猫だけど、ぬいぐるみだけど、

 それはがまだ本部に来て数週間も経ってない頃のこと。
 ようやく時間が取れたサボと初めて二人だけで街のほうへ繰り出した日。デートした記念に、から彼へ猫のぬいぐるみを贈った。サボがぬいぐるみをじっと見つめて「お前に似てる」と笑った顔に胸がときめいたからだ。"ちび"と変な名前まで付けているのは納得いかなかったが、物珍しそうにぬいぐるみを抱っこして見つめている彼があまりにもかわいくて買わずにはいられなかった。
 そのあと彼がぬいぐるみをどうしているのかは知らなかったが、ある日彼の部屋に行ったら椅子に置いてあるのを見つけては驚いた。
 ついこの間来たときは見なかったのに、どういうことだろう。

「ねえ、サボ。この猫のぬいぐるみだけど、」
「ん? ああ、そいつがどうかしたか」
「この前来たときはなかったよね。どこからか移動したの?」
 ソファで新聞を読んでいたサボに問いかける。
「執務室に置いたりもしてたな。けど、数日前に部屋に連れてきた」
「え、でも椅子にはなかったような……」
 記憶を辿ってみるが、の記憶じゃやっぱりこの椅子には何もなかった気がする。
「枕元に置いてたからじゃねェか? 置き場所は特に決めてねェから棚の上だったり、椅子だったり、ソファだったり気分で変えてんだ」

 ソファの上でなんてことないようにサボは言ったが、は雷が打たれたような衝撃を受けて戦慄した。両手の中のぬいぐるみに思わず顔をぐっと近づける。
 ――な、なんで私より先にサボのベッドで寝てるの〜〜っ……私だってまだ入ったことないのにっ!
 ぬいぐるみだと知りながら、は"ちび"に向かって訴えた。
 サボの部屋に来る機会は増えたが、仕事で忙しい彼に迷惑をかけたくなくては日付が変わる前にはここを出るように心がけている。もちろん、内心はもう少し一緒にいたくて離れたくなかったが、だからといってその先に進む勇気はまだ持ち合わせておらず、矛盾した我儘な想いだった。
 でも、それでも……ぬいぐるみに負けた気がする……!
 の眉根はみるみるうちに下がっていく。

「……ふっ」と、突然息を吐き出した音がしてから「心の声がダダ漏れだぞ」サボがいつの間にか新聞から顔を上げてこちらを見ていた。
「……!」
「ヘェ。まさかがぬいぐるみに嫉妬してくれるなんてなァ」
「あっ、ちが、これはその……」

 とっさに"ちび"を椅子の上に戻して取り繕う。けれど、もう遅かった。サボの唇が意地悪そうに弧を描く。今から言い訳を並べてもどうせ意味ないことはわかっていた。それにいま口を開けば、余計なことを言ってしまいそうで憚られる。

「じゃあ……寝てみるか?」
「……え?」
「おれのベッド」

 徐にソファから立ち上がったサボがベッドまで移動していきそのまま縁に腰かけた。指で「来い」の合図をされる。
 正直戸惑った。確かに行ってみたい気持ちはあったが、この時間に恋人の自分がそんなことをする意味を、恋愛経験がほぼないもさすがに理解している。自分にはその勇気がまだないのに、行っていいのかわからない。

「大丈夫だ、何もしねェから」

 躊躇っているの心情を読み取ったかのように、サボが優しくそう言った。彼に気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思う一方、その優しさに甘えてまだしばらくこのままでいてもいいのかもしれないと安堵する。

「来いよ」手招きされて、見えない糸に引き寄せられるように、はゆっくり彼に歩み寄っていく。


*


 自分のベッドにが寝っ転がっているのはなんだか不思議な気分だった。すでに何度も自室へ招いているのに、この場所だけは彼女も遠慮――というか、どこか一線を引いているようで決して踏み込んでこようとはしなかった。
 それが今日は猫のぬいぐるみごときに随分可愛らしい嫉妬をして、うっかりだろうが"私だってまだ"と口を滑らせた。その言葉が何を意味するのか、もちろんサボにはわかっているが、かといって急に手を出すわけにはいかなかった。
 これまで何度かそういう雰囲気になりかけたものの、は決まって日付が変わる前に出ていくからきっと心の準備がまだできていないのだろう。彼女に触れたいからといって無理やり迫るようなことは、だからサボは一切しなかった。モヤモヤとした気持ちがないと言ったら嘘になるが。

「どうだ、初めてのおれのベッドは」

 サボは姿勢をそのままに、体を捻ってのほうに向く。小さい。知っていたはずなのに、こうしてベッドに収まる彼女は本当に自分よりもはるかに小さな生き物だと認識させられる。

「うん……なんか、ドキドキする」
「そうか……」
「あと……サボの、匂いがする」

 と、体を反転させてうつ伏せになったが掛け布団に顔を埋めた。匂いをかぐ仕草をして嬉しそうにするから、たまったもんじゃない。準備できてねェくせに、そういう発言はダメだろ。
 額を押さえてサボは「あー……」苛立ちにも似たうめき声を発して、今にも散ってしまいそうな理性をどうにかして押しとどめようとする。
 流されるのは好きじゃない。きちんと互いにそういうつもりだとわかった上で彼女と進みたかった。だから触れたいという欲望は隠して彼女に問いかける。

「何もしねェって言ったけど、キスはしていいか」

 見下ろした先にいるがぴくっと体を硬直させてうつ伏せのまま動かなくなった。あれだけ意気揚々と転がり込んできたくせに急にしおらしくなった彼女がおかしい。自分とのことを前向きに考えてくれていることは十分伝わってくるから、怖がらせるようなことだけはしたくなかった。
 しばらくして、ようやく決心したようにくるりと顔がこちらに向けられる。

「う、ん……私もしたい」

 頬を染めたが想いを打ち明けるように、そっと言葉を紡ぐ。サボは決心を固めたそばから崩れそうになる理性を縫いとめるために邪念を振り払う。
 それから彼女にゆっくり近づいて、紅く色づいた唇に自分のそれを重ねた。

2023/02/04
猫のぬいぐるみに嫉妬するちゃん