宝物のノースポール

「フレイヤさん。先ほどの演奏とても素晴らしかったです」

 自身の演奏を終えたフレイヤが舞台袖にはけると、一人の男の子が立っていた。フレイヤよりも年齢が少し上に見える。てっきりカロリーナが待っているものだと思ったフレイヤは驚いて反応に遅れたが、目の前に差し出された花束を見て慌てて受け取った。

「ありがとうございます。とても綺麗です」

 笑顔で答えると、彼はほっとしたように微笑み返してくる。そしてすぐに「では僕はこれで」と会釈をして客席に続く通路へと消えてしまった。あっという間の出来事にフレイヤはぼうっとその方向を見ていた。
 舞台袖は基本的に関係者以外立ち入り禁止なので、演奏者ではない彼がこの場にいることを不思議に思ったが、あまり深く考えることなく楽器の片付けのために控室に戻ることにした。



 控室に戻るとカロリーナが拍手で出迎えてくれた。どうやらフレイヤを送り出したあとすぐこっちに戻ってきたようだ。控室には舞台を映すスクリーンが設置されているので、一応ここでも演奏を聴くことは可能だったりする。
 ケースにバイオリンを片付けながら、フレイヤはカロリーナの賛辞の言葉に耳を傾ける。

「フレイヤ様の演奏が一番でしたよ」
「……私よりも後に演奏する子が三人いるわ。その子たちの演奏も聴いてから言って」
「いいえ、私にはわかります。フレイヤ様の演奏がずば抜けてお上手です」

 どこからその自信が来るのか、カロリーナはふんと鼻を鳴らして得意そうに言った。前々から彼女は自分を贔屓目に見ている節があるが、特にほかの子と比べるときそれが顕著だ。嬉しいと思う一方で、そうだろうかと不安になることもある。
 フレイヤが三歳から習っているバイオリンは一年に一度、練習の成果を発揮する発表会が開かれる。高町に住む三歳から十二歳の子どもたちが町の中心部にある音楽ホールで演奏するのだ。フレイヤがこの演奏会に参加するのももう七年目になる。サボと会えなくなってからすべての習い事に身が入らなくなったが、バイオリンだけは気に入っていて好きな曲をこっそり弾くのが密かな楽しみだ。確かに得意ではあるものの、カロリーナがそこまで褒めてくれるほど上手いのかはわからない。
 彼女の言葉にたじろぎつつも、「……ありがとう」小さく答えてから止めていた手を動かす。

「その花束が証拠じゃないですか」

 カロリーナがテーブルの上に置かれた豪華な花束を指さした。バラを中心に様々なピンクの花で構成されている花束はグラデーションがとても綺麗だった。華やかで、けれどうるさすぎない。きっと素敵な花屋さんが作ってくれたものだろう。

「う、ん……」
「自信持ってください。フレイヤ様のバイオリンは聴いていてとても心地良いです」
「でも……お母様たちは来てくれなかった」
「それは――」

 フレイヤのこぼした不満にカロリーナが言葉を詰まらせた。
 今日の発表会は、実は別の催しと重なっていて、両親はそっちに参加していた。妹のエヴァが参加する社交ダンスの発表会である。初めてダンスをお披露目する妹と七年目のフレイヤでは、比べるまでもなく当然初めてのほうが優先されるのは理解しているが、せめて父と母どちらかは自分の演奏を聴きに来てくれるものだと思っていた。自分がエヴァより愛されていない事実は、貴族という括りを除いたとしてもフレイヤを傷つけるには十分で、胸が痛んだ。
 その分カロリーナがこうして褒めてくれるのでまったく虚しいわけではない。彼女には本当に感謝していた。

「ごめんなさい。カロリーナを責めてるわけじゃないの。ただやっぱり私には興味がないんだなって思って」
「そのようなことは……」ない、と言い切れないカロリーナは正直だ。両親は、貴族として正しい振る舞いができない落ちこぼれのフレイヤを快く思っていないし、年々興味を失っていることは事実だから。
 それでも自分が間違っているとは思わないし、サボの言う"自由な海"へ旅立つことを夢見ているフレイヤは自分の意思を貫くことを選んでいる。

「やめた! こんな話をしてもつまらないもの。帰ったら甘いものを作って食べることにする」
「フレイヤ様……」
「客席に戻って、残りの演奏を聴きましょう」

 何か言いたそうなカロリーナの手を引き、バイオリンケースと花束を持って控室を出た。
 発表会のあとには表彰式があるので自分の演奏が終わっても残らなければならない。表彰といっても順位がつけられるわけではなく、全員が「頑張りました」という証をもらうだけなのだが。
 フレイヤの頭は演奏会や両親のことではなく、すでに帰ったあとのスイーツのことでいっぱいだった。


*


 ホールを出る頃には、空がブルーと沈みかけている太陽のオレンジが混ざった色合いになっていた。来たときには脱いでいたコートも今はドレスの上から羽織らないと肌寒い。
 エヴァのダンスお披露目会も終わっただろうか。
 きっと夕食も妹の話で盛り上がるのだろうと思いながら、憂鬱な気持ちで外の階段を下りているときだった。

「フレイヤさん!」

 後ろから呼び止められて、フレイヤはその声にゆっくり振り返った。そこにいたのは年齢がバラバラの男の子が三人。知っている子もいれば、知らない子もいた。どうしたのだろうと首を傾げていると、

「今日の演奏とてもよかったよ。それで……これを君に」

 一人の男の子が持っていたのは季節の花を使用した花束だった。それも、もらうのを躊躇ってしまうほど豪華でフレイヤは目をぱちくりとさせながら硬直する。舞台袖でもらったというのに、まだもらえるなんて思っていなくて反応に遅れるが、カロリーナに小声で「フレイヤ様」と呼ばれてはっと我に返った。

「あ、えっと……ありがとう、ございます」
「ぼ、僕もフレイヤさんにこれを」と今度は籠に入った可愛らしいアレンジメントフラワーが差し出される。初めて見る子だった。それを受け取ったあと、最後に背の高い――三人の中では一番年上の落ち着いた色合いの子ども用スーツを身にまとった男の子が「私はこちらを」と大きな花束を渡された。
 フレイヤは躊躇った。彼は確かタドリー家の婚約者で、相手が同じ演奏会に出ていたはずだがその子の姿が見当たらない。彼女を差し置いてフレイヤが花束をもらってしまうことになるのではないかと不安になる。こういう事態が実は前にもあって、それを運悪く見つかってはいけない人に見つかり、心身ともに疲弊した苦い思い出となっていた。

「ごきげんようフレイヤさん。随分と人気者のようだけど、その御方はアメリアさんの婚約者じゃなくって? まさか彼女に断りもなく花束を受け取る気じゃないでしょうね。それってとても非常識だと思いますけど」

 階段の上から聞きなれた、しかしフレイヤの苦手とする高い声が聞こえて肩をすくめた。発表会に参加していることは知っていたが、今日一日会話することなく済むと思っていたのにタイミング悪くここで鉢合わせるなんて運が悪いと胸中で嘆く。
 少しずれて声の主を確認すると、予想通りシルヴィアだった(いつもの取り巻き女子二人も一緒だ)。淡いピンク色のドレスに身を包み、うんざりした表情でフレイヤを見下ろしている。彼女こそ、最も見つかってはいけない人物であり、フレイヤが恐れていた事態だった。

「……まだ、受け取っていないわ」
「けど、優しいフレイヤさんは花束を受け取らないわけないわよね?」
「……」

 じゃあどうしろというのだろう。受け取ったら非常識で、受け取らなくても失礼に値する。シルヴィアはとにかくフレイヤを目の敵にしたいようだ。どちらの対応をとっても彼女には自分を罵倒する理由があって、それがとても悔しい。
 困り果てたフレイヤに助け舟を出したのは、アメリアの婚約者である本人だった。

「アメリアにはすでに渡しているよ。ただ、フレイヤさんの演奏には毎回心を打たれるんだ。これはその御礼みたいなものさ」

 だから受け取ってくれるかい? と屈んで渡されてしまえば、フレイヤは手に取るしかなかった。ぎこちなく自分の顔を隠すほどの大きな花束を受け取ると、彼はにこりと微笑んで「またねフレイヤさん」親愛の証である額に軽くキスをした。
 そうして三人はシルヴィアたちにも軽く挨拶をしたあと、そのまま階段を下りて去っていく。取り残されたフレイヤは気まずさを抱えながらカロリーナにそっと近寄って「帰ろう」と小声で伝えた。

「たくさんの殿方から花束をもらった気分はどう? 例の方と破談になったまま誰とも婚約していないみたいだけど、まさか横取りする気でいるなんてことはないでしょうね」

 それから舞台袖への道を聞かれましたけど、まさかあなたに花束を渡すためだったなんて教えて損したわ。
 とか何とか、シルヴィアがわざとらしく大声で引き止めてきたので、フレイヤはゆっくり振り返って階段の上った先にいる彼女を億劫そうに見上げた。どうやら最初に花束をくれた彼は、彼女に聞いて舞台袖まで来たようだ。
 無視してもよかったが、横取りする気でいると言われて黙っているわけにはいかない。

「ご厚意でいただいた花束は受け取りますが、私は誰とも結婚する予定はありません。言ったでしょう? 私が好いている殿方はアウトルック家の長男ただ一人です」

 冷たく言い放ったフレイヤは、もうシルヴィアたちを顧みることなくホールを後にした。立ち止まっていたせいで体がだいぶ冷えてしまい、身震いしながら泣かないよう必死に堪えた。


*


 フレイヤの机の引き出しには、大事にしまってある押し花の栞がある。中心が黄色の白い花はノースポールといって見た目はマーガレットにそっくりだが、マーガレットよりも小さくてかわいらしい花だ。エメットに保存しておく方法を尋ねたら「押し花」という美しさを閉じ込める加工の仕方があると聞いたので、調べて自分で作ったのがこの栞だ。作成してからもう五年も経つが、いまだに色あせず綺麗な姿をとどめている。
 この栞を大事にしている理由はただ一つ。サボから初めてもらった花だということ。フレイヤにとってどれだけ豪華な花束よりも、この小さな一輪のノースポールは大切だった。久しくもらうことのなかった花束が、自身の記憶を引き出して感傷的にさせる。着替えることも忘れて、フレイヤは机に向かって栞を眺めていた。

「サボ……」

 名前を紡いだだけで、一瞬にして心が悲鳴を上げた。会いたくてたまらない男の子。フレイヤが将来を誓った相手。どこにいるんだろう、やっぱり一人で海に出てしまったんだろうか。何度も考えた途方もないことを、フレイヤは再び考えはじめようとしていた。
 シルヴィアたちの前で男の子から花をもらうと、必ず蔑まれた視線を投げられる。正直受け取りたくないと思うけれど花に罪はない。そして送ってきた相手にも罪はない。だからその場は仕方なく受け取る。彼女たちに罵声を浴びせられても我慢する。それでもやっぱり悔しくて、辛いものはつらい。そんなとき、いつも思い出すのはサボからノースポールをもらった日のことだ。



 あれは稽古事がおわって、夕食まで出窓で読書をしていたときのこと。窓にコツンと何かが当たる音がしたのでフレイヤが視線を本から窓に向けると、今度は小石がぶつかる瞬間が目に飛び込んでくる。
 躊躇いつつ気になって窓を開けたフレイヤは身を乗り出して下を確認した。

「フレイヤ!」
「えっ、サボ!? どうやってここに――」
「忍び込んだ。ちょっと出てこれるか?」
「……待ってて、いま行く」

 フレイヤは慌てて部屋を飛び出す。平然と忍び込んだと言っていたが、それはそれで門番がいたはずなのにどういうことだろうと不思議に思う。毎回やることが飛びぬけているサボは、そのうち二階まで壁を伝って来てしまいそうだ。
 両親はエヴァと外出中なので家にいるのはメイドたちだ。おまけにカロリーナ以外はフレイヤのことを放置しているので、彼女にさえ見つからなければ裏口のほうから庭に出ることも可能である。周囲を確認してから、フレイヤはこっそりサボが待つ家の西側へ向かった。
 それにしてもこんな夕方に一体何の用事だろう。普段は示し合わせて会うのが決まりで、こんなふうに突発的に会いに来たことは一度もなかった。それほど急を要するなんて胸がざわつく。
 裏口から角を一つ曲がるとサボが木の裏に隠れるようにして立っていた。

「サボ!」

 フレイヤは走ってサボに駆け寄った。気づいた彼がこっちに手を振ってくる。

「おう。こんな時間にごめん、どうしてもフレイヤに渡したいモンがあってさ」
「渡したいもの……?」

 家の窓の死角になる位置まで移動したフレイヤは、サボと向かい合って地面に座った。直接地面に座ることは、服が汚れるからしてはいけないとカロリーナに口酸っぱく言われているのだが、たびたび言いつけを破っているフレイヤは今回も怒られる覚悟でいる。

「これ」

 そう言って、サボが見せてくれたのは一本の小さな花だった。中心部が黄色くて、花びらは白。マーガレットに似ているけど、それにしては花が小さいので違う種類かもしれない。今のフレイヤが知る花の中に候補はなかった。

「かわいい花だね」
「だろ! 今日、両親の付き添いで少し離れた場所まで行ったんだけど、その近くに公園があって時間つぶしに散歩してたら見つけたんだ。それでフレイヤのことを思い出して……」サボが照れくさそうに頬をかく。

「マーガレットに似てるけど、たぶん違うお花だと思うから帰って調べてみる」
「何にも包んでやれなくてごめん。帰ってすぐ見せたくて」

 確かに頬を上気させているところを見ると、急いでここへ来てくれたようだった。サボがたまたま立ち寄った公園で、花が好きという話をした自分を思い出して摘んでくれた事実がフレイヤの心をじんわり温かくしていく。

「ううん、サボがくれた初めての花だもん。どんな花束よりも嬉しい。ありがとう!」
「……ッ、ち、近ェよ」

 サボの手を握って御礼を言ったら顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。たまに彼は恥ずかしがってぶっきらぼうな言い方をするが、こういう可愛い一面もあるのだと思うと胸が高鳴る。やっぱりサボといると楽しい。
 そのあと少しだけ話をしてから彼と別れた。
 もらった一輪の花は、大事に引き出しに入れて保管した翌日、庭師のエメットに聞いて押し花にすることを決めた。



 気づいたとき、夕食の時間まであと三十分という頃合いになっていた。思い出を振り返っているうちに随分時間が経ってしまったらしい。栞をそっと撫でたフレイヤは、つらくなるからとやめてしまったサボへの届かない手紙を久しぶりにしたためることにした。
 ペンと、使わなくなって引き出しの奥にしまっていた便箋を取り出す。

 サボへ
 今日はバイオリンの演奏会があって自分の思うように弾けたの。そうしたらカロリーナやほかの人がたくさん褒めてくれた。お父様とお母様は妹のほうに付き添って私には見向きもしなかったけど、それはいつものことだからあまり気にしないことにしてる。
 それで花束を男の子からもらったんだけど、運悪くシルヴィアに見つかっちゃって……相手が決まってる人もいたから「非常識だ」って言われてすごく嫌な思いをした。本当に私のことが嫌いみたい。  でも大丈夫。私にはどんな豪華な花束よりも価値のある一本を持ってるから。
 サボがくれたノースポールの花、今でも大事に持ってるよ。押し花っていう保存方法があってね、美しさを閉じ込めておけるんだって。すごいでしょ? もう五年も経つのにまだ色あせない。
 ねえサボ。どこにいるの? 元気かな。会いたい、すごく。
 さみし――


「あ……ッ」

 そこまで書いてからはっとしてペンを止めた。
 私、なんて書こうとした? さみしい? こんなことを書いてどうするのだろう。サボはもう五年も姿を見せていないというのに。きっともう海に出て自由に暮らしているんだ。だから私が追いかけなきゃいけない。
 フレイヤは慌てて便箋を丸めてゴミ箱に捨てた。そしてドレスのままであることに気づいて、急いで普段着に着替える。家がやけに静かなことが気になったが構うことなく手を動かして――視線の先に見えた机の上の栞をそっと引き出しの中にしまった。

2024/01/21
豪華な花束よりサボくんからもらった一輪が一生の宝物