言うか否か、僕は執務室の前で悩んでいた。
あのとき、本当に偶然その場所を通りかかってしまっただけで別にわざとではないと、誰に聞かれたわけでもないのに勝手に言い訳をつらつらと胸の内で並べ立てて一人慌てたものの、結局昼休み中だったこともあり誰も通らなかったので胸をなでおろした。
もし自分以外の人間が通ったら大変なことになりそうな気がして、僕はその場から硬直したように離れることができなかったのだ。盗み聞きするつもりは毛頭なかったが、どうしても聞こえてしまう彼女の声によからぬ妄想が頭をもたげて必死に首を振って邪念を振り払おうとしつつ、そのたびに総長を呼ぶ甘ったるい声と悲鳴に近い――喘ぎ声は、経験のない僕をひたすら悩ませた。
普段の彼女を知っているがゆえに、聞いてはいけないものを聞いてしまって非常に後ろめたい。僕としてはそのまま秘密にしてなかったことにすることも考えたが、もし今後も執務室でそういう事態があるとなれば話は別だ。総長たちが困るだろう。やっぱり、だから言っておくべきだ。
「失礼します」
軽いノックのあと、「いいぞ」という総長の了承を得て僕は執務室の中に入る。
いつも通り執務机で作業している彼と目が合い挨拶を交わす。整理整頓された室内で、唯一無造作に散らかっているのが机の上だ。どうやら午前中はずっとここで作業のようだ。幸いなことに、コアラさんやハックさん、ひいては彼女本人もいない。つまり今がチャンスであり、この時を逃したらきっと言い出せない。
僕はごくりと唾を飲み込んで「総長」と声をかける。
「んーどうした」
彼は書類から視線をはずさずに答えた。ぎゅっと両方の拳を握る。
「あのっ……実は一昨日の昼休みなんすけど、偶然――本当に偶然この廊下を通りかかって……」
「……」
総長の指先がぴくりと動いて、緩慢な動きでもって顔が上げられる。それは感情を一切取り除いたような、いや、静かなピリピリとした怒気をまとっているような、目に見えない何かにあてられそうになり、僕は肩が竦んだ。しかしもう後には引けない。
「なんていうか、その……聞こえてしまったというか、不可抗力だったんですけど、どうしようもなくて……」
酷い支離滅裂な言い方だと我ながら思った。もしこれが業務報告ならたちまち怒られているだろう。しかし、今回は業務とはまったく無関係の彼のプライベートな部分だ。はたして末端の自分が口を出していいものか、今更ながら足が震えてきて逃げ出したい気分だった。
総長はしばらく無言を貫いた。どこを見ているのかわからず、けれど書類を持ったまま微動だにしない。やはり言うのはまずかっただろうか。僕としても聞くつもりはなかったのだが、こればかりは言葉通り不可抗力だったので僕の力ではどうにもできない。むしろ自分一人でよかったとさえ思う。
おろおろと僕が考えあぐねているうちに、やがって書類が机の上に置かれてじっとこちらを見据えた。
「……聞こえてたんだな? あいつの声」
低い、とても低い声だった。前に一度だけ同じトーンの声を聞いたことがあったがいつだったか。思い出せない。
僕が怯えているように見えたのだろう、総長が嘆息して「わるい」とこぼした。
「お前に怒ってるわけじゃねェ。そもそもあんな――いや、いい。言いづらいこと言わせて悪かった、気をつけるよ」
「あ、じゃあ僕はこれで失礼します……」
「ん」
扉が閉まった瞬間、僕は大きくため息をこぼした。緊張から解放されて体から一気に力が抜けていくような感覚だった。執務室を後にして早速後悔しはじめているが、いやいやと首を横に振って考えを改める。
先輩の話では、総長は彼女に対して相当な入れ込み具合だというからその分愛も深いのだろうと思うが、さすがに行為中の声が漏れ出てしまうのはきっと本望ではない。むしろ聞かれたら困るはずで――あ……
そうだ、あのトーンは彼の内なる怒気や嫉妬や焦燥といった感情を表現したものだ。今になってどこで聞いたのかを思い出した。
あれは長期任務後にヘブンズ島というちょっと変わった祭りをやっている島に行ったときのことだ(本当は総長と彼女が二人で行く予定だったらしいのだが、なぜか任務に出ていた人間全員で行くことになった)。しばらくの間、同期の連中や先輩と食べ歩きしつつ大道芸のショーを見て回っていたのだが、途中で何やら不穏な場面に遭遇したのである。
三人の若い男が一人の女性に絡んでいたのだ。男のほうは酔っ払っているのか、少し離れているここからでも足が覚束ない様子に見える。祭りで高揚した気分のまま気が大きくなっているのだろう、ああいうしょうもない輩というのはどこにでもいる。職業柄、困っている人を見ると素通りできない質――特に女性なら尚更、なので僕は先輩に声をかけて助けに入ろうとした。
急いだほうがいいと思った。なぜなら酔っ払いたちは女性の腕を無理やり掴んで捻り上げていたからだ。僕がいるところからでは、女性は後ろ姿でわからなかったが華奢で小柄なのでどうみても一人でどうにかできるとは思えなかった。
そうして酔っ払いの行動は加速していく。抵抗する女性が気に入らなかったのか、上半身を強く押されてよろけた――僕らが彼女まであと数メートルというところで、しかし横から突然黒い影が現れたかと思うと、彼女の体をしっかり受け止めて倒れることなく済んだ。
"何してんだ"
その人物は、威圧感のある低い声で酔っ払いたちに問いかけた。我らが参謀の、聞いたこともない怒りに満ちた声だった。
"聞こえなかったのか? 何してんだ"
同じ問いを繰り返す総長の凄味に酔っ払いたちは目が覚めたのか、すぐに逃げていったもののさすがに一般人には手を上げたりしないだろう。だが、絡まれていた女性が総長の恋人だとわかって戦慄した。見慣れない服装だった上に、髪型がいつもと違ったので気づかなかったのだ。
総長に心配されながら、けれど彼女は意外にも平気そうな顔をしていたので静かにその場を後にしたのだが、去り際目にした総長の無表情の顔は忘れられない。
今思えば、怒りや嫉妬といった感情を一切殺していたのだろう。そのあとのことはわからないが、少なくともあの場は彼女の心身のケアが優先される。
執務室から離れて、僕は自分の持ち場へ戻ろうと廊下を歩いていた。先輩のところへ行ってから、そのあとコアラさんたちと特訓をして――と、頭の中で予定の確認をしていたところに、
「あ、お疲れ様です!」
考え事をしていたせいで前方から近づいてくる気配に気づかずに僕は「わっ」と驚いてしまってから、その相手が彼女――さんであることに気づく。
「え、あっ……おつかれ、さまです……」
目は見れなかった。僕は今しがた総長と話をしてきたばかりで、それで――
"えっ、あ、そこっ……ゃ、あぁっだ、めっ……"
ダメだ、忘れろ。今は関係ない。彼女はただ僕に挨拶してくれただけで、お前が勝手に不埒な想像をしてるだけだ。普通に、冷静に、自然に。
"ぅあっ……あ、サボっ、んん"
ああ、だからダメだって。
首を振ってもふっても、彼女の艶めかしい声が離れてくれない。
「すみません、急いでいるので失礼しますっ!」
「え、あっ……」
さんの大丈夫ですかと心配する声が走り去る僕の耳に届いていたが、心の中でひたすら謝りながら僕は先輩のいる作業場まで一目散に走った。
そうして思う。僕がこんな不埒な想像をしていることは、すでに総長はお見通しなのかもしれない。僕だって人並みに性欲はある。別に彼女でどうこうしようとは断じてないけれど、不可抗力で思い出されてしまうのはどうしようもない。僕も男である。
さんに、だから僕はひたすら心の中で謝り続ける。僕がこんな想像をしているせいで、総長がきっとまた嫉妬してしまうと思ったからだ。お前に怒ってるわけじゃないと彼は言っていたが、はたして本当なのかもあやしい。
秘密にしていれば、平和だったのかもしれない。しかし、言わなければいずれ僕のようなある意味での被害者が出てしまう可能性もある。だからこれでよかったのだと、彼女に申し訳なさが募りつつも僕は自分を肯定した。
2022/11/23
たし恋見てみたいエピvol.18-4
あの日の執務室の廊下で