言い逃げの美学

「ごめんなさい。私、恋人がいるんです」

 文学部の棟内にある庭園に一組の男女。女のほうは私。男のほうは一学年上の先輩。授業で何度か一緒になったことがあるだけで、特別仲が良いわけではない。講義のあとに「話がある」と呼び出されて、昼食や読書など学生の暇つぶし兼待ち合わせ場所として利用される庭園に来ていた私は、話の内容に想像がつきながらも一応の礼儀として面と向かって丁重にお断りをしている真っ最中である。
 私の言葉に先輩は目を丸くさせて、わかりやすく「信じられない」といった表情を作った。でも事実なのだから仕方ない。

「本当か? 構内で一度も見たことないけど……君はいつも女の子と一緒だから」
「こんなことで嘘ついてどうするんですか。それに、彼氏が同じ大学生だとは言ってないです」

 こちらの返しにますます困ったように笑った先輩は「そっか……」とあからさまに肩を落とした。嘘は言っていない。恋人がいるのも、その人が大学生ではないのも事実。詮索されたくなかったので、誰にも紹介したことがないだけだ。

「では先輩、また明日授業で」

 簡潔に済ませて、私は庭園を後にした。これで先輩が気まずく思わなければ明日もまた普通に話しかけてもらえるだろうが、彼のほうから距離を取られてしまったら仕方ない。庭園を出てすぐ、重たい鉄扉に寄りかかった私は面倒事を一つ終えた安堵から深く息を吐き出した。
 軽い足取りで踏み出して螺旋階段を駆け下り、正門で待っている友人の元へ急ぐ。今日はバイトもないし、何か小腹に入れて帰ろう。


*


 駅近のファストフード店は平日の夕方だというのに少々混み合っていた。制服や部活着の高校生が多いので、帰りがけに寄ることができ安く済むところとしてちょうどいいのだろう。この辺りにはファストフードと言えばここしかない。
 二階席の小さな二人掛けのテーブルに友人と向かい合っていた私はシェイクSサイズ片手にポテトSサイズをつまんでいる。友人はこれが夕飯の代わりらしいので、がっつりハンバーガーを注文していた。

「で? そろそろ私には紹介してくれたりしちゃうわけ?」

 ジトっと睨みつける視線を送ってくる友人にたじろいでから、飲んでいたシェイクを一度テーブルの上に置いて「そんなに気になる?」と答える。
 自分で言うのも気が引けるのだが、告白されたのは一度や二度ではなく入学してからすでに五回目。大学生になって二度目の秋を迎えた今日、五回目の「ごめんなさい」をしたわけである。世間では「モテる」側に属するし、友人たちからも「顔がいいのになぜ彼氏を作らないのか」と最初の頃は問い詰められたものだ。
 だから、四回目からは言うようにしている。「恋人がいる」と。ただし、大学生ではないためなかなか会うのが難しいとも説明しているので、彼女たちはやきもきしているわけだ。告白を断るための詭弁じゃないのかと言ってくる人もいる。
 そういうわけで、金持ちの社会人と付き合ってるだの実は高校生と付き合ってるだのと一時期学科内でいろいろな噂が飛び交ったのだが、人の噂も七十五日というようにすぐほとぼりが冷めてしばらく静かに生活を送っていたのに、再びこれでは落ち着く暇もない。

「そりゃあ気になるに決まってるじゃん。モテる女がどんな男と付き合ってるのか」
「紹介してもいいけど、向こうが嫌がりそう」
「ますます気になるんだけど」
「あまり持ち上げないでね。彼、はやし立てられるの嫌うから」
「じゃあ紹介してくれるの!?」
「……まあ、一応伝えておく」

 あくまで仕方ないという気持ちのほうが強いことを強調した上で、私は彼女にそう伝えた。しかし彼女のほうはすでに乗り気で、紹介してもらう気満々の表情だった。選択を間違えたかもしれない。
 それ以降は、課題レポートの話や来年から所属するゼミの話で盛り上がり、もう私の恋人の話が話題にあがることはなかった。


*


「なんで俺がお前の茶番に付き合わなきゃいけないわけ?」

 ソファでふんぞり返っていた翼が落胆のこもった息を吐いて、「この馬鹿」とデコピンしてくる。中学生のときまでは私より小さかったくせに、今は私よりも大きくなって(それでも周りに比べたら低いらしい)見下ろされるようになった。まあ今は私が正座しているせいもあるけれど。
 この我が物顔でソファに座る人間こそ私の恋人である。名前は椎名翼。職業、プロサッカー選手。大学生ではないというのは事実であり、社会人といえば社会人だが一般的な企業で働くサラリーマンではない。ちなみにサッカー選手はサッカー選手でも、日本でプレーしているわけではなくスペインリーグに所属している。高校卒業と同時にマラガCFというクラブチームに入り、すでに2シーズン目を終えて今は帰国中というわけだ。

「……滅相もございません」

 翼の前で正座しながら頭を下げる。さながら悪いことをした子どもの気分で、ちらっと彼の顔色をうかがう。眉間にぐっとしわが寄り、明らかに機嫌が悪い。しかし綺麗な顔というのは歪んでも綺麗なのだなと場違いなことも浮かんだ。
 結論から言うと、二時間前に友人とやり取りしたことをそのまま彼に話したのだ。最初から期待はしていなかったが、どうやらだいぶお怒りらしい(というか呆れている)。まあ昔から色恋で騒がれることに嫌悪感を抱いていたから仕方ないと言えば仕方ないのだが。

「そんなの適当に流しとけばいいだろ? 大学生じゃなくたってほかに言い方いくらでもあるじゃん。お前の頭は飾りか?」
「それはちょっと言い過ぎじゃない? 私これでも成績は良いほうだし」
「俺が言ってるのは地頭のことだっての。ったく、後先考えておきなよ」
 怒っているというよりもやはり呆れている。そもそも告白の断り方をちゃんとしておけ、という意味らしい。「……で? 明日の授業は午前だけ?」もうこの話題を終わらせるつもりなのか、翼がまったく関係のない話をふってきた。
「え……あ、うん」
「俺も夕方まで暇だから、昼メシ一緒に食おうぜ」

 ソファから立ち上がった翼が私に目線を合わせるためにしゃがんだ。もういつもの表情に戻って、得意げに笑ってどこか楽しそうだ。聞けば、明日の夜はマサキたちと飲みに行く約束をしているのだという。日本ではシーズン真っ只中だが、練習後は比較的自由がきくらしい。ちなみにマサキというのは私と翼の中学時代の後輩であり、翼同様に現役サッカー選手である。

「へえ。みんなこっちに集まるんだ」
「帰国したって連絡したら、予定合わせてくれたんだ。お前も来る?」
「私がいたら邪魔じゃない?」
「いや、いいんじゃない? あいつら、お前のことマネージャーだと思ってるところあるし」

 翼が不敵に笑う。実を言うと、私は飛葉中出身ではあるがサッカー部に所属していたわけではない。翼たちとクラスが一緒で仲良くなっただけで、マネージャーの仕事も美術部のかたわら手伝っただけだ。それがどういうわけか、彼らからは正式なマネージャーと思われている。断じて違う。
 とはいえ、歓迎されていることに関しては喜びが勝る。そうは言っても、私も彼らとは友人なのだ。

「翼たちがいいなら私もみんなに会いたい」


*


 二限目の授業がおわってスマホを開くとメッセージ通知が一件きていた。翼……? なんだろう。
 "正門の前にいる"
 ロックを解除して、手際よく開いたアプリから文面を見た瞬間「え!?」と思わず声に出していた。確かに昼食を一緒にとる約束はしていたが、迎えに来るとは聞いていない。てっきりどこかの駅で待ち合わせかと思っていたのに一体どういう風の吹き回しだろう。
 テキストとノートを急いで鞄の中にしまう。後ろで友人が「どうしたの」と訝しんでいるが、理由を説明している余裕はなく「ちょっと急ぐ」とだけ残して一目散に教室を出て正門に向かった。


 正門までたどり着くと、果たしてそこに翼の姿はあり、あろうことか堂々と車で来ていて唖然とした。赤のボディに、スポーツカーを思わせる低さ。自分は一切乗らないので詳しくないものの、サッカー選手の翼にはよく似合う車だった。
 スペインで免許を取得したことは知っていたが、この車は一体どこで手に入れたのだろう。少なくとも私は初めて見る。呆然と立ち尽くす私の姿に気づいた翼はウィンドウを開けてひらひらと私に手を振った。やめてほしい。ただでさえ目立つ容姿のくせに、こんな堂々と大学まで来てどういうつもりなのか。

「ちょっと! 目立ってるんですけど!」

 ずかずかと運転席のほうに近づいて文句を言った。迎えに来てくれてありがとうと言うべきところだろうが、私にとっては穏やかな大学生活を脅かされる可能性があることのほうが大問題である。翼は海外で活躍するサッカー選手だ。もちろん知っている人間は限られているものの、サッカーに精通している人間ならまずもって知っているだろう。
 しかし当の本人は何を言ってるんだと言わんばかりに表情を曇らせて運転席から出てくる。伸ばしているらしい一つに結ばれた長髪がその拍子に揺れた。女の私よりも綺麗な髪。

「お前が言ったんだろ?」
「はあ?」
「恋人がいるって言っても信じてもらえない。友人が紹介してほしいってうるさいって。だからこうして来てやったってのに、とんだ言い方だね。可愛らしく労いの言葉の一つでもないわけ?」
「……」

 ぽかんとして、翼の言葉を聞いていた。相変わらず遠慮のない言い方だったが、どうやらこれは昨日の話を受け入れた結果らしいことだけは理解してまた呆然とする。
 え、じゃあこれは私のためってこと……?

「大体五回も告白されたって話も初耳なんだけど。スペインにいるから言う必要ないって思ってたんならムカつく。恋愛に淡泊だと思われてるのも癪だ」

 驚いている私をよそに翼は勝手に話を進めていく。
 確かに告白されたことは昨日初めて話したし、それをわざわざ彼に言う必要性を感じないと思っていたのも事実だった。向こうでサッカーに励む彼に、そんな私のくだらない話を聞かせるほうがどうかしている。今は海外にいる相手とも気軽にやり取りできるからと言っても、もっとほかに話したいことがある。忙しい翼と話せる時間は私だって大事にしたいのだ。
 未だ呆然と言葉を失っている私に、翼は好戦的な笑みを浮かべた。

「言っておくけど、お前のために来たんじゃないよ。これは牽制」
「……?」
「恋人に変な虫が寄りつかないようにするためさ」

 そう言うと、手慣れたように後部座席のドアを開けて私の背中を押した。慣性の法則に従って前のめりになった私は、あれよあれよという間に車の中に押し込まれて気づけばドアは閉められていた。流れるような一連動作に文句の一つも言えずにいると、
「行きたい店があるんだけど、そこでいい?」
「……う、ん」
「オーケー、決まりだね」

 小気味よいエンジン音が鳴る。車内に英語の曲が流れはじめる。左右を確認した翼が、これまた慣れたようにアクセルを踏んで車が動き出す。運転している姿は初めて見るが、どうにも様になっていて悔しいことに格好よかった。
 周囲の視線が突き刺さっていることにようやく気づいた私は、しかしもう何もかもが遅いことを悟って諦めることにした。教室を出る前にどうしたのと聞いてきた友人はいるだろうか。ほかの知り合いに見られていないことを願うばかりである。
 曲に合わせて鼻歌をうたう翼に、珍しく機嫌がいいんだなとその胸中を知らない私はのんきに思うのだった。