病めるときも健やかなるときも

 最初に違和感を覚えたのは朝、仕事前に会ったときだ。いつもより集中力がなくぼうっとしているように見えたし、受け答えに覇気がなかった。けれど最近の忙しさからくる寝不足なのだと思って気に留めなかった。実際、ここ数日サボの仕事が佳境を迎えているのでお互いの部屋にも行っていない。ができることと言えば、料理で支えることであとは黙って見守るだけだ。
 午前中の仕事を終えて、食堂で待ち合わせしていたサボと合流したとき、しかしその違和感は確信に変わる。

「おれはパス。はちゃんと食えよ」

 そう言ってカウンターに向かわず空いている席に座ってしまったサボを、は奇異なものを見るような目で見つめた。華奢な体型のどこに吸い込まれていくのかと驚くくらい大食らいの彼が、昼食を食べないなどあり得るだろうか。何かおかしい。
 一度はカウンターに向かおうとしていた体を方向転換させてサボの元へ向かう。心なしかいつも広くて大きな背中が今日はちょっと頼りなく見えて不安がさらに大きくなる。

「ねえサボ。どうしたの」
「どうしたってなにが」
「食欲ないの?」
「違ェよ。さっき部下が任務の帰りに買った土産物を食っちまったから腹が減ってねェんだ」

 即答して笑ってみせたが、ここまでくるともう無理しているのが一目瞭然だった。額に汗が滲んでいるし、朝に会ったときよりも顔色が悪い。大体ちょっとしたお土産を食べたくらいでサボの食欲が満たされるとは思えない。

「ちょっとごめんね」サボの前髪をかき分けて、は自分の額をくっつけた。
「……っ」
「…………やっぱり、熱がある」

 額から伝わる熱は通常の体温よりも明らかに高くてどう見ても体調が悪い人のそれだった。呼吸も荒くなってきたような気がする。
 それなのに当の本人は眉を下げて「大丈夫だって、心配すんな」と笑うからの表情は曇っていく。

「……どうして無理するの。食欲がない、顔色も悪い、熱もある。誰が見ても体調不良だよ」
「多少熱があっても仕事はできる」

 埒が明かない。どうしてこんな頑ななんだろう。確かにサボが体調を崩すところは見たことなかったが、人間生きていれば誰にだって起こりうる現象だ。参謀総長がほかの一般兵士に比べて忙しいと言ったって、調子が悪いときに休めないなんてことはないはずで。

「わかった。じゃあコアラちゃんと交渉してくる。ここにいて、動いたら怒るからね」

 はコアラを探すべく、サボを残して食堂を出た。
 彼がどうしてもというのなら、周りから強制的に休むよう伝えてもらうしかない。あんなふうに無理して笑う彼をは放っておくことができなかった。


*


 瞼がひどく重たい。体がだるい。こんな感覚は生まれて初めて――いや、小さい頃にも経験したことはあるが、大人になってからは初めてだった。いまどこにいるのか記憶が朧気で思い出せない。たしか、午前中は普通に仕事をこなしてなんとか食堂に来たところまでは覚えている。そのあとに会った気がするが定かではない。
 最初はただの睡眠不足だと思っていた。少し体の調子がいつもと違っていて、思うように動かなくて、時折目がかすんで見える。しかしそれは仕事が立て込んでいることからくる疲労だと思っていた。実際、コアラ達だって気づいてなかったはずだ。だからうまく立ち回っているのだと勘違いした。
 と、ふいに何か冷たいものを肌が感じて瞼がぴくりと動く。火照った体には心地良い冷たさだ。ゆっくり動かしてようやく開けると、心配そうな瞳がこちらをじっと見ていた。だ。
 ――やっぱりお前には見抜かれちまったんだな。

「気分はどう? まだつらいよね」
「……おれ、」
「覚えてるかわからないけど、私がコアラちゃんと話してる間に勝手に執務室に戻ろうとしたんだよ。でもその途中でみんなに見つかって体調不良だってことがわかったからここに強制的に連れてきてもらったの。動かないでって言ったのに」

 の声には少し咎める様子がうかがえたが、こちらが体調を考慮してくれているのか口調は心配するときのそれだった。
 彼女の言葉に答えたいのに続きが出てこない。喉がひどく乾いていた。口を開いて、けれど声がかすれる。情けねェ。だから嫌だったんだ――にこんな姿を見られるのは。
 それでも優しい彼女は何も言わないサボの様子にますます心配そうに眉を下げる。

「水、飲む? あとお昼食べてないし、薬飲むためにも何かお腹に入れたほうがいいと思って作ってきた」

 が盆の上に乗った黒い釜を差し出してきた。湯気が立ちこめたそれは、中身はわからなかったがおかゆか何かだろう。
 膜が張ったようにぼやけていた視界もようやくクリアになってきて、自分の部屋のベッドにいることを理解する。段々と記憶も思い出されて、そういえば仲間に半ば引きずられるようにしてここへ来た気がする。「熱があったのか」「なんで言ってくれなかったのか」そんな言葉を投げかけられた。もちろん言わなかったのには理由がある。

「食うよ……っ」
「あ、」

 起きようと体を起こしたのだが、思った以上に力が入らなくてがとっさに支えてくれた。今回ばかりは華奢で小さな彼女が頼もしく見えてなんだかおかしかった。いつもと立場が逆になっている。

「力が入らないなら私が食べさせてあげようか?」
「いや、そんなことまでお前に――」
「サボ。もし、私にこんな弱ってる姿を見られるのが嫌だって思ってるならそれは違うよ」

 間髪を入れずにが否定をする。拗ねるみたいに少しむすっとしながら、けれど「あ、違うっていうのはサボの弱々しいところも含めて好きだから気にしないでいいんだよってことで……」慌ててそう付け足した。
 背中に伝わる温もりに安心感を覚えて、ふいに泣きそうになった。鼻をすすって誤魔化そうとする。

「部下の皆さんがね、"総長はかっこつけてさんの前じゃ弱みとか見せたくないんですよ"って言うから。それが本当なら私にはすべて見せてほしいかな」
……」
「支えるって言ったでしょう? これからずっと一緒にいるんだから、それこそ私には弱音を吐いていいんだよ」
「……情けねェって幻滅しないか」
「あはは。そんなこと気にしてたの?」

 が軽快に笑いながらなんてことないように言った。サボとしてはそこが一番気にするところなのだが、彼女にとっては"そんなこと"のようだ。
 彼女曰く、支え合っていくというのは病めるときも健やかなるときも、なのだそうだ。頬を赤らめて「これは結婚式の誓いの言葉なんだけどね」と恥ずかしそうに言うので、こっちまで面映ゆくなり「そうか」と素っ気ない一言しか返せなかった。
 しばらく沈黙が続いて妙な緊張感で落ち着かず何か話題を探したかったが、熱っぽい頭では思考回路もうまく回らない。

「そうだ。たまご雑炊冷めちゃうから、食べよ?」思い出したようにが釜を指さした。心なしか彼女のほうも忙しない。くすぐったさを覚えつつ、でも胸のあたりがじんわり温かくなっていく。
「うん。頼んでいいか」
「もちろん!」

 嬉々としてれんげに一口分を掬い取り、ふうっと熱を冷ますために口をすぼめるの姿を見て、胸の奥がぎゅっと音を立てた気がした。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人が現れるなんて昔は考えられなかったが、革命軍でのやるべきことを終えたらこうした未来が待っているのかもしれない。
 差し出されたそれを口に入れる。咀嚼してる間、不安そうな瞳と目が合う。味を気にしているのだろう。料理上手なのメシがマズいなんてことはあり得ないのに。

「美味いよ、ありがとう」
「よかった。食べられるだけたべて、薬飲んだらまた寝よう。今日はもう大丈夫ってコアラちゃんが言ってくれたし、ドラゴンさんも心配してたよ」
「そうか……悪ィな」
「たまにはしっかり休養しなきゃ。はい」
「ん」

 口いっぱいにほっこりした優しい味わいが広がる。シンプルだからこそ、食欲のない今はちょうどよかった。
 結局、たまご雑炊はあっという間にぺろりと平らげてしまった。も空っぽになった釜を嬉しそうに見つめている。手渡された薬を飲んでひと息つくと、彼女が片づけてくるねと立ち上がった。

「あ、っ……」
「ん?」
「いや、その……」心細さを覚えてとっさに引き止めてしまったが続く言葉が見つからない。今日は本当にダメだな、と自嘲的になりかけたときだった。
「ここにいたほうがいい?」

 ――見抜かれている。
 優しく笑うにどうも居心地の悪さを感じてしまうが、調子が悪くて情けない姿を晒したとしても彼女はすべてを肯定して受け入れてくれるという。心配することはないと言ってくれた彼女を信じていいのだ。体調が悪いと思考まで悪い方向に考えてしまいがちだが、どうやら杞憂だったようだ。

「眠るまでここにいるから、安心して寝ていいよ」
「……ありがとう」

 再び椅子に座ったがベッドへ手を伸ばして、サボの手を握った。まるで子どもにするときのような態度に、サボは本当に自分が子どもになったような感覚に陥った。しかし今日はそれでいいのだと彼女が思わせてくれたので、握られた手の滑らかな感触を噛みしめながら微睡んでいく。
 やがて完全に意識が沈んでいき、サボの視界は暗転した。最後まで手の感触は残ったまま――

2023/01/31
サボくんの看病をするちゃん