常識だけを抜けだして

 サボが死んだと聞かされて思考が停止したは、あのあとどこを走ったのか記憶はなく、ただひたすら現実逃避がしたかったというだけで森の中をさまよった。ひとりで飽くことなく泣いて叫んで、挙句の果てにはサボに対する怒りも口にした気がする。どうして死んでしまったのだと。どうして置いていったのだと。
 夜も更けたであろう頃に、エースがようやく探し当てたというふうに来てくれたがの涙はそれでも止まらず、彼は「うるせェ」と言いながら強引に涙を腕で拭った。乱暴な手つきな上、ごしごしと腕を擦りつけられて痛かった。けれど思えばそれは彼なりの慰め方だったのだろう。ぶっきらぼうな割に、泣き止むまでその場にいてくれたのだから。
 エースは、サボは「自由とは反対の何か」に殺されたと言った。詳しいことは船が沈められた瞬間を見たというドグラに聞けばわかるというので話を聞いたが、概ね間違っていない。なぜなら"天竜人"は確かに「自由とは反対」の存在だからだ。世界の頂点に立ち、権力を振りかざす者。自分たちが何よりも偉くて大事。他人を思いやれる心がない。
 でも――と、は思う。そんな世界に本当の幸せは存在しないし、本当の自由もない。きっと今のグレイ・ターミナルのような場所が増えるだけだ。
 しかしサボの船出を邪魔し、その上撃ち落としたという天竜人を許せないとは思っても、たった十歳のに何かできるとは思っていない。それならばせめて――。
 が出した答えは、カートレット家を出ることだった。幼い自分にできる唯一の抵抗はこれぐらいしかない。サボと同様、家を捨てて新しい人生を始めることでの道が切り開かれる。そんな気がしたのだ。
 コルボ山にあるダダン一家。あの日からも同じ場所で、エースとルフィとともに暮らしている。エースに泣き虫は嫌いだと言われたため、なるべく泣かないように心がけているもののコルボ山の暮らしはが想像しているよりもはるかに厳しかった。
 見たことのない生き物はいるし、植物はやたらと大きいし、が好きなヒヤシンスといったいわゆる園芸向きの花はほぼ存在しない。いくらもともと外で遊ぶことが好きなでも、それは少し運動神経がいいというだけであって、サバイバル生活ができるほどの力ではない。だから、エースとルフィについていくのがやっとだった。


 鬱蒼と生い茂る森。獣の咆哮。頼りなげに揺れるつり橋。今日も今日とて、はエースとルフィの後を追う。少しは加減してほしいのだが、二人にそういう気遣いを求めるのは無理難題だということをこの一か月で学んだ。
 の足元には粘着質の液体が広がっている。うげーと少し前にいるルフィもおっかなびっくり森を歩いては楽しそうにしていた。ところでこの液体はなんなの。気持ち悪い。土も泥も平気なのに、得体の知れないものには未知の恐怖が勝る。

「ま、まってよお」
「……おっせーよ。そんなんじゃクマに食われちまうぞ」
「少しは手加減してよね……体力バカ」
「なんか言ったか?」
「いーえなんも」

 足場の悪い道を難なく進むエースは、を気にするどころか早くついてこいと急かす。同い年のはずなのに、なぜかエースのほうが兄貴分って感じなのはまあ百歩譲ってもいいけれど。初心者にも優しくしてほしいものである。
 鉄パイプを武器に二人はいつも大きな生き物を仕留めて、食糧として持って帰る。それが彼らの日常だった。今日は川に棲むワニを捕獲すると意気込んでいる。けれどコルボ山に流れる川はそこらにある川とはわけが違う。小さい魚を釣る、とかそういうレベルの話ではない。けがをするかもしれないという危険と隣り合わせである。
 やっとの思いでたどり着いた川は、想像よりも危険な場所だった。ワニが生息しているだけあって、一歩間違えれば大けがをしそうだ。
 あの大きいのを仕留めるってどうやって……がその場であたふたするのをよそに、二人は当たり前みたいにワニへ一直線に向かった。

「おいルフィ! ヘマすんなよ」
「わかってる! おりゃあ!」
「言ったそばから何してんだッ!」

 自由奔放なルフィはエースの制止を無視してワニへ突っ込んでいく。も恐れながら慌てて「私がいく!」とルフィの後を追った。
 このとき、はまだ川で遊んだこともなければ泳げたわけでもない。よく考えればわかったことだが、が援護をしたところで事態が好転するはずもなく、案の定川で溺れる羽目になり、ルフィと二人してエースに怒られることになったのは言うまでもない。


*


「おめェら、おれが言いたいことがわかるな?」
「でもよォ、」
「わかるな?」
「ずびばぜんべじだ」

 鬼の形相でルフィに迫るエースにも素直に「ごめんなさい」と謝った。腕を組んだまま睨む姿は森に棲む凶悪なクマにも劣らないほどだ。
 川べりで正座させられながら、大体お前らはなァとくどくど言われ続けること数分。ようやく怒りが収まったらしいエースは盛大にため息をつくと、気を取り直して作戦会議を始める、と言い出した。どうやらサボがいないと輪が乱れがちになるようだ。なんとなくわかるなとは思う。エースは喧嘩っ早くて、ルフィは考えるより行動に出る体質。つまり制御する役割が必要だが、きっとそれはサボが担っていたのだろう。地面に木の棒で描かれたお世辞にも上手いとはいえないワニの絵を見て笑いがこみ上げる。

。お前は泳げねェし武器も持ってねェんだから、川の外で待ってろ」
「え、二人は?」
「おれたちで仕留める。ついでにルフィも泳げねェからおれの言うことを聞け」
「わかった! おれがワニをしとめる!」ゴン! 穏やかな森に穏やかではない音が響く。「いってェ〜なにすんだ!」「それはこっちの台詞だバカ! 話を聞け」

 とかなんとか。そのあともルフィは少々エースを困らせた(二人の間はがとりなした)が、狩りの準備が整ったらしい。
 不思議なのは作戦が決まると二人の連携はすさまじく、息の合った動きでものの三分程度でワニを捕獲してしまったことだ。よりもここでの生活が長いこともあって、慣れているのだろう。体力やスキルだけが異様にあるせいで、無駄な動きもあるように見えるけれど。まあそういったことは追々身につくものかもしれない。
 ワニが息絶えたあとは、も手伝って三人で縄を使って縛り上げる。結び終わると、引きずりながらダダンの家まで持って帰るのだが、これが意外と苦労する。何せワニが大きいせいで、険しい山の道を通るときに引っかかったりして時間がかかるのだ。
 ダダンたちの元に戻った頃には、すでに日が暮れていた。一息ついて間もなく、ダダンから夕飯の支度だ何だと働かされることになって床に突っ伏す。休憩させてと抗議しても、甘えるんじゃねェよと一蹴される。
 "貴族だからってあたしらは容赦しないよ"
 脅しのような、けれどエースたちと同等に扱ってくれる彼女たちにちょっと嬉しくなっている自分がいる。もとより、その貴族が嫌になって家を出たのだから。
 ――私も二人みたいにはできなくても、少しは狩りに参加できる能力を身につけよう。何でもいい。何かひとつ。
 そう思い立ち、ワニ鍋という恐ろしい名前の料理の準備をしながらは決意した。

「エース、ルフィ! 私、泳げるようになりたい」

2021/4/5