水面に眠るきみ
※このお話の夢主は人魚です。苦手な方は閲覧をお控えください。
人魚の話をしよう。
北の果て、デヴォンの入り江。そこに眠るは再生の樹。
南の果て、ロッタ―マリンの墓場。そこに眠るは破壊の樹。
二つを守り、崇め、海の秩序を保ってきた人魚の話をしよう。
鱗は万能薬、そして供物。
手にするのは神の恩恵――
▽
水が入り込んできて苦しい。呼吸ができない。まさかこんなところで死ぬのだろうか。何も成し遂げられないまま無様に死んでいくのだろうか。力が抜けていくのがわかる。本来なら自力で浮上できるはずが、先刻の嵐で背中を強くマストに打ちつけたせいで体が思うように動いてくれなかった。
死を覚悟するのはこれで二度目だ。あのときは、縛られたものから解放された喜びに水を差すように横やりが入って、訳もわからぬまま体が海に投げ出された恐怖に怯えていたら偶然助けてもらえた。
しかし、今回はどうだろう。あの嵐で革命軍の船からだいぶ遠ざかったように思われた自身の体は、見つけてもらえないのではないだろうか。今度こそ、自分に待っているのは――死。
あっけない終わり方だと嘲笑される気がした。記憶が戻って一年。ようやく夢に魘されることも減ってきた日々を送れるようになったというのに。
――なァ、エース。そっちはいったいどんな景色が見えるんだ。
目が覚めたとき、サボはここが一体どこなのかわからなかった。ざらざらした感触を頬で感じ、それが砂粒だと気づくとようやく視界がクリアになってくる。どこかの砂浜に打ち上げられたらしいが、奇跡でも起こらない限りあの状態からここへ来ることは不可能に思えた。
運悪く嵐に巻き込まれた革命軍の船から、これまた運悪く体が海へ放り出されて仲間とはぐれたのがはじまり。徐々に意識が飛んでいくの感じながら自分の死を悟って、ゆらゆらと揺れる海面を見たのが記憶している最後だった。
どういうことだ。自分は確かに意識を失ったはずで、自力でこの砂浜にたどり着いたわけではないだろう。まさか沈んでいく自分を誰かがここへ連れてきたのか。だが、いったい誰が……?
ぼうっとする頭で、とりあえず体をゆっくり起こす。打ちつけた背中が若干まだ痛むが、動けないことはなさそうだ。きょろきょろと周囲を確認すると人の気配はなく、自然が生み出す波の音、風の音のみ。砂浜より先は森か海。どこかの島だということだけは理解したが、得体の知れない場所で下手な行動は控えたほうがいい。ひとまず仲間と連絡を取る方法を考えよう。
サボは立ち上がって、歩くたびに不思議な音が鳴る砂の上を進み森へ足を踏み入れた。
直後、目の前の茂みから何かの気配を感じてサボはとっさに半歩下がって身構えた。人か……それとも獣か。得意の鉄パイプも嵐で投げ捨てられてしまったために、頼れるものは身体能力だけだ。ガサガサと草をかき分けて現れたのは、しかしサボが想像していたそのどちらとも違う生き物――噂に聞いたことがあるだけで、実際この目で見るのは初めての「人魚」だった。
長い亜麻色の髪に、きめ細かく血色のいい肌。ほっそりとした腕には何やらいろいろな植物を抱えている。そして何より目を奪われるのは、下半身の部分――人間にはない銀色をしたウロコはサボの知る海の生き物の中でももっとも美しく映った。
およそここにいることが似合わない女の人魚は、サボの姿を認めるとビクッと肩を揺らして戸惑いの表情を見せた。確かに地上でも移動はできるのだろうが、「足」という部位がない以上、動くには不自由なはずだ。それがどうしてこんな森の中にいるのか。
視線がかち合い、互いにしばらく無言で見つめ合ったままやがてサボのほうから口を開いた。
「お前、ここに一人でいるのか? ほかに人は……いや、それよりここは一体――」
「ごめんなさいっ……」
どこなのかと言い終える前に、彼女が抱えていた植物を放り出して逃げるようにサボから距離をとり海のほうへ行ってしまった。自分の足なら追いかけて捕まえることもできたが、なんとなく躊躇われてその場に立ち尽くす。
器用に両手とヒレを使って砂浜を駆けていく背中を見つめながら、あの様子だと彼女は内緒でこの島に来ただけのように思えた。しかしそうだとすると疑問が残る。人魚の棲み家は基本魚人島だが、革命軍の船は新世界とは逆方向に向かっていたため距離が離れすぎている。まさかあんな場所から若い女が一人で海を渡ってきたわけではないだろうから、そう考えるとやはりほかにも人魚もしくは魚人族がいる可能性が出てくる。
人魚がこの島に一体何の用だ……? そもそもこの島の全容がわからないから何とも言えないが。
気づけば彼女の姿は海に消えていて、どこに行ったのかもうわからなくなっていた。運が良ければまたこの島に戻ってくるかもしれないが、人間に慣れていないように見えたので自分がいるとわかった以上戻らない可能性のほうが高そうだ。
ひとまず人魚のことは置いておいて、サボは島内を調べることに決める。森を抜けたら村や町があるかもしれないし、地図上の位置がわかれば仲間との合流も難しくない。とはいえあいつらも無事だったのかは定かではないが。
「それにしても……随分と綺麗な子だったな」
サボはぽつりと呟いて踵を返すと、今度こそ森の中へ足を踏み入れた。
▽
森の中を歩いていたサボは自身が抱く違和感の正体に気づかないふりをしてひたすらまっすぐ進んでいたが、やがて森を抜けたときその正体を認めざるを得なかった。
森を突き抜けた先には、何もなかった。いや、正確には最初に見た景色と同じ砂浜と海が広がっていて、つまり村も町もない。それどころか人間の気配がない無人島なのである。サボの足で、約半日かけて一周できるほどの小さな島だということも判明した。周囲を見渡しても近辺にほかの島は見当たらないし、ましてや通信手段と呼べるものもない。唯一持っているものといえば、上司のビブルカードが偶然ポケットに入っていたが今は役に立たない。八方塞がりだった。
嵐に巻き込まれたことは災難だったとしても、漂着した先が絶海の孤島だとはさらに運が悪い。助かっただけありがたいと思うべきだろうが。
サボは印をつけておいた、目を覚ました場所まで戻ってきたところで思案する。しばらくの間、ここで生き延びなければならないことを覚悟し、しかし奇跡的に生きながらえたのなら生還して仲間の元へ何としてでも帰りたいという思いがあった。そのためには、海を渡るための船を作る必要がある。幸い、自然には恵まれた孤島なので、流木を集めればそれなりの船は作ることができそうだ。
ぎゅるる――
腹の虫が鳴る。そういえば漂着してから何も胃に入れていないことに気づいて、まずは腹ごしらえをすることに決めた。森の中は果物がなっている木があったり、生き物もいたりと食糧には困らなそうである。
火を起こすのは――はは、エース。お前がいてくれたら楽だったのになァ……。
詮無いことを考えて、サボは日が落ちてすっかり暗くなった夜空を眺めながらつい感傷的になった。仲間もいない、誰一人いないというのはこんなにも虚しいのか。
木々の合間をぬって海風が背中に当たる。季節的に冷たくはないが、独りぼっちといううら寂しさからくる精神的な寒さを感じてしまい、どうもらしくない方向に思考が引き寄せられている。
早くメシを食って寝よう。
無理やり思考を断ち切り、サボは鬱蒼と生い茂る夜の森へ進む。
孤島といえど野生の生き物は生息しているようで、コルボ山で見たことあるような妙に大きな個体はいないが、食料になりそうな肉は狩ることができた。森の中での立ち回りも野生の勘が働き、方向感覚は悪くない。過酷なコルボ山に比べたらここは楽園と呼べるほどだ。まあ幼少期の生活がこんなところで役に立つとは思わなかったが。
ついでに明日の分も確保しておこうと、果物が密集していた来た方向とは反対側のほうへ足を向けたときだった。
女の悲鳴がサボの背後で聞こえて思わず振り返る。夜の森では遠くからだと影でしかとらえることができなかったが、十中八九あの若い女の人魚だということは理解できた。手で何かを追い払っている仕草はかろうじてわかるものの、相手にしている生き物の姿はここからだとよく見えない。
舌打ちして、駆け足で彼女の元へ急ぐ。どうして戻ってきたのか。そもそもこの島に何の用事があるのか。疑問に思うことはたくさんあったが、それどころではなかった。彼女が対峙している生き物の正体が蛇であることを認知した途端、獲物を狙っているかのように蛇が彼女へ迫る。
「来ないで、あっちに行ってッ……」
そばに落ちている小石を投げつけるなけなしの抵抗は、しかし蛇には痛くも痒くもない。ちろちろと伸びる舌が月光の下で不気味に光って映る。
刹那――横から蛇の腹のあたりに蹴りを一発入れる。サボの感覚から言えば大蛇というほどではないが、森に慣れていない女が相手にするには大きい。衝撃で数メートル先へ吹っ飛んでいった蛇に目を凝らして、「…っし」意識を失っていることを確認したサボは、改めて女のほうに顔を向けた。
その姿はやはり半日前に出会った人魚であり、森にいるよりも海の中にいるほうがしっくりくる立派な鱗を携えたヒレを地面につけて呆然とこちらを見ている。
「怪我は?」
「えっ……あ、……ないです。ありがとう、ございました」
話しかけられてようやく我に返ったように、彼女がぺこりと頭を下げた。月明かりに照らされた全身が目に飛び込んでくる。見れば見るほど、どうしてこんな辺鄙な島にいるのか不思議なほど綺麗な人魚だった。年齢は十八か九くらいか、やはり一人で来るには若すぎる気がする。
「さっきは突然悪かった。おれはサボ、革命軍の一員だ。嵐に巻き込まれてここに漂着したらしいんだが、まさか誰もいねェ島だとは思わなかった。……お前はどうしてここに?」
見下ろされるのは怖いだろうと考えてサボは彼女と目線を合わせるために、同じようにして地面に座り込んだ。それでも警戒心が強いのか、無意識に自分と距離をとろうと後退った彼女に少なからず傷つく。
人魚についてサボが知っていることは数少ないが、人間に対して良くない印象を持っている者が多いという。元々種族が異なるし、異形を忌み嫌う人間は確かに差別する生き物だ。そういう奴らと自分を一緒にしてほしくはなかったが、出会って間もない関係ではそれも仕方ない。なるべく怖がらせないよう、纏う雰囲気を和らげる。
しかし身上を打ち明けることには抵抗があるのか、彼女はなかなか口を割ろうとしなかった。こちらが業を煮やして去っていくのを待っているかのように思えたので、意地でもサボは動こうとせずこの場にとどまって彼女の重い口が開くのを待った。風で木の葉がさらさらと揺れる音だけが辺りを包む。
そうしてどれほど時間が過ぎただろう。サボがいつまで経っても動かないことに彼女のほうが諦めて、小さな声が夜の森に溶けた。
「私は……追放されたんです」