「失礼しま――うわ、なにこの空気……どうしたんですか」
総長の執務室に用事があって入室したら、よどんだ陰気な空気が充満していて足がすくんだ。近くの棚でちょうど整理整頓していたコアラさんが視界に入ったので小声で理由を尋ねると、彼女もまたこっそり耳打ちしてくる。
「から一週間おさわり禁止って言われたんだって」
「えっ、それは……堪えますね。総長にとってさんは動力源みたいなものですし」
「でも今回はサボ君が悪いと思うから私はの味方かな」
「どういうことですか……?」
終わりかけの作業だったのか、コアラさんはそのまま執務室から出て行く直前に振り返って「本人に聞いてみて」と残していった。そして彼女がいなくなったことで空気がまた一段と重くなった気がして、呼吸がしづらいような錯覚に陥る。
ちらりと執務机に座る張本人を見やり、どうしたものかと思惟する。このまま用件だけ済ませて立ち去ることもできなくはないが、果たしてその選択で良いのだろうか。今の彼は書類を捌いているものの、その体からは暗くてよどんだ黒い何かをまとっていて、見ている側をものみこんでしまいそうなオーラだった。
そもそもさんが一週間も接触禁止令を言い出すなんて、一体彼はどんな失態をおかしたのだろう。好奇心半分、恐怖心半分で僕は総長に声をかけた。
「あの〜総長、さんと何かあったんですか……?」
話しかけていいのか定かではなかったが、この状態のままだと困るので自分が事情を話せる相手として相応しいかはともかく、吐き出す場所があれば総長もまた少しは心が軽くなるかもしれない。コアラさんも本人に聞いてと言っていたから、少なくとも聞けば答えてくれるはずだ。
書類から顔を上げた彼は確かに覇気のない表情をしていて元気がなかった。それは参謀総長という肩書きをどこかに落としてきたただの青年のようで不思議な感覚だった。そして数秒と待たずに彼は叱られた犬さながらの様子で、気だるそうに口を開く。
「……聞いて、くれるか?」
「もちろんです」
僕の返事に気をよくした総長は、椅子に深く座りなおすとそのときを振り返るように天を仰いで嘆息した。
*
本部の入口からぐるりと反対側に回ったところに散歩道がある。四季折々の植物であふれるそこは、が気に入っている場所のひとつだ。
長めの休憩時間が取れたので久しぶりに二人で散歩している最中のことだった。彼女が突然悲鳴を上げて妙な動きでその場にとどまったので、サボは振り返ってどうしたのか尋ねた。
「む、虫がっ……」
「虫?」
「中に入ったみたいで変な感覚がする。気持ち悪い……」
どうやら歩いている途中で、虫が襟の隙間から背中のほうへ侵入してきたという。それも小さな虫ではなくて、手のひらに乗っかるくらいの大きさみたいな感覚だとすでには涙目になっていた。
モモイロ島の気候は比較的穏やかな傾向にあるせいか、虫の種類も豊富で活発的だ。男には気にならないものでも、女には生理的に受けつけない種があるのかもしれない。ただ、彼女の場合は育ちが少し特殊なのであまり抵抗はないように思うのだが。
「おれがいない間、コルボ山でエース達と暮らしてたんだろ? だったら虫なんていっぱい見てきたんじゃねェのか」
「昔と今を一緒にしないでほしいし、あの二人みたいになんでも大丈夫なわけじゃないよ。私が平気なのは蝶と、あとは小さな虫くらい」
そう言って、今度はブラウスの袖に無理やり手を入れて追い払おうとする。しかし、奥に入り込んでしまったのかどこにいるのかわからず背中やら脇腹やら必死で手探りしていた。慌てふためくを見かねたサボは善意から手伝ってやるつもりで手を伸ばす。
「仕方ねェな。おれが取ってやるから少しじっとしてろ」
「ひゃ……っ……!」
ブラウスの裾を少しめくりあげて、サボは手袋をしたままの服の下に自分の手を滑り込ませた。
「どのあたりにいるかわかるか?」
「たぶん、まだ背中にいるような気がする……」
「背中……このあたりか?」と、脇腹にあった手を背中側に回した。
「あ、ちょっとまって……やっぱりいい。自分で……っ」
このときはわざとではなく、本当に善意から虫をとってやるつもりで背中に手を這わせたのだが、肩のほうに向かって指を滑らせた途端がぴくんと身体を震わせて背中を反らしたので、サボは思わず目をしばたたかせた。
目を瞑り、唇を噛んで耐えるように自分の袖を掴む彼女にいつものよくない嗜虐心がむくむくと湧きおこってしまった。どうして忘れてたのだろう。彼女は背中が弱いということを。
「こっちにはいねーみてェだな。反対側か?」
「ねえ、ほんとにもういいよっ……わ、たし……ぁ」
「気持ち悪ィんだろ、だったら早く取ったほうがいい」
言いながらわざとらしく脇腹を撫でて、背骨に沿って指を往復させる。身をねじって逃げようとする仕草がいじらしくて、サボはのこの姿に何度も煽られてきたことを痛感していた。彼女を前にすると、抗えない衝動が簡単にサボの理性をぐらつかせる。
「やっ、それ、なんか違うっ……ぜったい、探してな……ひゃぁ」
と、サボの空いている手が服の上から固い何かを捕らえた。そしてすぐにそれが彼女の言う"虫"だと理解して、服の中にあるほうの手を移動させて捕まえる。手中に収まればなんてことない。虫はあっけなく服の外へ出され、ようやく解放されたとばかりに彼女の見てない隙に素早く飛んでいった。その姿を見ながら、確かに思ったより大きい虫であることにサボ自身も驚く。
「サボ、手、どけてっ……手袋くすぐったいの」
「わりィ……」
「……っ、ひどいよ、虫を取るだけだと思ったのにっ……」
たいていの場合流されてくれることが多いが、今回はそんなことはなく表情から怒っていることは明白だった。
――少し悪戯するつもりが調子に乗っちまった。
ごめんとに手を伸ばしかけた手は、しかし途中で彼女に制された。慄いてから「……?」と恐るおそる呼びかけるも、彼女は俯いて黙ったまま動かなかった。まさか本気で怒ってるのか? いや、確かに百パーセントこちらが悪かったが、に限ってそんなこと――
「今日からサボは一週間私に触れるの禁止! 何があっても、絶対に!」
*
「……それは総長が悪くありません?」
話を終えて、部下の第一声は自分を非難する言葉だった。
「だとしても……堪える」
「さんは虫が苦手で早くとってほしかったのに、総長がスケベなこと考えるから」
「仕方ねェだろ。あいつのそういうとこ見ちまうとどうも止められねェんだ」
「だからって時と場合があるでしょ。そこは抑えなきゃダメじゃないすか。僕は彼女に同情します」
「じゃあお前はどうなんだよ。好きな女のそういう姿を見てどうも思わないのか?」
部下があまりにも批判的な言葉で詰ってくるので、思わずむっとしたサボはつい反抗的になって返した。人を理性のない獣みたいに言いやがって。おれにだって分別くらいはある。ただ今回は――少し悪ふざけが過ぎただけだ。
「えー……まあそりゃムラッとくるかも――っておれの話はどうでもいいんです。とにかくもう一度さんに謝ったほうがいいですよ」
言いくるめられて、結局返す言葉がなかったサボは盛大なため息とともに心の蟠りも吐き出した。自業自得なのは百も承知とはいえ、同じ場所で過ごしているというのに一週間も触れられないとはどんな拷問よりもつらい気がして、サボは声にならない叫びを上げた。
2023/01/14
たし恋見てみたいエピvol.28
抗えない衝動というやつ