本部内の廊下を歩きながらサボは、一瞬でも気を抜くと口元がだらしなく緩んでしまうのをどうにか隠そうとしていた。思い出しては頬の筋肉がすぐ弛緩するので全然引き締まらない。手で隠そうにももう手遅れだった。
「さっきからなにニヤニヤしてるんですか? 正直気味悪いですよ」
隣を歩く部下が歯に衣着せぬ辛辣な言葉でサボをぶった切る。気味悪いとは失礼な奴だ。ニヤニヤしていること自体は認めざるを得ないが、それにしてももう少し言い方というものがあるだろう、と胸中で不満を漏らす。
とはいえ今の自分は非常に機嫌が良いので彼の言葉をいなして、数十分前の出来事を彼に語りはじめた。
休憩がてら談話室に向かっている途中のことだった。
抱えていた案件の後処理が立て続けに発生し執務室に箱詰め状態だったサボは、先ほどようやく休憩する時間に恵まれた。食堂よりも談話室のほうが近かったので、くたくたになった体でひとり向かったのだが、角を曲がる直前で自分の名前が呼ばれて思わず足を止める。
「じゃあサボさんが初恋の人なの?」
「えっと……はい」
「えっ! フレイヤってもしかして総長以外に付き合った男いないの?」
「やっぱり珍しいですか……? 恥ずかしながら彼が初めての人なんです」
「ええ〜なんかもったいない〜」
誰だかわからなかったが、フレイヤと会話をしている女が複数いるらしく何やら自分の話題で盛り上がっていた。どうやら彼女たちは談話室で話し込んでいるらしい。見つからぬようこっそり様子を覗いてみれば、ソファでキャーキャーと黄色い声をあげているのでどうも入りづらい。あれは、通信部の仲間たちだろうか。
別に堂々と休憩だと言って入っていけばいいのに、サボの足はその場に縫いつけられたように動かなかった。フレイヤが自分の話をしていることが気になり、それは自分の前ではきっと話してくれないだろう内容な気がして、いま出ていったら恥ずかしがって中断される恐れがあると思ったのだ。
彼女が何を語るのかしばらくこのまま聞いていたくなり、サボは壁に寄りかかって彼女の言葉を待つ。まさか本人が近くで聞いているとも知らずに彼女たちは会話を続ける。
「でもすごいわ。初恋の人を想い続けてきたってことでしょ? サボさんがどうとかじゃなくて、一般論としてどこかでほかの人に目がいくものよ。十七年も離れてたら」
「ほかの人、ですか?」
「確かに初恋は強く記憶に残るものだけど、フレイヤみたいな経験をしたらどこかで踏ん切りをつけて新しい恋をしようって思うのよ」
女の発言に、確かに一般論としてそれが普通なのかもしれないなと同調する。フレイヤたちの話を聞きながら、サボはふいに胸が苦しくなった。
フレイヤと再会できたからよかったものの、叶わなかったとして彼女は誰の隣で人生を歩んでいたのか。隣に立つのっぺらぼうの男が頭の中で再生される。その相手はセント・ヴィーナス島にいる誰かかもしれないし、まったくゆかりのない土地の誰かだったかもしれない。サボは、脳内で描いた誰かもわからない男を黒く塗りつぶして無理やり思考を引き戻した。
肝心のフレイヤは一体なんと答えるのだろう、サボは聞き耳をたてて彼女の言葉を待った。
「そうですね。もしかしたらそれが普通なのかもしれないですけど……でもやっぱり彼の特別感が忘れられなくて。会えないってわかってても、サボが私の小さな世界を変えてくれた存在に変わりないから。あの日、雷に打たれたみたいな衝撃を受けて胸がときめいたのを覚えています」
フレイヤの言葉に女性陣が悲鳴に近い声をあげた。「愛よ、それは愛!」「そのとき恋に落ちたのね〜」次々に彼女をほめそやす。
その会話を聞きながら、サボは物陰で背中に走るむずがゆさと心が温められていく不思議な感覚を味わっていた。ここからでは顔が見えないが声色でわかる。彼女のやさしくて慈愛に満ちた表情を想像して、先ほどと打って変わって今度は胸が熱くなった。
――そんなふうに思ってくれてたのか。
目元を押さえて天井を仰いだサボは「あー……」言葉にならない叫びを小さく漏らす。何かを発していないと体がふわふわしてどこかに飛んでいきそうな気がした。嬉しくて、泣きたくて。"喜び"という感情を表現する方法がわからなくなる。
再会して当たり前のように想いが通じ合ったと安心したが、よく考えてみればどうしてフレイヤはすぐに自分を受け入れてくれたのだろうと気になっていた。あの頃の想いを貫き通すには時間が経ちすぎている。セント・ヴィーナス島で声をかけられたこともあっただろう。本部に来るまで自分の生活があったのだから、そこに大事な人間がいたっておかしくないだろうに。そういうのもないというし、一途に自分を想ってくれていた事実だけを素直に喜んでしまって「どうして」などと理由を考えたことはなかった。
――フレイヤ。お前がおれのことを特別だって言ってくれたように、おれもお前が特別だったんだ。息苦しい貴族生活の中で、初めて同じ価値観を持つ子に出会ったから。あの日から、お前はおれの光だったよ。エースやルフィとは別に、大事な存在としていつも心の真ん中にいたんだ。
サボは鼻をすすって目元を拭うと、談話室には行かずに踵を返して執務室に戻ることにした。
その途中で部下と遭遇したのだが――
「……なんだよその顔」
一通り話を終えたあと、部下から突き刺さる視線を浴びて一気に居たたまれなくなった。喋りすぎただろうか。しかし、彼の表情はどこか楽しそうで揶揄うつもりはなさそうに見える。
「いや、ただの惚気話か〜と思って……正直総長が羨ましいですよ。そんなに想ってもらえる人に出会えること早々ないですからね。ちゃんと大事にしてあげてください」
「わかってるよ」
*
「ねえサボ。さっきから私のほう見てなに笑ってるの?」
ソファでペラペラとページをめくって静かに読書するフレイヤがくるりと顔を九十度こちらに向けて、不満げにこぼした。そして同じソファの肘掛けに頬杖をついて彼女の姿を見つめながら相好を崩しているのは自分。集中して本を読んでいるかと思っていたら、ずっと見ている視線を感じて気になったようだ。
片付けなければならない仕事をすべて終えたサボは自室でフレイヤと寛いでいる最中であり、数時間前の女性陣の会話をやっぱり思い出していた。当然彼女は自分が聞いていたことを知らないので訝るのも無理ない。
「まァちょっとな」
だからこうして言葉を濁すしかない。しかし、フレイヤはさらに不満そうな顔で「なにそれ。気になるんだけど」と、口を尖らせた。
「言っていいのか?」
「……どういう意味?」
一度気になってしまったら事情を聞くまで納得しないらしい。フレイヤは本を脇に置いて、完全に体をこちらへ翻して近寄ってくる。いつもは恥ずかしいと言っているくせに、この至近距離で目が合うのは気にならないのか。それとも自分が笑われている理由のほうが気になってそれどころではないのか。どのみちサボが答えるまで彼女は譲ってくれないだろう。
フレイヤの問いに正直に答えることにしたサボは、肘掛けから体を起こして彼女と向き合う。
「夕方、聞いちまったんだ。お前らが話してるところ」
「……?」
「おれの話、してただろ?」
「え……あ、うそ、えっ……!」
事情を理解したらしいフレイヤが取り乱したように慌てはじめて軽くパニックを起こした。壊れた機械みたいに面白い動きをしたあと、口元を覆って「あの場にいたなんて知らなかった」と動揺しながら若干怒っている。
恥ずかしさや怒りといったあらゆる感情で百面相する彼女が面白いので少し意地悪したくなったサボは追い打ちをかけるつもりで、
「おれのことが特別で忘れられなかったんだよな」あのときフレイヤが言っていたことを繰り返した。こちらからさらに距離を詰めて、彼女をソファに押し倒す。
「……ッ、ばかっ……」
ぶわりと体の熱が一か所に集中したように、フレイヤの頬が赤く染まる。その両頬のすぐ横で手をついて見下ろした彼女があまりにも可愛いくてますます意地悪したくなってしまう。自身の口は止まらない。
「お前の世界を変えたのがおれだって思うとすげェ嬉しいよ。雷に打たれたほどの衝撃だってのも」
「やだやだ言わないで、忘れてっ……」
耐えかねたのか、ついにこちらの胸板をぽかすか叩きはじめる。痛くも痒くもない小さな反撃にサボは吹き出した。だから「言っていいのか」と尋ねたのに。
弱々しいパンチに庇護欲を掻き立てられて無性に抱きしめたくなったサボは、ぽかぽか叩くフレイヤの腕を掴んで引き寄せた。その勢いで抱き起された彼女の体を強く抱く。すっぽり収まってしまうこの小さな存在を、今度こそ離さずに守っていきたいと思う。
「こんなことで誤魔化されないんだから」
「誤魔化してるわけじゃねェよ。可愛いなって思ってさ」
「こ、答えになってないっ……」
「フレイヤこそ、もう言っちまったことは取り消せねェんだし、別に狼狽えなくてもいいだろ」
「で、でも……」
「もう黙って」
まだ何か言いたげな口を、サボは自分のそれで塞いだ。突然の口づけで硬直したフレイヤの体は最初こそ戸惑っていたが、やがてこちらのシャツの袖をぎこちなくきゅっと掴むと大人しくキスを受け入れた。
――忘れるわけねェよ。運命とかそういうのは信じちゃいねェが、あの日お前と出会ったことはそう思ってもいいかもな。
2024/10/22
見てみたいエピvol.37
フレイヤがサボくんをぽかぽか叩く話