イケメン、拾いました。

 今月の運勢はものすごく悪いらしい――主に仕事面において。大事な書類をシュレッダーにかけてしまうだとか、納品先の会社を間違えるだとか、発注数の桁のミス等々。いつもやらないミスをしでかして上司に「どうしたんだ、××君らしくない」と心配されるくらいには運が悪い。
 とはいえ、今日の「設計書の修正」に関してだけ言えば、その原因を作ったのは私ではなく先輩である。ミスばかりしている私になすりつけておけば怪しまれないとでも思ったのか、先輩は私に修正を押しつけて早々に帰っていったのだった。
 夜の九時を回ってようやく作業を終えた頃、社内には誰も残っておらず自分の重たいため息だけが広がる。そして腹の底から沸々と怒りがわいてきたが、いちいち上司に報告したところで無意味だと心得ているので、そのまま会社を出て帰宅することに決めた。

 三月も後半に差しかかれば暖かくなるかと思いきやまったくそんなことはなく、むしろ冬に逆戻りしたような寒さで、思わずコートの襟を掴んで体を震わせた。
 最寄り駅にはコンビニとドラッグストアを兼ねたスーパーが一軒ずつあり、主要な駅とはいえないものの、治安も悪くなく、女が一人暮らしをするには適している場所だ。十時を過ぎても街灯が等間隔で道を照らしてくれるおかげで、夜道を歩くのも怖くない。コンビニで残っていた弁当の中から唐揚げが入っているものを選び、あわせて惣菜をひとつ買ってから家まで急ぐ。
 数百メートル歩いたところに私の住むちょっと洒落たマンションがある。このあたりはアパートやマンションが入り乱れているのだが、私が居住しているマンションはアパートのような低層でありつつ、しかしチェーンロックやオートロックのエントランスなどセキュリティは結構しっかりしている。家賃は駅から徒歩数分と考えると安いほうだろう、築年数が十五年以上だからかもしれない。
 月曜なのに九時過ぎまで残業するなんてバカみたいとため息をついて、マンションのゴミ捨て場を横切ったときだった。視界の隅で、何か良からぬものを捉えたのは。火曜日が可燃ゴミの日ということもあって、前日の夜に出す人がいることはあるが(本来はダメ)、そのゴミ袋の間に別の何かが埋もれている。

「ひっ」

 反射的に後ずさって距離をとってから、"何か"の正体を確かめるべく恐るおそるゴミ捨て場をのぞき込んだ。
 複数のゴミ袋に隠れるようにして若い男が倒れていた。年齢は自分と同じくらいか、それより若い。まさかこんな場所で死んでるとか……? でも血は流れてない。じゃあ寝てるだけ? だとしてもなんでここで?
 頭の中に次々と浮かぶ疑問をいったん隅に追いやってから、もう一度男の様子をうかがう。金髪で背が高く、この寒空でコートなしのニットセーターのみ。下はテーパードパンツっぽい。腕と胴体の隙間に見えるのはリュックの紐だろうか。とはいえ、見た目の情報以外のことはさっぱりだし、マンションの人間という可能性もあるにはあるけれど、それにしたってこんな場所で倒れているのは尋常ではない。

「あのぉ……大丈夫ですか……?」

 しゃがんで顔をのぞき込みつつ、だらんとしている手をつついてみる。数秒後、瞼がぴくっと動いて男の目がゆっくり開いた。
 わ、結構イイ男じゃん。
 胸中でちょっと感激していると、男の視線が私を捉えて一瞬驚いた表情を見せたのもつかの間、上半身を起こして息を吐く。

「ン、大丈夫」
「のようには見えませんが、なんでこんな場所で寝てたんですか?」
「腹減って倒れた」
「え、お金は?」
「移動で現金はすべて使い果たしちまってさ。メシ食う金がなくて、歩いてたらついに体力が底をついてここで倒れたんだ」

 使い果たしたって、どこから来たんだろう。現金がなくても今のご時世ならほとんどの店でカードが使えるが、話から察するにカードも持っていないようだ。私と同い年くらいだと思ったけど働いていないのだろうか。旅行という感じでもないし、まったく得体のしれない男だ。
 何から質問しようと考えていたとき、男の腹からぐぅ〜という間抜けな音がしたので思考は強制的に遮られた。

「本当にお腹が空いてるんだ……」

 呆れた視線を男に向ける。高校生ということはないだろうから大学生なのかもしれない。
 このときの私はどうかしていたし、我ながら愚かな発言をしたと猛省するべきなのだが、邪気の無い男の雰囲気が私の思考を鈍くさせ、警戒心を解いてしまったのだと思う。腹が減ったと訴える彼がまるで飼い主が現れるのを待つ捨て犬のように見えたのだから。

「じゃあ、うちに来る? 大したものはないけど、お腹を満たすくらいならできるよ」


*


 おれはサボ。大学は卒業してるが日雇いバイトで食いつないでるんだ。
 玄関に入る前、彼が一応の自己紹介をしてくれた。正直、たったそれだけの情報で安心しろというほうが無理なのだが、自分から「うちに来ないか」と言ってしまった手前、今さら追い返すわけにもいかない。実家の両親が聞いたら卒倒するだろうなと思いつつ、この大型犬を見捨てるなんて私にはできなかった。
 とはいえ、本当に空腹で倒れていたのは本当だったようだ。築年数はそれなりに重ねているが、2DKと一人暮らしにはもったいない環境ではあるので、ひとまずサボを奥の居間に置いてから冷蔵庫の中身を確認する。醤油と塩、いつ使ったのか覚えていない野菜の残り――と、今日は残業したせいでスーパーに寄らなかったことを思い出した。自炊は週に一回すればいいほうという体たらくな人間なので、基本的に冷蔵庫に貯蓄がない。つまり、食べられるものが何もない。かろうじてあるのは米とさっき見つけた野菜の残り。これでは何も提供できない。

「ごめん。冷蔵庫に何もなかったの忘れてた。さっき買ってきたお弁当を半分ずつするしかないみたい」
「いいよ別に。コンビニの弁当も結構美味いから」
「じゃあ半分こしよう」

 食器棚から取り分け用に皿を一枚出して、そこにご飯とおかずを半分ずつ乗せていく。成人男子には少ないだろうけど今日のところは仕方ない。サボの分をレンジで温め、コンビニでもらった割り箸を渡す。
 彼が食べはじめるのを確認してから自分の分をラップして冷蔵庫に入れたあと、寝室に使っている隣の部屋へ移動し、風呂支度を済ませる。そういえば、彼は行くあてがあるのだろうか。バイトで食いつないでると言っていたが、移動しているということは家がないということ。ホテルやネットカフェに泊まるのだとしてもお金が必要だし、今の彼は無一文だから、それも無理だろう。
 寝室の扉からひょっこり顔を出して、お弁当を食べているサボに問いかける。

「ねえ。行くあてあるの? 無一文ってことはホテルに泊まるお金もないんだよね?」
「行くあてはない。けど、日雇いバイトを探せばすぐ稼げるし、一晩やり過ごせばどうとでもなるよ」
「じゃあ泊まってったら? 一応お客さん用の布団はあるし、着替えもあるし、ちょっと行けばコンビニがあるから下着はどうにかなると思うし」

 我ながら何を言っているのだろう。名前しか知らない男を一晩泊まらせるなど、一般的に考えてあり得ない。ましてや一人暮らしの女の家である。同じ立場の女性が聞いたら十人中十人とも否定する話だ。案の定、サボの表情も曇る。

「自分がなに言ってるかわかってるのか? 素性の知れねェ男をそんな簡単に泊まらせるなんて無謀だぞ」

 そっちこそ、素性の知れない女の家に転がり込んでご飯を食べているくせに、今さらなにを言っているのか。まあサボの言い分はもっともなので反論しようがないのだが。
 しかし、私の中の直感は『彼なら大丈夫』だと言っていた。今は付き合っている人がいないから後ろめたさもないし、着替えは元カレのもの(一か月前に別れてから、捨てられずなんとなくそのままにしていた)だからちょっと微妙だけど、まあそれには目をつむっておく。

「わかってるつもり。けど、じゃあ今日の寝るところはどうするの?」
「……」
「ほら、やっぱり困ってるじゃない」
「けどなァ、あんたはもう少し――」
「つべこべ言わずに早く食べなさい。私は先にお風呂入るから」

 ぴしゃりと言い放って、着替えを手に持ち浴室へ向かう。サボが「お前なー」とか「少しくらい」とか何とか小言を言っていたが、全部無視した。思い返せば、やはりこれも無防備だったと言わざるを得ない。素性の知れない男を居間に置いたまま風呂に入るなど愚か者である。上下そろっていない下着を着替えに選んじゃったな、とかどうでもいいことを意識していてアホだったし、けれどそれは残業で疲れているせいだと思うことにした。

 さらに言うと、残業で疲れているせいで私は彼が風呂に入っている間に居間で寝てしまったらしい(しかもご飯を食べている途中で!)。いくらなんでもひどすぎる。もう少し自身の性別を自覚するべきだし、警戒心を持つべきだ。こんな無防備では襲われても文句は言えない。しかし、拾った犬が理性の働くよくできた男であったおかげで、私は事なきを得たのだった。



 こうして翌日の朝、午前六時半きっかりにスマホのアラームが鳴ると、どんなに眠くても体が自然とベッドから起き上がった。そこで私の脳は覚醒する。昨夜はたしか居間のテーブルで眠ってしまったはずだが、なぜか朝になったらベッドで寝ていた。自分で移動した記憶はないので、そうなると思い当たる節はひとつしかない。
 寝室の扉を開けて居間で寝ているだろう男の元に向かう。
 ところが、予想に反してサボは居間ではなくキッチンに立っていた。まるでここの住人であるかのような手際の良さでなにかをしている。いや、キッチンに立つということは料理をするか洗い物をするかの二択。背中を向ける彼の名前を呼ぶ。

「えっと、なにやってるの……?」
「あ、起きたのか。おはよう、朝メシ作ってる」
「おはよう……いやいやそうじゃなくて……朝ごはん? え、どうやって?」

 思わずそう返したのは仕方ない。だって昨日の冷蔵庫の中身を見た感じ、何かを作れるような材料は絶対なかった。一体どんな手を使ったというのだろう。

「驚いたよ。おれの知り合いより冷蔵庫の中がひどい。けど、米はあるし野菜もギリ使えそうだったから調味料でなんとかした」

 サボの知り合いと比較されてもよくわからなかったが、その人以上にひどいらしいので、もしかしたら私は今まで会った人間の中で一番ひどいのかもしれない。彼の中での評価が下がった気がしてちょっとショック。いや、それよりもサボの料理技術が思ったより高くて驚いた。あの野菜が使えたとは思えないけれど、彼がギリ使えそうと判断したのなら大丈夫なのだろう。ますます謎めいた男である。

「すごい。まさかあの材料で朝ごはん作るなんて」
「まーたんぱく源になるものがねェが、何も食わないよりマシだろ。顔洗ってこいよ、その間に準備しておくからさ」
「うん」

 あまりにも自然な会話の流れだったので普通に頷いてしまったが、昨日来たばかりの人が住人である私にどうして「顔洗ってこいよ」などと言っているのかまるで不思議だった。



 洗面所で最低限の支度を済ませて居間に戻ると、テーブルの上には質素だけれどご飯と小皿に盛られた野菜炒めが置かれていた。サボが箸や茶わん、皿に至るまですべてのことを準備してくれたおかげで、私は着替えまで済ませることができた。すごい、こんなちゃんとしたご飯は久しぶりかもしれない。
 なぜかサボのほうから「どうぞ」と座るように促されて、なんだか私のほうが客人みたいでおかしかった。いただきます、という言葉とともに皿に盛られたご飯を数か月ぶりに食べる。

「美味しい……」
「そりゃよかった。ま、味付けは醤油と砂糖のみだけどな」

 サボの言う通り、確かにシンプルな味付けだが、あきらかにコンビニなどの外で買ったものとは違う優しい味がした。久々に人が作った料理を口にして鼻の奥がつんとした。だって、今日の朝も昨日みたいにコンビニで買ったサンドイッチを就業前に急いで食べるつもりだったから。危うく涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえて、このシンプルで内臓に染み渡る朝食を胃の中に収めた。
 二人で「ごちそうさまでした」と手を合わせて食器を流し台へ持っていくときに、このあとの予定について考える。私は当然今日も出社だが、サボは一体どうするつもりなんだろう。現金もカードもなく、行くあてもない。

「ねえサボ。今日からどうするの?」
「んーまあ日雇いのバイトを探してなんとかするよ。この辺は都会だし、いろいろ仕事はあるだろ」
「……」そりゃ仕事はあるだろうけど、じゃあ住むところはどうするつもりなんだ。

 喉元まで出かかった言葉は、けれど口にはせず飲み込んだ。もう少し大きい駅に行けば、ビジネスホテルやネットカフェはあるが、それだってお金はかかるし限界がくる。きちんと住む場所を確保しなければ、この都会で生きていくのは難しいだろう。そう思った私はまた愚かな提案をする。昨日の残業がまだ尾を引いているのかもしれない。

「そんなことしないでうちに住まない? 衣食住の衣と食はなんとかなっても、住むところが決まってないんじゃバイトだって大変だよ。日雇いなんかより、長く働けるバイト先を見つけたほうが効率いいと思うけどな」

 後半はもっともな意見だろう。日雇いバイトの経験はないけど、毎回新しい人間に会うのも疲れそうだ。そんな非効率なことをするより、同じ場所で働くほうがいいに決まっている。仮に日雇いのままだとしても、定住先があるのとないのとでは行動できる範囲だって変わってくる。
 ――と、言い訳を並べ立ててみたものの、若い女の思考回路としては確かにおかしい。空腹を満たしてあげただけでも人助けとしては褒められるべき行動だ。それ以上、縁もゆかりもない男を助ける理由はない。それに本人がバイトでなんとかすると言っているのだから、無理やりとどまらせる必要もない。

「あのなー自分の性別わかってるのか? 大体、あの後のこと覚えてねェだろ」

 お前はバカかとでも言いたげな、呆れたような顔で見られる。でも、あの後のことってなんだっけ……と、頭の中でサボとを拾ったあとのことを振り返る。家まで連れてきて、コンビニのご飯を半分ずつにして、先にお風呂に入って、そのあと彼がお風呂に入っている間にご飯を食べ――あ!

「私、食べてる途中で寝ちゃったんだ……でもなぜか朝はベッドの中にいて……」
「箸持ったまま船漕いでるお前を運んだんだ。三月でもまだ寒いだろ、このままじゃ風邪引くと思ってさ」

 流暢に話すサボの説明を聞きながら、ようやく今朝起きたときの違和感を思い出した。昨晩、よほど疲れていたのか、食事中に眠ってしまったらしいのだが、今朝はきちんとベッドの中にいたのだ。自分で移動した記憶がないので、もちろん誰かが運んでくれたし、その誰かとは紛れもなくサボである。残業のせいで疲れていたとはいっても、見知らぬ男が風呂に入っているというのに先に寝てしまうとは大問題だ。

「心配しなくても、そのあと自分で起きて歯磨いてたから大丈夫だ」
「……」そういう問題じゃないですけど? いや、それも気にするところだけど、もっと大事なことがあるでしょうが。
 内心、焦りながらサボから詳しい事情を聴く。どうやら私はベッドで寝入ったあと、自ら起きて歯磨きだけしてふたたび寝たようだ。不思議な話だが、昨夜の私はそうだったらしいので、きちんと歯磨きして寝るなんて偉いな。

「――って、そういうことじゃない……。なんかごめんなさい」
「パジャマ姿のあんたを運ぶのに、おれがどれだけ我慢したかわかるか?」
「それは……」

 いや、待て。それは喜んでいいところでは? こんなズボラで淑やかさの欠片もない私にも理性が必要だったってことだよね? ガッツポーズしたい衝動に駆られて、けれどやめた。また怒られそうだ。
 でも、そんなこと言われても。

「でも、だって。胃袋掴まれちゃったし、ご飯作ってくれる人がいたら嬉しいなって思っちゃったんだから仕方ないでしょ!」

 ズボラで淑やかさの欠片もなく、挙句の果てに逆ギレする女とは。もう少し可愛げのある言い方をすれば、サボも心が揺れ動いたかもしれないのに。
 とはいえ、私も必死だった。彼が一緒に住んでくれるなら私はまともな食事がとれるし、私は彼に住む場所を提供できるというウィンウィンの関係になれるチャンスなのだ。突拍子もない提案だということは承知しているが、彼にとって悪い条件ではないだろう。
 そういった利点を細かく説明していくと、彼のほうがようやく根負けして両手を挙げた。

「あー……わかったわかった。いいよ、ここに住んでも」
「ほんと?」
「……まァ、おれとしても帰ってくるところがあるのはありがたいよ。けど、本当にいいのか? 男だぞ」
「わかってる。それでも、私にも利点があるから提案したの。それなりに貯蓄はあるから、バイトが安定するまで生活必需品は私がなんとかするし、その代わりに食事や掃除をしてくれると助かる」
「……」じっとりとした視線から逃れるように彼から顔を背けた。なんでそこまでって思うだろうけど、私にもメリットはある。仕事が忙しくて疎かにしていることを彼にやってもらえるなら、それはこんな馬鹿げた提案をする意味もあるのだ。

 私の固い意思にこれ以上抵抗しても無駄だと諦めたのか、サボが長い息を吐き出したあと、ふっと口元を緩めた。

「それで、オネーサンの名前は?」

 先ほどまでの説教じみた口調ではなく、人懐っこい声で尋ねられる。そういえば、まだ名乗っていなかった。
 サボの前に右手を差し出して、「よろしく」と自分の名前を伝える。ついでに彼の苗字を聞いたのだが、嫌いだから言いたくねェと言われて、結局彼のことは名前と年齢しかわからなかった。

 こうして、私とサボの奇妙な同居生活が始まった。