていた。しかもちょっと、いやだいぶ恰好いい。そばかすが青年の印象に少年っぽさを与えている。

「女に乱暴するとは穏やかじゃねェな。この人、あんたの女だろ。だったらもっと優しくすんのが普通じゃねェのか」
「ああ? お前に関係ねェだろ」
「関係はねェが、おれはこの部屋に配達しに来たんでね。その住人が困ってたら助けるだろ」

 あきらかに青年のほうが年下のはずなのに、臆することなく当たり前のことみたいに言うので私も含めて面食らった。なるほど、ニンニクの香りはこの大きなバッグから漂うパスタというわけだ。つまり、私が注文した品ということになる。
 青年は私を庇うように立っていた。見た目からして大学生っぽいのだが、その背中はたくましく配達員特有の大きいバッグのせいもあって非常に頼りがいがあった。
 少し横にずれて恋人の顔色を確認する。不機嫌を隠すことなく仏頂面で青年を睨んでいるが、当の青年は怯んだ様子はない。早くこの状況をどうにかしないと、気が焦る。
 青年の陰から顔を出し、「ねえ」とおそるおそる恋人に声をかける。

「食べていかないの……?」

 彼の視線が青年から移動して私を捉えた瞬間、目玉が飛び出しそうなほど瞼が大きく開いた。

「食べねェよ、ンなもん。帰るっつってんだろ。お前とはもうこれっきりだ、じゃあな!」

 乱暴に言い放ち、怒りをあらわにしたままアパートの階段を降りていった。

「ちょっとまってっ……って、ああもう行っちゃった」

 数秒としないうちに階段の音が聞こえなくなり、辺りは静かになった。
 取り残された私と配達員の青年の間に気まずい空気が流れる。カップルの喧嘩に遭遇する(しかも破局の瞬間)なんて、配達しに来ただけの青年もさぞツイていないと思っているだろう。しかし、彼は何事もなかったかのように無言で黒いバッグの中から二つのパスタを取り出した。彼の気遣いに感謝しつつ、このまま無言というのも気にしているみたいだから努めて明るく切り出す。

「変なところ見せてごめんね。配達ご苦労様です」
「別に、あんたは悪くねェだろ。つーかどうすんだそれ」
「え?」
「あの男、食わずに帰っちまったし……あんたが二つ食うのか?」

 問われて、自身の手にあるプラスチック容器に目を向ける。さっきよりも濃厚な香りを発するペペロンチーノは非常に美味しそうだが、一人で二人前を食べられるかと聞かれたら答えはノーである。まったく、食べ物に罪はないのだから食べていけばいいものを。
 怒鳴って帰っていった恋人に――いや、ついさっき元恋人になった相手に憤慨しつつ、けれど目の前にいる青年の存在に思い至って、物は試しにと声をかけてみる。

「ねえ」
「……なんすか」
「お腹空いてる?」
「……空いてるっちゃあ空いてるな」
「ならあげる。私は二つも食べられないし、かといって捨てるのはもったいないし。お腹空いてるならちょうどいいよね。助けてもらったお礼ってことで受け取ってよ。なんならウチで食べて行ってもいいし」

 ペペロンチーノを一つ、彼に渡す。お腹を空かせているなら快く受け取ってくれそうだと思ったのだが、予想に反して彼は微妙な顔をした。

「もしかしてダメ? こういうのって契約違反になっちゃうの?」

 客が頼んだ物をもらい受けるのは違反という可能性に思い至って初めて気づく。簡単に「受け取って」と言ってしまった自分が恥ずかしい。
 もごもごと言いよどむ青年が頭を掻きながら、「あー……」とばつの悪い顔をして視線をそらした。

「ここが最後だったし、別にそういう規約はねェが……」
「ないけど?」

 聞き返したら、青年はぐっと口をつぐんでから配達用バッグを背負ってこっちに顔を向けた。しばらくじいっと見つめあと、勝手にため息をついて私の右手からパスタの容器を受け取る。そのままアパートの階段のほうへ向かっていったので、とりあえず受け取ってはくれるけどここで食べるわけじゃないのかとちょっとつまらなく思っていたら、階段の手前で彼が振り返った。

「……あんた、おれが学生だからって警戒心なさすぎだろ。気軽にそういうこと言わねェほうがいいぞ。……まァ、これはありがたくいただいておくよ、どうも」

 黒いキャップのつばを掴んで軽い会釈をした配達員の青年は、そうして階段をゆっくり降りていく。鉄鋼の踏み板から音が聞こえなくなると、やがて自転車の車輪が回転するカラカラという音が聞こえてきて、アパートから去っていく青年の背中が見えた。


 数日後、私は青年と別の場所で再会するのだが、このときの私はまだ知らない。