苦いコーヒーに溶けないシュガーキューブ

 午前の仕事を終えて、今日は午後から施設の子どもたちの面倒を見る約束をしていたフレイヤは、食堂からそのまま本部に併設する保護施設までやってきた。ところが、来て早々何やら中が騒がしいことに気づき、状況を確かめるために慌ててその場所まで駆け寄る。
 目に飛び込んできたのは、二人の女の子が一冊の本を取り合いしている光景だった。本の端と端を互いに持ち、引っ張っている。周りの子たちはどうすればいいのかわからないのか、心配そうに見つめるだけで止めることができないでいた。「あたしがさきに見つけた」「おねえちゃんはきのうみてたんだから、きょうはわたし」両者一歩も譲らず、といったふうに彼女たちの手から本は離れていかない。
 すぐさまフレイヤは二人に近づいて、「本が破れちゃうよ」となるべく声のトーンを穏やかにして伝える。急に入ってきた大人の姿に驚いた二人は「あっ」と声をあげて、ばつが悪そうに目を伏せた。その拍子に床に落ちてしまった本を拾う。微かだが、背の部分から数ページほどはがれてしまっていた。
 怒っているのではないことを伝えた上でフレイヤは尋ねる。

「どうしてケンカになったの?」
「これはね、あたしがさきに見つけた本なの」
 髪を一つ結びにした女の子が言う。
「でも、わたしもみたいもん!」

 こっちはショートカットの女の子で、拙い口調から年下だろうことがうかがえた。むうっと頬を膨らませて不満そうにしている。お姉ちゃんと呼んでいたから姉妹だろうと予想する。
 事情は何となく理解できた。姉であるポニーテールの子が、昨日見つけた本を今日も読もうとしたけど、妹も読みたいと主張して言い合いになったようだ。玩具の取り合いは、子ども同士の喧嘩の典型的な例なのでこういう光景はよく見かける。
 フレイヤは預かった本の背の部分を見せた。

「二人ともここを見て。さっき引っ張っちゃったせいでページが少しはがれちゃったよ。物は大切に使おうって言われてるよね?」
「……」
「……」

 二人は黙ったままゆっくりと頷く。優しい子たちなので理解が早い。はがれてしまったページを痛々しそうに見つめる姿に、フレイヤはふっと口元を緩めた。

「でも大丈夫。この程度ならすぐに直るよ」
「ほんとう……?」妹の表情が少しだけ明るくなる。
「うん」
「よかった。あたしが妹にゆずらなかったのがいけなかったんだよね……ごめんなさい」姉は殊勝な態度で素直に謝る。

「お姉ちゃんだからって我慢しなくてもいいんだよ。だって本なら一緒に読むってこともできるんだから」

 俯いてしまった姉に、フレイヤは頭を撫でながら微笑む。
 二人が読みたがっていた本は大型の絵本だ。この大きさなら二人並んでも問題なく左右のページが読める。無理して譲る必要はない。

「わっ、ほんとだ!」
「わたしもごめんなさい。いっしょにみよ、おねえちゃん」
「うん!」

 姉妹に笑顔が戻り、姉が右手で妹が左手で本の端をそれぞれ持つと、二人は仲良く読書をはじめた。その仲睦まじい様子にフレイヤの表情も自然と綻ぶ。心配そうに見ていた周囲の子たちにも目くばせで「もう大丈夫」と伝えると、心の底からほっとしたような表情を見せた。
 姉妹と聞いて、自身の幼少期の出来事がふっと頭をかすめた。あれは、フレイヤが九歳になったばかりのことだ。

 ▽

 その頃、すでに誕生日という記念日はフレイヤの中であまり良い印象がないただの一日と同列だった。せめてサボがいてくれたら、と何度も意味のない仮定を唱えては虚しくなる一方で、けれども時間は淡々と過ぎ去っていくし、彼のいない日常にも慣れていってしまうのかと思うと心が痛んだ。
 九歳の誕生日は、珍しく両親がフレイヤに高価なプレゼントをくれた。物心がついたときから値段よりも自分にとって本当に価値のあるものを好む傾向にあったフレイヤに、両親はあるときから高価なものを与えなくなった。それでも身につけるものはカートレット家の人間として相応しいものを選んで着るようカロリーナが両親から言われていたようで、口酸っぱく「汚さない」「しわくちゃにしない」などといった小言を言われたけれど。
 もらったプレゼントは機械仕掛けの人形だった。
 初めて見るそれは、とても不思議な動きをする人形で、ランプの明かりを頼りにピエロが机に向かって手紙を書くのだが、次第にランプの明かりが弱くなっていくと同時にうとうと居眠りを始めてしまい、はっと気づいて明かりを調整してまた手紙を書きはじめる。有名な職人が作ったらしく、プレゼントをもらってからというもの、フレイヤは飽きもせずその複雑な動きをする人形をじっと眺めていた。こんな素敵なものを作れる人間が、この世界にいることに感心してしまう。
 そうして普段から高価なものに執着しないフレイヤがあまりにも熱心に見つめることに、二歳下の妹エヴァが興味を持ったのがはじまりだった。

「お姉さま。そのお人形、私に少し貸してください」

 純粋な瞳でお願いされたフレイヤは、幼いがゆえに少しだけ不服に思いながらも姉として妹に優しくしなければならないという固定観念から「いいわ」と"少しの間"貸すことにした。
 それがいけなかった。
 妹はすっかり人形に夢中になり返してくれる気配がなく、人形はエヴァの部屋からずっと出てこなかった。だからフレイヤはしびれを切らして妹に返してくれるよう伝えた。

「エヴァ、いい加減に返して。この人形は元々私がもらった――」
「お姉さまに高価なものなんて似合わない。いつものように地面に咲いているお花と遊んでいればいいわ」
「それは……けど、もらったのは私よ」
「いいじゃない別に。お姉さまは勉強も音楽も何でもできるんだから、少しくらい私に譲っても罰は当たらないはずよ」

 妹の口調は何がダメなのか本当に理解していないように聞こえた。たとえ妹でも両親からこの人形をもらったのはフレイヤだ。おまけに引き合いに出した勉強や音楽は人形の所有権と関係ない。どうしてわかってくれないんだろう。

「でも、その人形は私も気に入ってるから返してほしい。人形なら誕生日にお父様に頼めばいいでしょう? お願いエヴァ」と、エヴァの腕に抱かれている人形に手を伸ばしたフレイヤは、しかし彼女が身を引いたことで遠ざかり空を切る。
「私はこれがいいの! ぜったいに返さない!」
「……!」

 そう言って、エヴァは部屋の中に閉じこもってしまった。バタンと虚しく閉まった扉を見つめて呆然とする。たった一枚の扉なのにとても分厚い隔たりのように思えて、フレイヤは悔しさと悲しさで胸が苦しくなった。しかし泣くのは負けたようでもっと悔しくなると歯を食いしばって涙を堪え、気を紛らわせるために大急ぎで庭まで向かった。
 こんな思いをするくらいなら、誕生日もプレゼントもいらない。どこにいるかもわからないサボに無性に会いたくなって、フレイヤはこみ上げてくる悲しさを必死で振り払った。

 ▽

 同じ姉妹でもこれだけ差があると切ないな――
 自身の幼少期を思い出していたフレイヤは、ふと感傷的になっていた。保護施設の広間では、複数の子どもたちが輪を作って各々楽しそうに遊んでいる。喧嘩していた姉妹も仲良く読書をしているし、絵を描いている子、楽しそうに話し込んでいる子たち、中庭で元気よくボールを蹴って走り回っている子たちもいる。
 大人がひとりぽつんと取り残されたように佇んでいるフレイヤを気にする子はいない。みんな遊ぶことに夢中になっている。エヴァとのことを思い出して急に寂しさを覚えたフレイヤは、独りぼっちになったような錯覚に陥った。

「どうしたフレイヤ。ぼうっとしてたぞ」
「……さ、ぼ」

 突然声をかけられて、しかし反応に少し遅れる。いつ来たのだろうか。気づけば隣にサボが立っていて不思議そうにフレイヤを見ていた。途端、鼻の奥がつんとして泣きたくなった。タイミングが良すぎる。

「本当にどうした? 泣きそうな顔してる」

 サボの表情が曇る。心配そうな瞳がこちらをのぞくので、寂しさを隠すように首を横に振った。
 ――大丈夫だよ。だって、私にはもうサボがいる。ひとりじゃない。
 自分に強く言い聞かせる。

「何でもないの。ちょっと感傷的になっただけで……でもサボが来てくれて安心したみたい」
「よくわかんねェけど……おれにどうしてほしい?」
「……」

 首を傾げたサボがとてもやさしい顔をしてこっちを見ていた。この表情をフレイヤは知っている。自分にだけ見せてくれる、甘えていいんだぞってときの顔。胸がこんなにも苦しくなるのは、彼に対してだけだ。悲しくても胸は痛むけれど、どうしようもなく嬉しいときもこうして胸が悲鳴をあげる。
 どうしてほしいって――そんなの……。

「……できれば、手を繋いでほしい」
「はは、そんなことでいいのか。お安い御用ですお姫様」

 王子様なのか執事なのか。慇懃な態度と喋り方をしたサボの左手がフレイヤの右手を絡めとり、ぎゅっと握った。強く。そして目線の高さまで握られた手を掲げて「これで安心したか?」と彼が歯を見せて笑った。まるで「ここにいるよ。だから大丈夫」と言われているかのような仕草にフレイヤの胸がまた一段と大きな音を立てた。この人と家族になれる未来があることに、ひどく安心感を覚える。自然とフレイヤの表情も緩んでいくのがわかった。

「あーーー! フレイヤ姉ちゃんとサボ兄ちゃんがいちゃいちゃしてるー! ここはこどもしかいないから、そういうのはダメなんだぞっ」
「サボの奴〜〜くそっ、フレイヤにくっつくな!」

 はっとして声のするほうに顔を向けると、中庭で遊んでいた男の子たちが広間へ戻ってきたところだった。その中にはリュカもいて、いつものごとくサボに突っかかろうとしている。
 子どもたちに見つかっては仕方ない。手が離れてしまうことを残念に思っていると、「おれとフレイヤは恋人だ。手を繋いでなにが悪い」彼が開き直って(特にリュカに向かって)得意そうに言うので、フレイヤは思わず笑いながら、けれども心は代えがたい喜びで満ち溢れた。
 握られた手は、ここにいる間ずっと離れることはなかった。

2023/11/25
エヴァとの喧嘩を思い出して感傷的になるフレイヤ