その指できみの心に触れたい
「痛っ……あーまた切れてる。せっかく治りかけてたのに」
作業の途中で手を止めて、いっとき自分の手を確認すると皮膚がぱっくり割れていた。乾燥肌なのに、水仕事が多いからか余計に酷くなっている。おまけに痒みまで襲ってくるのが厄介だ。
だから先日、医者からステロイドとハンドクリームを処方してもらったのだが、塗ってもすぐに水を使うせいで結局意味がない。医者には「掻いたら一生治らない」と脅しにも近い言葉をもらっているにもかかわらず、どうしても痒みがおさまらず気づけば爪を立ててしまっていた。
周りの同僚や先輩の綺麗で傷のない手を見るたびに、あかぎれや絆創膏が貼られた自分の手と比較して落胆する。なんて醜い手なんだろう。
「掻いちゃダメってわかってるけど……」
我慢しようと思えば我慢できなくもない。医者には痒くても我慢しろと言われた。でも一度患部に触れたら止まらなかった。治りかけているそこに爪を立て、皮膚をかき壊す。それによって一時的な快感を得る。どうして皮膚を傷つけているのに痒い場所を掻くと気持ちいいと感じるのか。それが原因で痒みを悪化させているということもわかっているのに。
しかし、頭では理解していても自分の手は止まらない。治りかけていた皮膚がまた醜く変化していく。
「またお前は……この前医者に言われたばっかりだろ」
皮膚をかきむしる私の右手は、しかし大きな手に阻まれてあっけなく傷から遠ざかった。驚いて振り向くと、後ろに立っていたのは参謀総長ことサボさんだった。呆れた顔で私を見下ろす彼は、私の手を放すことなく「痒いのはわかるが、そのたびに掻いてたら治らねェぞ」と釘を刺した。
「なんで私が医務室に行ったこと知ってるんですか」
傷だらけの手を見られたことが恥ずかしくて、とっさに引っ込めてから質問で返した。そして「治らない」という言葉が胸に突き刺さる。そんなこと、自分が一番わかっている。
雑務全般を担当する自分にとって直属の上司ではない彼とは、偶然仕事中に遭遇したことをきっかけに接点ができたのだが、なぜかそれ以降ちょくちょく姿を現してはこうして注意しにくる。まるで母親みたいだ。
私たちのような下っ端の間でも参謀総長の話題はよく出る。かっこいいとか頼りになるとか。もちろん私も密かに憧れているし、話してみたいなんておこがましいことを夢見ていた。それが現実になってみると、素っ気ない態度ばかりとってしまう。汚い自分の手を見られていることもあって羞恥心のほうが強かった。
「ンなことどうだっていいだろ。おれは手を傷つけるなって言ってんだ」
「そんなこと言ったって、痒いんだから仕方ないじゃないですか。私だって本当は我慢したいんですっ!」
質問に答えてくれなかったサボさんに、私は可愛げのない一言を返した。憧れているからこそ見られたくないのに、でもきっと彼にはそういう乙女心はわからないだろうし、わからなくてもいい。だって、こちらの一方通行な想いなのだから。
サボさんはしばらく無言だったが、やがて嘆息してからこちらに向かって手のひらを差し出した。
「仕方ねェ。クリーム塗ってやるから手ェ貸してみろ」
「あっ……」
有無を言わせず、エプロンのポケットの中にあるクリームを取られて(なんでここにあるって知ってるの!?)強引に袖をまくられた。ひび割れやあかぎれ、先ほどの引っ掻き傷。そして所々に貼られた絆創膏が目立つ手が晒される。
「あ、あまり見ないでくださいっ……傷が多くて醜いので」
我ながら自虐的な発言だと思いながら手を引っ込めようとしたが、サボさんがそれを制してするりとひと撫でする。その仕草に思わず鳥肌が立った私は無理やり彼の手から逃げようと試みる。しかし、それもまた妨げられ気づけばしっかり手首を握られていた。
「お前の手はおれ達の日常を支えてくれる大事な手だろ。綺麗だよ」
午後の明るい時間帯なのに廊下はしんと静まり返っていて、サボさんの声がはっきり耳に届いた。
直後、細くて、けれど節くれだつ指が私の手の上を滑っていく。クリームが肌へ染み込んでいくのと同時に、サボさんの言葉も心の奥に染み渡る。泣きそうになった。こんなボロボロの手を汚いどころか綺麗だなんて言う。お世辞だとしても嬉しかった。
泣くのをこらえるように、私は鼻をすすって「ありがとうございます」と小さく返した。
*
今や数多くいる革命軍の隊員たちの中で彼女という存在を見つけたのは本当に偶然のことだった。そのとき通りかかることがなければ所属先が異なる彼女と接点などできなかっただろうと思う。不機嫌そうな顔から一変して、すごく楽しそうに仕事をする姿が印象的だった。
本部の建物のうち、住居になっている西側の棟。屋上までのぼると多くの洗濯物が一本のロープにぶら下がっていて、シーツやタオルといった大きな布が並ぶ光景は圧巻である。加えて時折吹く風によって靡くので、見ていて清々しい景色だ。
その白い布たちに隠れるようにして一人の女の姿が見えた。太陽の光がシーツを通して彼女のシルエットを映し出す。洗濯かごに目いっぱい積まれた日常生活の必需品を一枚掴んで、ロープに引っ掛けクリップでとめる。風の音に混じって鼻歌も聞こえた。サボがよく見る彼女の表情といえば痒みに耐えかねる不愉快そうな顔だが、天気がいいせいかご機嫌のようだ。
彼女は革命軍の兵士――ではなく、水仕事や料理といったこちらの生活基盤を支える人だ。文字がびっしり詰まった書類に目を通すこともなければ、戦地へ赴いて戦うこともない。しかし、彼女がいなければサボ達の生活は成り立たない。
「かゆいっ……〜〜ッ」
と、大きな独り言が空気に溶けて消えた。そっと近づいていき、彼女の様子を確認する。一度洗濯物をかごに戻した彼女が自身の右手を恨めしそうに睨んでいた。いつもの不機嫌な顔だった。
乾燥肌と水仕事。元々の体質にくわえて水を使った作業が多い彼女は、ほぼ一年中手荒れを起こしていた。医務室に通って塗り薬を処方してもらっているがなかなか症状が改善しないらしく、常にああやって痒みと闘っている。最初こそ耐えているものの、どうにも我慢ができなくなるのか自身の肌を傷つけてしまう。
サボはやれやれといったふうに、また同じことを繰り返そうとしている彼女の手首をつかんだ。
「だから掻くなって言ってるだろ」
少しだけ厳しめに声をかけると、突然現れた自分に彼女の目が見開かれる。どうしてここにいるのか。なぜここにいることを知っているのか。わかりやすい彼女の表情がそう訴えていた。
「この時間帯は屋上で洗濯物を干してるってお前の同僚が教えてくれた」
「……何も言ってないですが」
「顔に書いてある。……ほら」と彼女に向かって手のひらを差し出す。
「え?」
「手ェ出せってことだよ。またハンドクリーム塗ってやるから」
提案すると彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。
自分の荒れた手を醜いという理由で隠す癖があるほか、目を離すとすぐ肌を傷つけようとするので自分がこうして定期的にチェックしている。サボからすれば大事な手を粗末に扱われるほうが困るし、本人が蔑ろにするならこちらが介入して阻止するしかないだろう。傷も含めて彼女の手を「綺麗だ」と言ったことは世辞でも何でもない。丁寧に仕事をしてくれている証だ。
彼女は知らないだろうが、サボは医者から彼女の皮膚の調子をうかがっている。よく効く薬を処方しているが治りが悪いと苦笑していた医者は、しかしクリームの塗り方までは教えていないようだった。
「い、いいです別に。自分でできますし」
「知ってるか? ハンドクリームは塗り方も大事なんだぞ」
「塗り方……?」
彼女がぽかんとして首を傾げたので、サボはやっぱり知らなかったのかと嘆息した。どうりで治り方が悪いわけだ。
混乱している彼女をよそに、いつもの場所――エプロンの左ポケットにあるチューブ型の塗り薬を手に取ると人差し指の第二関節あたりまでクリームを出した。
「いいか? まずはこうやって手の甲に塗る。きちんとすり込むようにしっかり塗らなきゃダメだ。適当に数回手をこすり合わせるだけじゃ意味ないからな」
ぼうっと手元を観察する彼女の手をやさしく包みながらクリームをにじませていく。こうやって実際に触れてみるとわかることだが、彼女の手は自分のそれよりもはるかに小さく、少し加減を間違えたら握り潰してしまいそうだった。こんなに小さい手が自分の日常を支えてくれている事実に驚かされると同時に、手荒れに悩まされながらも自身の仕事に手を抜かない彼女を労ってやりたい気持ちが湧き起こる。
手の甲が終わったら、次は指一本一本に塗り伸ばす。サボが調べたところによると、爪のまわりは押しながら軽くマッサージをして、指の間は特に乾燥しやすいから丁寧に塗ると効果的だという。
細い指の間を縫うようにクリームを細かく塗り込んでいるうちに、彼女がもぞもぞとぎこちなく動いた。
「ちょ、サボさん……なんかッ……」
「なんだよ」
「さ、触り方がっ……!」
ほのかに赤らんだ顔が恥ずかしそうに目を伏せた。
彼女の細い指の間に自分の指の腹をあてがい、クリームをすり込ませていく。一本ずつゆっくり、肌に馴染むまで。それがくすぐったいのか恥ずかしいのか(きっと両方)、彼女が手を引っ込めようとするので空いているほうの手で逃げられないようにしっかり掴む。右手が終わったら左手も同じように塗る。
触り方が不愉快ですと言って嫌がっていた彼女も、こちらが甲斐甲斐しく世話をする姿にようやく大人しくなり最後のほうはちょっと気持ちよさそうに表情が和らいでいた。仕上げに手首にも塗って完了だ。
「お前の手は小せェなァ。おれと比べるとそれがよくわかる」
ハンドクリームをポケットに戻してから、彼女の左手に自身の右手を重ね合わせた。手のひらの大きさも指の長さも太さも全然違う。このか弱そうな手が、サボの中で守るべきものに追加されたのはいつだっただろう。彼女は縁の下の力持ちだが、兵士ではないので身体能力は人並み程度だ。
「そんなのサボさんの体のほうが大きいからに決まってるじゃないですかっ」
「そうだな。だから、その手で毎日頑張ってくれてありがとう」
重ねていた手の指を彼女のそれに絡めてぎゅっと握る。すると、彼女の頬が再び染まっていく。「不愉快です!」赤面したままむすっとした表情を作って説得力のないことを言うので、思わず吹き出して笑った。