まるで夢の世界のはなし

 その日、彼が見かけた"彼女"は珍しく首元まで覆われたタートルネックを着ていた。最初に違和感を覚えたのがそれである。確かに"彼女"はどちらかというと露出が少ない服を着ているのだが、いつもはもう少し涼しい恰好をしているというのに、今日に限ってなぜか首が隠れていた。とはいえ、特別おかしいことではないのでそのときは気にしなかった。
 昼食後、コアラに用事があった彼は彼女がいるであろう資料室に向かった。午後の予定では、彼女はこのまま夜まで資料室での作業だったはずだ。見えてきた資料室の文字と部屋の扉を前に彼の手は、しかしドアノブを回すことなくピタリと止まってしまった。

『あ、またこんなとこに痕付けられてるじゃない! もう、サボ君ってばほんと独占欲強いんだから』
『こ、声が大きいよコアラちゃん。もし誰かに聞かれたら、』
『大丈夫。今日はこの後ずっとと二人で作業だから』
『でも……って、ちょっとコアラちゃんどこ触って――ぁ』

 なんだかひどく悩まし気な声が聞こえて、彼は思わず一歩後ずさった。聞いてはいけない気がして体が勝手に動いたのだ。
 そして扉一枚を隔てた向こう側に、コアラと――参謀総長の恋人がいることが会話からわかる。しかも内容から察するに夜の話だとすぐに理解してしまった彼は、尚更聞いてはいけないと思うのに、なぜかそれ以上動けず立ち尽くす。どうりで、"彼女"の服装がいつもと違うわけだ。「痕」を隠すために
 彼の存在に気づいていない二人の会話は止まらずさらにヒートアップする。

も言ったっていいんだよ? 今日は疲れてるから無理、とか。別に毎回サボ君に付き合わなくたって』
『う、うん。そうだよね……』
『体力お化けに付き合ってたらがもたないよ』
『でも、その……サボと、そういうことするの、嫌じゃない、から……』

 あ。彼は思わず口元を覆って、かろうじて声を出さなかった自分を褒めた。自分に向けられた言葉でもないのにこちらが赤面してしまうほどには、"彼女"の言葉は胸のあたりを締めつけてどうしようもなくさせた。
 こんなことを言われたら男は調子に乗ってしまうだろうに、けれどこの場にその相手がいないことだけが救いだ。
 彼は一切聞かなかったことにして、資料室に入ることなくその場を去った。

*

「うわ、総長どうしたんすか肩のあたり」
「ん?」
「なんかすげェ傷だらけっすね。そんな激しい戦闘ありましたっけ」
「……ああ、これか。まァ激しいといえばその通りだな」

 意味深に笑うサボは何かを思い出したように口元が緩んでいた。
 一日の疲れを癒すために大浴場に来てみれば、参謀総長を筆頭に戦闘員たちが溢れかえっていた。書類仕事が大半の彼にはあまり接点がないが、まったくないというわけでもなく顔も名前も知っている者ばかりだ。
 話題の中心にいるサボはその容姿から目立つし、最近になって幼少期に出会った婚約者の女性と奇跡的な再会を果たしたことで余計に有名人である。二人は公認の仲なので、軍内で知らない者はいない。

「あーその顔、さてはさんですね? ていうか、サボさんって体力どうなってんすか。夜遅くまで仕事した日も必ず彼女の部屋行ってません?」
「お前らに関係ねェ。おれとあいつの秘密に決まってんだろ」
「そういうときだけ秘密ってズルいですよ。普段、おれ達の前でさんに堂々と構ってるくせに」
「うるせェなあ」
「大体おれ達がさんと仲良くしてたら不貞腐れるくせに、自分がいないときはよろしく頼むとか矛盾してますって」

 部下たちからの不平不満(というほど、彼らは別に不満に思っていないのは表情からわかる)を受けながら、サボは自覚があるのかないのかどこ吹く風の状態だった。あーだこーだと言っている部下を軽くあしらいつつ、けれどどこか嬉しそうにも見えるのは気のせいではないはずだ。
 彼は資料室で聞いてしまったコアラたちの会話を反芻する。
 "サボと、そういうことするの、嫌じゃない、から……"
 思い出して彼はまた恥ずかしさに首を振りながら、ちらりとサボの顔を盗み見る。傍から見ればサボから"彼女"へ向く矢印のほうが大きく見えがちだが、"彼女"もまたサボへの愛情が深いのだと、不可抗力で知ってしまった。

「おれの顔になんかついてるか?」
「へっ?」と、考え事をしていたらサボがこちらの存在に気づいて声をかけられた。
「ちらちら見てただろおれのこと」
「……」

 おまけに見ていたこともバレている。言い逃れはできなさそうだ。とっさに別の話をふることもできたが、彼はあえて口にした。

「いや、相思相愛なんだなと微笑ましくて」こちらの言葉にサボは一度ぽかんとした表情を見せたが、すぐに何のことかわかったらしく若干照れくさそうに「……やっと会えたからな」と答えた。
 それは驚くほど、慈愛に満ちた表情だった。本人は気づいていないかもしれないが、サボにとって"彼女"はそういう感情を向ける存在なのだ。
 羨ましいな、と思う。

「総長〜入らないんすかー」
 浴場のほうから間延びした声が聞こえてくる。「おう、いま行く」サボは軽い足取りで向かっていったが、ふと立ち止まってこちらを振り返ると「お前も早く来いよ」と笑顔で言うのだった。

2022/7/9