しあわせのつめあわせ

 日付が変わって一時間ほど。やっとのことで終えた仕事から解放されたコアラは部屋に戻って入浴準備を済ませると、上の階にある大浴場へ向かった。週の大半は自室のシャワーで済ませてしまうのだが、肩の凝りや全身が疲れているとき湯につかるというのは至高のひと時だ。
 しんと静まり返った廊下と階段を進んでいくと、奥に明かりが灯っている場所がある。本部の大浴場は男女で階が違うが、この時間に利用する者はほぼいないので来る途中誰にも会わなかった。もう休んでいる人がほとんどだろう。
 扉を開けて脱衣所まで来たとき、けれどそこには先客がおり、服に手をかけているところだった。コアラもよく知るである。

「なんでがこの時間にお風呂? 仕事はもう終わってるはずだよね?」
「え、あ、えっと……汗かいて気持ち悪くて……部屋のシャワーが昨日から壊れてるからこっちに来たんだ」
「なんだそういうこと。てっきりサボ君に仕事押しつけられたのかと思った」
「違うちがう、そんなことないよ」

 と、顔の前で手をぶんぶん振って否定する動作はなんだかぎこちない印象を受ける。しかし特別変な理由でもないのでコアラは気にせず自分も荷物を置いて服を脱ぎ始めた。今日は午前中ハックに付き合って魚人空手の訓練にも参加したために汗をびっしょりかいたにもかかわらず、シャワーする時間がなく着替えだけで済ませていただけに肌がべたついていた。
 コアラが一枚一枚脱いでいく一方、隣ではなぜか服に手をかけたままもじもじして動かないが目を泳がせており、やっぱり様子がおかしいことに気づいて声をかける。

「入らないの?」
「は、入るよ! 入る、けど……」
「けど?」
「その……」

 寝間着なのかカジュアルシャツ(それもの背丈には合っていない大きいサイズ)と七分丈のパンツというラフな格好だ。これまでに何度か彼女とはここで一緒に入浴してきたので今さら裸になるのを気にしているというわけではないだろう。じゃあ一体――?
 コアラが首を傾げて訝しんでいると、が観念したように口を開いた。

「お、驚かないというか引かないで、ね……」
「……?」

 恐るおそるシャツに手をかけて脱いだが下着姿になったとき、彼女の言わんとしていることがやっと理解できた。しかし理解したときにはすでにコアラの視界にそれが映ってしまって、何をどう言っていいのか切り返しに困った。
 シャツを脱いだの体にはあちこちに鬱血痕が見受けられた。肩、鎖骨、胸元、腹部。そして一番目立つのが背中。いくつもの痕は白い肌によく映えており、思わず目を背けたくなるほどだった。
 それが怪我したとかそういった類のものではなく上司の仕業であることは聞かずともわかるが、それにしたって、である。露出の多い服を着ないにとって見えない場所ではあるものの、目の当たりにすると上司の彼女に対する底知れぬ独占欲を感じられずにはいられなかった。
 二人が再会するまでの経緯は聞いていたし、それこそ奇跡的な出来事だということはわかっていた。だからその分想いも強く、今後一切手放すことはないのだと理解もしている。とはいえ、少しくらい手加減しないとが可哀想――と、思考している最中でコアラはふとあることに気づいた。

「もしかしてさっきまで――」
「っ……」
「うんわかった。その顔で十分わかったから言わなくていいよ」

 赤面して恥ずかしそうに俯いてしまったを見たら上司への咎める言葉も引っ込んでしまった。
 彼女にしてみれば、この時間は誰もいないだろうと見込んでここへ来たのにまさか途中で人が入って来るとは思ってなかったからどうすればいいのか困っている、といったところか。
 二人がセント・ヴィーナス島へ行ってから半年が過ぎた。当初は目も合わせられないと言っていたが今では恥ずかしがりながらもサボとうまくやっていけているのが別の面からうかがえてほっとする。何せ上司は頼りになる一方で、に構いすぎるところがあり時々子どもじみた顔を見せるのだ。
 仕事漬けになると機嫌が悪くなるし、近寄りがたい空気をまとう。そんなとき、彼女が上司の緩衝材となってピリピリとした空気を和らげてくれる。たびたびそんな場面を見かけているが、意図せずそっちの方面も順調なのだと知れて嬉しく思う。まあにとっては不本意だろうけど。
 そんなコアラの心中を知らず、おずおずと下着のホックに手をかけてストラップをはずしたが、ふうと息を吐いた。ちらっと何気なく見たつもりが、彼女の肩にコアラの目は釘付けになる。

……下着きつくない?」
「え、うーん……言われてみれば最近きつく感じてる、かも……?」

 かも、とは言っているが実際きついに違いなかった。ストラップが食い込んでいるせいで肩にその跡ができてしまっている。無理やりカップの中に収めていたこともあって、窮屈な場所から解放された両胸は空気に触れてやけに張りがあるように見えた。うん、やっぱり前よりも大きくなったような……。
 彼女がこういったことに疎いのはわかっていたが、まさか他人から言われるまで無頓着とは。それともあえてきついものを身につけているとか? 理由がわからない。

「でもほら、これって前にコアラちゃんと一緒に選んだものだから気に入って手放せなくて……ああ、でもやっぱりよくないよね」

 何も返さないでいるコアラを、怒っていると勘違いしたは慌てて弁解を始めた。最後のほうは尻すぼみになっていたがコアラの耳にはきちんと届いていた。なんだか胸の奥がむず痒く感じて居ても立っても居られなくなる。まさかそんなふうに思ってくれていたなんて、予想外の回答にコアラは言葉を詰まらせたがの手を取って答えた。

「〜〜っ、わかった! また今度新しいの買いに行こうね!」

 そう伝えれば安心したようにが笑うので、そのあともすっかり女子同士でしかできない会話が浴場にこだまするのだった。


*


 背中をつけた途端、妙にみしみしと音を立てる椅子にやっぱり古くさい雰囲気が漂う店だとコアラは店内を見渡す。客はそれなりにいて賑わっているのに、居心地が悪いのは気のせいではないと思う。しかし、目の前にいるサングラスをかけたちょっといつもと違う風貌の上司はがつがつよく食べるなあ、と呆れながら自身のティーカップに手をつけた。
 今夜が正念場である。任務の成功か失敗をかけた日に随分と食欲旺盛なものだ。彼にとって関係ないことだろうが、コアラは少し食べて満腹感を得てしまった。何よりこの姿を見ていれば食べてもいないのにお腹いっぱいになる。
 時間的にそろそろハックも合流する頃合いだ。船の中ではほかのメンバーもいてなかなかプライベートな話を持ち出す機会がなかったので聞くなら今がチャンスである。

「サボ君。最近胸が大きくなったよね」
「ぶはっ……うえ、」
「ちょっともう〜汚いなあ」

 背もたれから上体を起こして再び嫌な音を立てた椅子をテーブルから少し退く。突然の話題に動揺したらしく、サボは口に含んでいたものを吐き出した。そして動揺を隠すようにそばのナプキンでテーブルを拭いたあと、わざとらしく咳払いして「なんでお前がそんなこと知ってんだ」周囲を気にしながら小声で言った。
 コアラとしては嫌味のつもりで言ったのだが、彼にはあまりそれが伝わっていないようだった。あの休暇を終えてから加減を知らずにを困らせているのだと思って言ったのに――
 任務に発つ前、大浴場でと会ったときに二人がうまくいっていることを意図せず知って喜んだのも束の間、実際は思った以上に彼女に負担がかかっているのではないかと心配になったのだ。彼女がいないところでどうにか聞けないかと思った次第で、やっとサボと二人でハックを待つという機会が訪れた。
 ちらちら周りを気にしながら話している彼を見て、けれど聞かれたところでここに知り合いは誰もいないし、そうでなくとも食事に夢中でこちらの話など気にとめていないから心配ないのに、変なところで気にするものだ。普段は堂々とに構うくせに。
 ――と、思ったことをコアラはすぐ後悔する。

「でもやっぱそうだよなァ。あいつ、下着のサイズ合ってねェ気がするんだよ」
「……」
「コアラ。お前、一緒に選んでやってくれ」
「……」

 食事を再開したサボは真剣にそんなことを言った。悪気ない表情はどこか開き直っているようにも見えて少し憎らしい。なんで私が、というのはコアラの心の中だけで終わった。そもそも「なんで」とは思ってない。サボから頼まれるのがちょっと気にかかるというだけで、コアラはとの女子的生活を楽しんでいる。
 そうしたコアラの心境を知ってか知らずか、サボは続けて言った。

「お前面倒見いいし、いつも楽しそうにと話してるだろ? 頼むよ」

 上司からそんなふうに言われてしまったら、いよいよコアラは首肯するしかなかった。
 よく見ている。確かに年齢が近いとは殺伐とした軍の中でくつろげるというか、ほっと息をつくことができる場所になっていた。そしてたぶんだが、も同じように感じているはずだ。そうでなければあんな相談などしてこないだろう。
 コアラたちのそうした雰囲気がサボにもしっかり伝わっているのだと思うと、胸の中がぽうっと灯っていく。形容しがたい気持ちになる。緊張感と戦う日々の中で、ふとした瞬間に訪れる何気ない日常のひと時がどれだけ尊いかを。

「仕方ないからいいですよ」

 思わず緩んだティーカップで口元を隠しながらコアラはそう返した。
 ふと窓の外を見ると、遠くから歩いてくるハックの姿が見えて店の中から手を振った。

2022/6/5