まだ知らない、あなたのこと

「もう、なんで動かないの〜」

 休憩スペースに置かれたソファでぼそりと独り言を呟いた。もう夜の十一時を過ぎているからか、誰もいない。消灯時間は一応十時半と決められているので、規則を大事にする警察学校ではほとんどが部屋で休んでいることだろう。
 本来なら今頃私もベッドにいる時間だが、今日ばかりはそうもいかなかった。昼間に大事な時計を壁にぶつけてしまい、そのときは問題ないと思っていたら、夕食後になって動かなくなってしまった。休日に修理屋さんへ持っていくことも考えたが、祖父からもらった大事な物だし、なるべく早く直しておきたいと思い、就寝準備を整えてから、こっそり部屋を抜け出したというわけだ。
 ドライバーなどの工具を借りてきたはいいものの、機械がさっぱりの自分には直す術がわからず先ほどから苦戦していた。時計の裏蓋を開けたら、見たことのないいくつもの歯車や部品が出てきて、どこを触ったらいいのか。とりあえずあちこち動かしてみたけれど、時計はまったく反応を示さない。
 ちらりと壁にかかった時計を見れば、十一時半。あまり長居して教官に見つかったら、同室の子にも迷惑がかかるだろう。そろそろ諦めて帰ろうかと思い始めたときだった。

「おい。……ンなとこで何してんだ」

 誰も来ないだろうと完全に油断していた私は、背後から不意に声をかけられて「わっ――」と、大げさに反応してしまった。「バカっ、大声出すんじゃねえ。見つかったらどうすんだ」相手がさらに近づいてきて私の口を塞いだせいで、余計に恐怖が増す。明かりは手元を照らす懐中電灯だけだ、誰なのかもさっぱりわからない。「いいか? 大声出すなよ」と耳元で囁かれ、こくこくとものすごい勢いで頷く。
 しばらくしてから相手がようやく手を解放してくれた。はぁっと息を吐き出し、人心地ついたところで、ようやく相手の顔を確認する。暗闇の中、懐中電灯の明かりでぼんやりと浮かび上がった正体は――

「……えっ、松田くん?」

 Tシャツにジャージ姿の松田くんが立っていた。よォ、と右手を軽くあげた彼は左手にペットボトルを持っている。事情を聞けば、どうやら喉が渇いたから自販機に水を買いに来たらしい。そのまま帰ろうとしたところで、小さい明かりが見えたから気になったという。
 自販機のライトに隠れて目立たないかと思いきや、逆に私の後ろ姿がシルエットで映し出されていたようだ。

「で? お前は何してんだ」

 決して愛想がいいとは言えない、松田くんの鋭い瞳が私を見下ろす。見つかってしまったからには、言い逃れはできないだろう。仕方なしに、懐中電灯でローテーブルにある裏蓋が開いた時計を照らした。

「えっと、時計が壊れたから直そうと思って……」
「は? 自分で直すつもりかよ。素人がやると余計壊すぞ」

 言葉を包むことなくストレートに言われて内心傷つくが、松田くんの言う通りなのでぐうの音も出ない。詳しくないくせに直そうとして時間ばかりが過ぎただけだったし、これなら睡眠に時間を費やすほうがよかった。
 返す言葉が思いつかず落ち込んでいると、「ったく仕方ねぇな」と呟いた松田くんがどかっと隣に腰を下ろした。突然のことに何事かと目を丸くした。

「貸せ」
「え?」
「直してやるっつってんだ」
「……できるの?」
「まー見とけ。こういう細けぇことは得意だからよ」

 そう言って、松田くんは私の壊れた時計を分解しはじめた。
 松田陣平。鬼塚教場のもとで学ぶ者の一人。今年の警察学校入校者の中で、良い意味でも悪い意味でも目立つ人間が五人いるのだが、そのうちの一人である。
 私は別の教場に所属しているけれど、彼らのことはよく知っていた。授業が一緒になるときもあれば、合コンに誘われて行ってみたら彼らがいたこともある。萩原くん、降谷くん、諸伏くん、伊達くんは比較的話しやすい印象を受けたが、松田くんは始終機嫌が悪そうだったから私の中では怖いままだ。
 そんな彼が、仕方ないと言いつつ、私の時計を直してくれるという。手先が器用なのか、こういう細かい作業が得意らしい。私は隣でじっとしながら、ライトを当てつつ彼の手元を見つめた。
 得意と言っただけあって、松田くんの腕は目を見張るものがあった。時計の中の小さな歯車をピンセットで取り出し、何やらいろいろとチェックしては、「これは大丈夫だな」と判断している。当然私には何が何だかわからないので、ただその様子を見守るだけだった。
 突然だが、松田くんはイケメンだ。あの五人が有名なのは、容姿が整っていることも関係している。寮生活で携帯の使用も制限されては女子が騒ぐのも無理ないし、私も密かにかっこいいと思っているから内心ドキドキしていた。
 喧嘩っ早くて、傍若無人。誰かがそんなことを言っていたけれど、今この瞬間作業に勤しむ松田くんの横顔は真剣で、いつもの喧嘩腰な態度とはまったく異なるちょっと大人っぽい表情に心臓が高鳴る。乱暴なところのある彼の手が、腕時計という緻密な機械を修理する様はとても繊細で美しかった。
 しばらくその指先にぼうっと見惚れていると、「ほらよ」と目の前に差し出されてハッとする。秒針がしっかり動いて、時刻も元通りになっていた。

「す、すごい……本当に直ってる」
「当たり前だバカ。得意だって言っただろーが」
「でも……普通は直せないよ。松田くんってすごく器用なんだね。思わず見惚れちゃった」
「……」

 褒めたはずなのに松田くんが黙ってしまったので、もしかして言い方が馴れ馴れしかったかもしれないと焦る。暗くて表情もわからず戸惑っていると、数秒間をおいてから「……おう」と短く返事をくれたので、ひとまず無視されなかったことにほっとした。

「じゃあな。お前も早く戻れよ」
「あ、ちょっと待って!」

 部屋に戻ろうとする松田くんを引き止めて、私は急いで自販機に向かい缶コーヒーを一つ買った。寝る前のチョイスとしては微妙だけど、缶なら明日でも飲めるだろう。「はいこれ。直してくれたお礼。本当にありがとう」
 協調性がないだの、誰かと喧嘩して顔に傷を作ってるだの、いろいろ言われている松田くんが同じ教場でもない私の時計を直してくれたその優しさに感謝する。

「……サンキュ」

 照れくさいのか、目は合わなかったが十分に気持ちが伝わる返事だった。松田くんの意外な一面を知ることができてちょっと嬉しい。時間にして二十分くらいだったが、彼の印象が塗り替えられた瞬間だった。

「じゃあおやすみ。また明日から頑張ろうね」
「おうよ……」

 首筋をちょっと乱暴に掻いたあと、早足で男子寮に帰っていく背中を見つめながら、私も上機嫌で部屋に向かった。