ドラマチックメーデー

※現パロ

 眉を吊り上げて、地面を睨みつけながら歩いていたせいだ。前方から人がこっちに向かってくることに気づかず、思いきりぶつかりよろめいた――ところを間一髪踏みとどまって転倒を回避したのは、我ながら大した瞬発力だと思う。とはいえ下を向いて歩いているほうが悪いに決まっているので「すみません」と頭を下げた瞬間、しかし上から強い力で引っ張られる感覚と強烈な痛みを覚えて悲鳴を上げた。

「いっ……たぁ〜」

 髪の毛が何かに絡まったらしい。少し体を引いてみたが、痛みが増すだけでほどける感覚はない。長すぎるわけでもないのに運悪く絡まるなんて、まるで天が私を嘲笑っているようだ。情けないにもほどがある。
 どうやら髪がぶつかった相手の上着のボタンに引っかかってしまったらしく、私のほうからは様子がわかりづらいのだが、相手が「こりゃすぐ取れねェな」とため息交じりに呟いたので今日は厄日なのかもしれない。
 少し前まで、仕事もプライベートも順調な社会人ライフを送っていたはずの私に「お前にはこれが分相応」と言われたようで何もかもがどうでもよくなった。そうしてささくれ立っていた心が、投げやりな言葉を口にしてもいいと唆してくる。

「あー……気にしないでください。こんなの無理やり引っ張れば大丈夫です」

 と引きちぎるつもりで目をぎゅっとつむる。もはやこの髪を褒めてくれる人はいない。少しくらい抜けてもいいだろう、そう思ってボタンを掴んだとき――

「何してんだやめろっ!」

 頭上からものすごい怒声が降ってきた。ボタンを掴んでいた私の手は相手によって制され、「髪を粗末に扱うな。女の子の髪は命より大事なんだぞ」と訳の分からない言葉で諭されたあげく、おれが取ってやるというので大人しくその場でじっと待つことにした。
 道行く人たちの視線は痛いし、「命」より大事なものなんてないし、見知らぬ人に怒られる義理もない。なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ、と胸中で嘆いた。
 そもそもきっかけは彼氏からのメッセージだ。話したいことがあるから出かけようと言われ、いそいそとお洒落をして出かけた私は、それが最後のデートだということに気づかず馬鹿みたいにはしゃいでいた。昼時の混み合ったカフェで何の前置きもなく「別れてくれ」と言われたときは聞き間違いかと思ったくらいだ。けれど、そうではないらしい。彼は本気で私と別れると決意してここへ来たようだ。
 理由は"ほかに好きな人ができた"ということだが、そのままカフェを出た彼をすぐ近くにいた知らない女が待っていて手を繋いで去っていく背中を見たら、"好きな人"ではなく"すでに付き合っている人"にしか思えず怒りを通り越して呆れてしまった。
 こうして一人残された私は帰る気にもなれず、街中をあてもなくぶらぶらしていたところでこの人にぶつかったわけである。

「よし、できた……って、どうした!?」
「……え?」
「泣いてる。おれのせい、だよな……悪い。怒るつもりはなかったんだが、職業柄つい熱くなっちまった」

 泣いてる。指摘されて自分の頬に触れてみるとたしかに少し湿っていた。相手は勝手に勘違いして「うわー」とか「どうするかな」とか悩んでいるがそれどころではない。どうやら自分は泣くほど悔しくて悲しかったらしい。その事実に気づいてから、余計に涙が止まらなくなった。二股されてフラれた上に、知らない男にぶつかって髪は命より大事だなんだと説教される。どうしてこんなにツイてないんだろう。
 それなりに人通りのある場所だということも忘れて、子どもみたいに涙を流していた。さぞみっともない姿だろうが、気にする余裕はなかった。だって自然にあふれてしまうものだから。
 いまだに泣いている理由を自分が怒鳴ったからだと勘違い(半分くらいは正解だが)したままの男は、困り果てた様子で逡巡したあと、やがてこう切り出した。

「おれの店がすぐそこだから来るか……?」





 そこへ足を踏み入れた瞬間、フローラルな香りに包まれて気持ちがふっと軽くなった気がした。普通であればカラー剤とか整髪剤とか美容室特有のにおいがするものだが、ここは何か特別な香りでも作っているのか、まるでエステサロンに来たような気分だ(行ったことはないけど)。
 差し出されたガラスのティーカップには温かい紅茶が入っている。一口飲んでほうっと息をついたとき、荒んだ心が和らいでいくのを感じた。
 あのあと、慌てた男が連れてきてくれたのは個人が経営する美容室だった。すぐそこというだけあって三分とかからない場所にある美容室は広さこそないものの、置き物や家具から伝わるお洒落な内装であり、かといって緊張することなく落ち着ける空間になっていた。
 サボと名乗った彼はここで働く美容師だという。今日は午後休暇をとっているらしいのだが、偶然用事があって近辺を歩いていたら前方不注意女と運悪くぶつかってしまったというわけだ。申し訳なさすぎる。
 派手な髪色の割に落ち着いた雰囲気を彼から感じるのは、物腰の柔らかさのおかげだろうか。話し方も仕草もどこか紳士的で、けれど言葉の節々に時折少年のような荒っぽさもうかがえる。歳はたぶん彼のほうが少し下、だと思う。

「少しは落ち着いたか」

 紅茶でひと息ついていると、カウンターの奥の部屋からサボさんが顔を出した。案内された入口付近のソファには私一人。あとはシャンプー台に一人、ドレッサーの前に一人。土曜日の午後にしては客が少ないが、どのみちドレッサーは三台しかないのであと一人しか座れない。

「ありがとうございます。だいぶ落ち着きました」
「いや、こっちこそ悪かったな」
「いいんです。私の不注意ですから」

 傷心していたことはこの人には関係のないことだ。最初は思わぬ災難に遭ったと落胆したものだが、よく見るとサボさんはすごくお洒落で容姿も整っている。美容師という職業を抜きにしたとしても元の素材がいい。現金なものだと苦笑を漏らして紅茶をひとくち。ほっとする温かさと人の優しさに触れて、また涙がこみ上げてきそうになって唇を噛んだ。そんな様子を心配したのか、向かいのソファに腰かけたサボさんが何かあったのかと声をかけてくれた。
 私の心が迷う。見知らぬ人に自分の恋愛――しかも相手が二股をしていたというしょうもない話をするかどうかを。けど、人に話して鬱屈した気分を晴らすほうがいいのかもしれない。こうして出会ったのも何かの縁かもしれないし。
 結局悩んだのは一瞬で、私はサボさんに今日の悲惨な出来事をすべて打ち明けた。彼の人柄が話しやすい雰囲気を作っていることも大きかった。
 その間、彼は一切口を挟まなかった。別に同情してほしいわけではなかったから、彼の気遣いが逆にありがたく感じたほどだ。すべてを話し終えてからしばらく沈黙していた彼がようやく「なァ」と口を開いたかと思うと、

「髪を切る気はあるか?」

 ソファから立ち上がったサボさんが親指でドレッサーを指さした。「かわいそうだな」とか「災難だったな」とか慰めの言葉はなく、なぜか髪を切らないかという提案をされて困惑する。

「……髪、ですか」
「ああ。気分転換にどうかと思ってさ。おれに切らせてくれねェか?」
「でも……」
「あ、金はいいよ。さっきの詫びってことで」

 顔の前でごめんのポーズをとるサボさんに、金銭的なことじゃないんですとは言えなかった。これ以上自分の惨めな話をするのは忍びない。長い髪にこだわる馬鹿みたいな理由を。
 けど、気分転換にはなるかもしれない。このイケメンで爽やかで、でもちょっと強引な人の手によって仕上がる新しいヘアスタイルも気になると言えば気になる。
 おもむろに立ち上がり、彼に向かって「お願いします」と頭を下げた。



 結論から言えば、髪を切るという選択は大成功だった。美容室で言葉を失ったのは初めてかもしれない。胸元まであった髪は、肩につくかつかないかくらいの短さになっていた。ふんわりとしたボブに、前髪は少し流して大人っぽく仕上がっている。最初に好みの髪型があるか聞かれたのだが、特になくていつも同じ長さにそろえているだけだったので任せると伝えたらこの通り人生はじめての髪型である。考えたこともなかったのに、どういうわけか自分に合っている――気がした。どうしてわかるんだろう、美容師という職業はみんなこうなのだろうか。
 鏡越しにサボさんと目が合い、
「どうだ? 可愛くなったろ」自慢げに言われたので素直に頷く。
「す、すごいです。こんなに短くしたの初めてなのに……サボさんは魔法使いですか」
「はは。魔法使いは大げさだな。けど、悪い気はしない」

 ニカッと歯を見せたサボさんの笑顔が眩しい。
 魔法使いと表現したのはもちろん彼の腕を褒めた言葉だが、それ以外にも気分が晴れやかになっていることに気づいて自然とこぼれたものだった。髪を切って新しい自分に生まれ変わったなんてそれこそ大げさな表現だろう。しかし、それほど今の自分は爽快感にあふれている。まるでさっきまでの出来事が嘘だったみたいに。
 椅子から立ち上がると、ふわっと体まで軽くなったように思えるから本当に不思議だ。

「まァ二股は災難だったが、切りたくなったらまた来いよ。おれが可愛くしてやる」

 その男を見返してやれ、という勇ましい台詞とともに背中を押されて店の出入口を跨ぐ。振り返ると、やっぱり眩しい笑顔のサボさんがこっちを見ていた。
 そんなことを言われて落ちない女はいないんじゃないだろうか。この人、もしかして天然タラシ? それともわざとなの?
 もう泣くなよーと、冗談交じりに言って手を振っているサボさんに心を掴まれそうになって、けれどぶんぶん首を横に振り、「好きになるもんか」と強く自分に言い聞かせた。