セロトニンが足りない

 執務室の空気が淀んでいることに気づいたコアラは、その元凶になっている人物へさりげなく視線を向けた。うず高く積み上げられた書類を一枚一枚、目を通しては廃棄箱、もしくはファイリングするという地道な作業を繰り返している。紙の擦れる音に混ざって、ときどき獣のような唸り声が聞こえるのは気のせいではない。彼から放たれる物々しい空気に、同じ空間で仕事をするコアラたちにまで陰気な気分にさせられるから勘弁してほしい。
 コアラの位置からでは書類の束に隠れて半分しか顔が見えないが、相当参っていることが感じられた。充血した目に、深く刻まれた眉間のしわ。長期任務明けで、たまりにたまった書類の仕分作業がサボを苛々させているのは明白だった。
 とはいえ放置しておくことはできないし、かといって彼以外が承諾することもできない。廃棄されるものは別として、上長に報告する義務がある分はサボが目を通す必要がある。だから仕方ないのだ。彼はそういう立場なのだから。
 コアラがこの状況をどうすべきか考えあぐねていると、控えめなノック音とともに快活な若い兵士の「総長」という声が聞こえた。入室してきた彼はコアラにも軽い会釈をして、まっすぐサボのいる執務机に向かう。

「総長。先月片付いた××島での案件についてまとめた報告書はどこに――ヒッ」
「……」

 突然、彼が後ずさったかと思うと、驚いた拍子に書類が床に落ちてしまった。しかし、驚かれたほうの人間は気にする素振りも見せずちらりと一瞥したあと「重ねとけ」のたった一言で片づけたので、コアラは仕方なく席を立ちあがってあたふたしている兵士を助けにいった。

「ごめんね。いま相当機嫌悪くて、なんとか堪えてるところなの。私がやっておくから君はもう戻っていいよ」
「なんかスゲェ危険な目してません? なんとかしてくださいっ……」

 机の陰に隠れながら小声でそんな会話をしつつ、コアラは苦笑いをこぼして誤魔化した。なんとかしたいのはやまやまだが、その方法がコアラにもわからないから困っている。ということをこの若い兵士に嘆いても仕方ないので、ひとまず言葉をのみ込んで彼の退室を促した。
 散らかった書類をそろえたコアラは改めて、言われた通り元々あった束の上に重ねて置いた。こちらに見向きもしないサボは、相変わらず書類と睨めっこしながらぶつぶつ何か言っている。仕事をしてくれるのはいいが、しすぎて精神的に壊れてはこちらとしても困るというのに、彼は休むこともせず書類をさばいていた。獲物を狩るような目は、確かに彼らからすれば恐ろしいことこの上ない。休憩してと声をかけても「んー」という空返事ばかりで状況は変わらない。
 そもそも彼は自分が不機嫌であることに気づいていないのだろうか。コアラはしびれを切らして何度目かになる同じ問いをぶつけた。

「ねえサボ君、いい加減に休んだら? そろそろ疲れも限界でしょ。いくら何でも詰め込みすぎだよ」
「おれは問題ねェ」
「あるから言ってるの! さっきだってせっかく書類届けに来てくれたのに、あんな態度で怖がらせてどうするつもり!」
「あのなァ。休憩なんかしてたら終わらねェだろ」と、積み重なる紙の束を指さして言う。彼の言い分はもっともなのだが、仕事はオンとオフの切り替えも重要だということを忘れてはいけない。サボの場合、無理やりオフにする方法は一体――

「とにかく、あとはおれ一人でいいからコアラはもう休め」

 すげなくそう付け加えたサボは、虫でも追い払うかのごとくコアラを執務室から強制的に追い出すと何の挨拶もなく扉を閉めた。もう一度開けて文句の一言でも言ってやろうかとも考えたが、うまくかわされるのが目に見えているので仕方なく自分の部屋に戻ることにした。



 サボの執務室から自室へ戻る途中、何冊もの本を抱えたが前方から歩いてくるのが見えてコアラは声をかけた。図書館にでも行っていたのだろうか、もう夜十時だというのに相変わらず好奇心旺盛な子である。

「あれ、コアラちゃんもしかしてまだ仕事? お疲れ様、立て込んでるね」

 は気遣うような視線を向けて労りの言葉を投げかけてきた。
 どうやら彼女もまだ就寝準備前らしく、昼間に会ったときと同じ服装のままだった。

「長期で外に出てるとどうしてもたまっちゃうから仕方ないよ。あと少しだから、片付いたら美味しいご飯食べに行こうね」
「うん楽しみにしてるね。それでさ、もしかしてサボもまだ仕事? 最近部屋に戻ってないみたいだから忙しいのかと思って、私もあえて会いに行ってないんだけど……」
「あー……うん。まだ仕事してる。執務室に行けば会えるけど、相当機嫌悪いよ」つい先ほどのやり取りが思い出されてげんなりする。それだけで状況が伝わったのか、は少し寂しそうな顔をした。
「そっかあ。じゃあせめてコーヒーだけでも渡しに行ってみようかな」
「さすがににはあたらないと思うけど……でもやっぱり心配だから私も行く!」


*


 食堂でサボの分だけコーヒーを淹れたの頬が緩んでいるのを、コアラは微笑ましい気持ちで眺めていた。が来てからというもの、コアラは何かと彼女に話を持ちかけては買い物したりご飯を食べたりといった女子的生活を送っている。もちろん任務の合間だから時間は限られているが、サボがそうであるようにコアラにとっても彼女の存在は心を休ませることができる場所になりつつあった。
 だから、と言うには理由として弱い気もするけど、が楽しそうにしているとコアラも嬉しいのだ。それは年齢の近い同性という部分も大いに関係しているし、革命軍にいながら友人と呼べる存在がいなかったのも関係している。
 本部の廊下に二人分の足音が響く。ときどき仲間とすれ違いながら、サボのいる執務室に向かってコアラたちは進んだ。
 やがて見えてきたその部屋は、けれど先ほどコアラが後にしたときよりさらに何か不穏な空気が扉から感じられて思わず肩が竦んでしまう。隣にいたも戸惑っているのかその場で立ち尽していた。これは最悪ノックしても無視される可能性があったが、ここまで来て帰るというのも悔しいのでとともにコアラは扉を叩いた。
 案の定、扉の向こう側は無言だった。「もしかしてうたた寝してるとか?」なんて呑気なことを言うに、それはないから大丈夫と否定し若干の怒りを込めてドアノブを回した。今度こそ強制的に休ませてやるんだから、と意気込んで。

「ノックしたけど反応なかったから、勝手に入っても文句言わないでくださいね」
「し、失礼します」

 堂々と入るコアラと正反対にソワソワしながらぎこちなく自分の後ろにくっついて入ってきたは、まるで初めて執務室に入るような挙動不審っぷりを発揮した。その不安を表すように、持っているカップの中身が小さく波打つ。
 サボのほうにちらりと視線を向ける。相変わらず般若みたいな表情で書類を睨んでいて、こちらの気配に気づいているはずなのに見向きもしない。こんなふうに仕事の鬼と化している彼を見るのは初めてかもしれなかった。
 すると、後ろにいたはずのがすっと前に出ていきサボの机へ向かっていく。突然のことに驚いたコアラは手を伸ばしかける。待って――呼び止める間もなく、彼女がサボの横に回って声をかけた。

「仕事が大変って聞いたけど、少しは体も休めないとダメだからね。はいこれ」

 コーヒーが机の上に置かれるとともに、サボの視線がようやく書類から離れて隣にいるに向けられた。そのときの彼の表情を、コアラはたぶん忘れることはないだろう。長くともに過ごしてきた彼の動揺するところは見たことあるといえばあるが、こんな静かに驚く姿は初めてだった。
 声も発さず、表情にも出さず。しかし言葉を失ってひたすらを見つめるのは動揺している証拠だろう。固まったまま、静止したロボットのように動かなった。

「……」
「サボ? どうし――わっ、え、ちょっと」

 が動かないサボを不審に思ってもう一度声をかけた直後、
 ――がばっ!
 何が起きたのだろう。固まっていたはずのロボット――サボが突然動き出したかと思うと、に思いきり抱きついた。相当強い力で抱きしめているのか、身動きが取れないがあたふたしてなすがままになっている。
 ぎゅうっという音が聞こえてくるのではないかと思うほど、が潰れてしまうのではないかと思うほど。それは離れていた時間を埋めるような、目に見えない何かを繋ぐような儀式に思えて、コアラはなんとなく二人から視線を逸らした。
 任務明けからすぐここにこもって仕事をしていた彼は、の言う通り部屋に戻っていないのだろう。再会した恋人にも会いに行かず、こうして仕事を片付けていたのだ。しかしコアラは衝撃を受ける。彼の仮面を崩すのはこんな簡単なことでよかったのだということに。
 眉間のしわが和らぎ、執務室の空気が弛緩したことに今さらながら気づいてハッとする。がサボに一言声をかけるだけで、緊張の糸が緩みほどけていく。彼の表情が柔らかくなっていく。本人は気づいていないかもしれないが、今とても優しい顔になっている。
 しばらくして抱きしめる力を緩めたサボがそっと顔を上げた。

「ああ、なんか久々にに触れた気がする」
「サボ、大丈夫……?」
「ん〜本の匂いがするな。図書館にでも行ってたのか?」
「あ……やめ、くすぐったいっ……」

 ぐりぐりと彼女のお腹に顔を押しつけて楽しそうにする上司の姿に、コアラは何とも言えない気分を味わっていた。たぶん、というか確実にこちらの存在を忘れている。このまま放っておいてもいいのかもしれないが、サボの集中が途切れた今がチャンスなのではないか。
 コアラは申し訳ないと思いつつも二人の会話の間に入る。

「サボ君、ちょうどいいタイミングだから休んで――」
「ああ問題ねェよ。元気出た、すぐ終わらせる」
「……」

 を懐に収めたまま顔だけこちらにくるりと向けると、上司は笑顔でそう答えた。元気が出た、というのは体力的な意味ではなく精神的な意味だろう。どっちにしても彼の中では「問題ない」らしい。
 ため息をつくコアラに申し訳なさそうな顔をするは、力の緩んだ隙をみてサボの拘束から抜け出すと「じゃあサボ、私はもう行くね。頑張ってね」急いで執務室を出ていこうとする。

「なんだよ、もう行っちまうのか? もう少しいてくれ」
「わっ――」

 再びサボの腕につかまったは軽々と抱き上げられて、今度は座っているサボの片膝の上に収まった。どうしていいのか困っている彼女から戸惑いの視線を向けられたが、コアラにはどうすることもできず首を横に振った。
 当のサボ本人が彼女を抱えながら器用に書類をさばき始めたので、いよいよコアラは何も言わずに執務室を出るはめになった。

 こうして、上司が仕事の鬼となった際にはの存在が効果覿面であるとコアラから部下たちへ言い渡される。
 革命軍の長閑な日常の一部である。

2022/8/7
たし恋見てみたいエピvol.1
不機嫌な総長を和らげる夢主ちゃんの話(これが始まりです)