首の皮一枚まで愛せよ
もうすぐ自分の番が回ってくる。地下のライブハウスで並んでいた頃を含めば、もう数えきれないほど参加しているけれど、いつまで経っても慣れない。列が少しずつ動き、徐々にその時が来るのを待っている間は緊張と興奮とで心臓が今にも飛び出そうだ。
アイドルの握手会なんて言うと、友人は「二十歳を過ぎてまでアイドルに夢中なんてイタい」とはっきり貶すが、実際のファン層はたいていが二十代だから何の問題もない。むしろ自分で稼げるようになってからが推し活は楽しいものだ。人が何に興味あろうが、その人の勝手だし、最近はおばあちゃん世代にまで人気が出ているから、私の推しは老若男女問わず魅力的なのだ。
エーエスエル。元々、サボくんが所属している三人アイドルのグループ名だ。それが一年前、それぞれソロでも活動をはじめることになり、彼は現役大学生をしつつも精力的にアイドルとしてイベントを開催してくれている。
実を言うと、私は彼らがデビューするよりも前――ライブハウスで活動していた頃から知っていた。今でこそキラキラしたアイドルだが、元々三人はバンドとして地下のライブハウスなどを中心にアーティスト活動をしていたのだ。それがある日、偶然彼らのライブをアイドルプロダクションの社長が聴きに来ていたとかで、あれよあれよという間にお茶の間を魅了するアイドルへと駆けあがっていった。
小さなハコの近距離で聴ける空間が好きだった私としては、遠くの存在になって寂しい思いもあるのだが、世間に認められるのは別に彼らの身内でも何でもないのに、なんだか誇らしい気持ちにもなる。これは音楽ファンならあるあると言っていい一種の通過儀礼であり、複雑な心理だ。
そうした異色の経歴を持つエーエスエルのうちの一人、サボくんが私の推しである。メンバーカラーは青。三人の中では社交性ナンバーワンの爽やか青年として、多くの女性を虜にしている。
今でこそ厳重な警備体制の下に握手会が開かれるが、バンド時代からずっとサボくんを追いかけている私はライブハウスで彼ら自身がCDを売っていることもあったことを記憶しているので、今思えば随分とファンとの距離が近かったと思う。今で言うお渡し会みたいなことを、彼らはライブのたびに行っていた。
でも、その頃からちっとも慣れない。彼と対面した途端、私はその眩しい笑顔にいつもすべてを持っていかれるから。
「お、今日も来てくれたのか。いつもありがとう」
前の人が列から外れて、サボくんの視線が私に向けられると知り合いを見つけたときのような、ちょっとだけ素に戻った表情を見せた。でもすぐにキラキラした笑顔で、大きな右手が差し出される。ドキドキしながら、私はその手に自分の右手を重ねた。
「いつも応援してます、大好きです! スマホのフォルダもサボくんの写真でいっぱいです」
勢いで言ってから、気持ち悪かったかもしれないと後悔した。いつもあまり大したことを言えずに自分の番が終わってしまうのが嫌で、今日こそ少しくらいアピールしようと思っての発言だったけれど、いくら何でも赤の他人に「写真をたくさん持ってる」なんて言われたら引いてしまうのが普通の反応だ。
怖くなってサボくんをちらっと見ると、予想外なことに固まって目を丸くさせていた。「あれ?」と首をかしげる暇もなく、彼はすぐに「へェ……」と鼓膜を震わせるような低い、けれど熱を帯びた声で呟いた。
これはどういう反応だろうと内心不安でいっぱいになる。確かに、私は彼がアイドルになる前から追っかけている、いわゆる古参と呼ばれるファンだけど、だからといって立場をわきまえないファンになったつもりはない。出待ちもしないし、ライブ中のマナーも守る。サボくんの外見はもちろん好きだけど、それ以上に彼が元気に活動している姿を見て、私が元気をもらえるから応援したいのだ。
そんなわけで「好き」を表現した結果が、単なる「私はあなたのストーカー」とでも言っているような台詞になってしまったので、キモいファンだと認定されないか心配になってきた。なんて言われるのか覚悟して待っていると、突然握手している手をぐいっと引っ張られてサボくんと顔が近づく。
「なら見せてくれよ、今ここで」
言葉は理解できた。冗談っぽい口調なのになぜだろう、目は本気だと語っている。握られた手が、じりじりと逃げ場を失っていく。
「おれの写真でいっぱいなんだろ? ほかの男の写真が一枚でもあったら怒るけど」
ニコニコと笑顔のままなのに、目が笑っていない。握られている手もなぜか指が絡まっていた。ちょっと怖くなって離そうとしたけど、力が強くて敵わない。いつもの爽やかなサボくんのはずなのに、なんだか知らない人みたいだ。
困惑する私に、「ほかの推しはいねェんだろ? だったら見せられるよな」逃がさないとでも言わんばかりに握っている手のひらをぎゅっと掴まれる。さらには親指の腹でゆっくりと手の甲の骨をなぞられ、背中がゾワリと震えた。
サボくんのさわやかで甘い香水の匂いとは裏腹に、アイドルとはかけ離れた危険な口調に私は息を呑む。これ以上は耐えられそうにもなかった。
「ご、ごめんなさいっ! また来ます!」
慌てて握手している手を勢いに任せて引き抜き、逃げるように列から離れた。振り返ると、まだこっちを見て意地悪そうに笑っている。その唇からは「に・げ・る・な」と形作られるのがわかって、次に会うときどうすればいいのか悶々とする日々を送る羽目になった。