迷い猫

「ねこ……?」

 フレイヤが本部の廊下を歩いていると、一匹の猫が闊歩していた。あまりにも堂々としているので誰かの飼い猫かと思ったが、そんな話は聞いたことがないのでたぶん違う。だとしたら迷い込んでしまったのだろうか。
 ひとまず誰かに見つかると大騒ぎになるかもしれないと考えたフレイヤは猫を保護しようと近づく。ちょうど通信部の仕事が一段落して、子どもたちのところに向かう途中だったので都合がいい。一緒に連れていって遊ばせよう。
 あと少しで猫に手が届くというとき、しかしこちらの気配を察知したのか猫がくるりと振り向いた。直後、「にゃー」とフレイヤの胸に飛び込んできたので「きゃっ……」軽く尻もちをついてしまった。ところが、猫は構うことなくすりすりとフレイヤの顔に自分の体をこすりつけてくるので驚きを隠せない。

「ふふ、くすぐったい。猫にしてはずいぶん人懐っこい子だね」
「ニャーニャー」
「今から保護施設の子どもたちのところに行くから、あなたも連れていってあげる。一緒に遊ぼうね」

 フレイヤは猫を抱きかかえると、立ち上がって本部に併設された馴染みのある隣の建物に向かった。



 *


 保護施設に顔を出したとき、当然のことながら子どもたちの視線はフレイヤの抱える「猫」に集まった。「どうしたの」「なんでねこが?」「どこから来たの」質問攻めにあいながら、フレイヤは事の経緯を説明し、偶然出会った知らない猫だけど人懐っこい子だから一緒に遊んであげてほしいと伝えた。
 子どもたちは動物に触れるのが初めてのようで手を出すのをためらっていたが、フレイヤの膝の上で大人しく丸くなっている姿に「かわいい〜」と一人の女の子が背中を撫でると、おっかなびっくりほかの子たちも次々に撫でていった。
 今日は差し入れのおやつを作る時間がなかったので、偶然にも子どもたちが夢中になれるものが見つかってちょうどよかった。この猫がどこから来たのかフレイヤにもわからないが、どういうわけか自分によく懐いてくれるので悪い気はせず、むしろ飼いたいとさえ思わされる。

「ねこさんどこからきたの〜?」

 四歳の女の子が猫に聞く。声に反応した猫が一瞬だけ女の子のほうを見てから、つんとそっぽを向いてしまう。まるで「さあね」と言っているようだ。女の子は特別気にしたふうもなく、ニコニコと珍しい生き物の存在に目を輝かせている。
 種類はわからなかったが、光にあたると金色に輝く毛並みでなんだか由緒正しい猫のように思える。一方でどこか野性味を感じさせる雰囲気があるのは気のせいだろうか。

フレイヤ! 来てたんなら声かけてくれたらよかったのに」

 そこへバタバタと庭先から室内にあがってきた集団の一人、リュカが声をかけてきた。施設の中で最年長の子どもで最近十三歳になったばかりの男の子だ。

「ごめんね。今日はこの子がずっといるから動けなくて……」
「この子? うわあ、なんだこいつッ……!」
「猫だよ、可愛いでしょう? 来る前の廊下でたまたま見つけたの」
「へェ……」

 リュカがじろじろと興味深そうに猫を観察する。しかし、「ふうん」という曖昧な感想を呟いたと思ったら急に黙って猫を睨みつけているのでフレイヤは心配になった。もしかして動物が嫌いなのだろうか。
 たいていの子は物珍しそうに興味を示すが、苦手な子がいることも知っている。ここに来る前に、動物と嫌な思い出を持つ子どもがいることもあるからだ。しかし施設長からリュカにそういう面があるとは聞いていない。一体どうして――

「こいつ、フレイヤの膝にずっと乗っかって図々しいな。お前オスだろ」

 ぐいっとリュカが猫に顔を近づけた。不満そうにしながら「ズルいぞ」と呟いている。本気で猫に文句を言っているので、思わずクスッと笑ってしまった。
 自分で言うのも恥ずかしいけど、彼はどうやら私に好意を抱いてくれているらしい。
 以前プロポーズのような発言だったりとかデートに誘われたりとか、そういう話があってのことだったが、まさか猫にまでヤキモチをやくなんてかわいいところがあるものだ。まるでサボを見ているようだった。

「リュカくん気にしすぎだよ。猫なんだからそんなふうに――」
「いーや、こいつ絶対フレイヤのことが好きで陣取ってるんだ。おい、そこどけよエロ猫」

 野蛮な口調で話しかけた次の瞬間、大人しくしていた猫が突然フレイヤの膝から起き上がりリュカに向かって文字通りパンチを数発食らわせた。

「うわっ……ッ、な、なにすんだッ!」
「こら猫ちゃん、引っ掻いちゃダメだよ」フレイヤは威嚇する猫を宥めるために抱き上げて叱った。すかさず猫はしゅんとして大人しくなる。いきなりリュカが近づいてきたことで警戒したのかもしれない。
「痛ってェ……」
「大丈夫? 血は出てないみたいだけど消毒しておこうね。念のために後で医務室にも」
「くっそお……なんかこの猫サボみたいだ」
「え?」

 鼻先を押さえながら、若干涙目になっているリュカが憎らしげに猫を見やる。サボみたいだという発言に思わず反応してしまい聞き返す。確かに毛並みは光ると金色だけれど、似ているところなんてあるだろうか。不思議に思っているフレイヤに、しかしリュカは「だってそうだろ?」と面白くなさそうに教えてくれる。

フレイヤのそばからずっと離れないでおれに攻撃的な奴はサボくらいじゃんか。それにこいつの左目のところ、よく見たら傷っぽくなってるし」

 言われて猫の顔をよく見つめてみると、確かに左目にはサボが持つ傷と少し似たような傷跡があった。だいぶ古いので問題ないのだろうが、訳アリの猫かもしれない。
 リュカの引っ掻かれた場所の消毒を終えて救急セットをしまうと、彼はむすっとして猫を一瞥してから「今日は仕方ないからそいつに譲るけど、次は遊んでくれよな」と言ってフレイヤから離れていった。ぽかんとして彼の後ろ姿を見つめて、またクスッと笑みをこぼす。
 こうして、しばらく猫の背中を撫でていた。ほかの子たちも飽きたのか、もう猫のことなど忘れて自由に好きなことをして遊んでいる。フレイヤもそろそろ戻って中庭の手入れをしなければならない。そうなると、猫はやっぱり本部の外へかえしてあげたほうがいいだろう。飼いたい気持ちはあっても、世話になっている身で勝手なことはできない。

「ニャーニャー」
「どうしたの? あっ……」

 腕の中の猫が突然鳴き出したと思ったら、するりと飛び降りて逃げてしまった。「待っ……」慌てて追いかけ、施設の出入口に向かい本部へ続く廊下に出る。そしてきょろきょろと見渡した先に、角を曲がっていく猫の後ろ姿が見えたので小走りで後を追った。さっきまで大人しく撫でられていたのに、何かに突き動かされるように走り出すものだから気になってしまう。
 フレイヤがようやく角にたどり着いたとき、

「わっ――」
「おっと危ねェ、大丈夫か?」
「すみませ、……え、あ、サボ?」

 誰かにぶつかってよろめき、後ろに倒れそうになったところで腕を引っ張られて踏みとどまる。ぶつかった相手をよくよく見たら、サボが普段通りの格好で立っているので目を見開いた。

「どうしたんだよ、そんな慌てて」
「あのね、今ここを猫が走っていかなかった?」
「猫?」
「うん。このくらいの小さい猫で、明るい毛色なんだけど」
「……いや、見てねェな。ここにはおれしかいなかったよ」

 サボの間が気になったが、実際猫の姿がどこにもないので本当に消えてしまったようだ。確かにこの角を曲がったはずなのに、一体どういうことだろう。不思議な現象に頭を悩ませていると、頭上でクスクス笑い声が聞こえてフレイヤはおもむろに顔を上げた。サボの顔が面白おかしそうにこっちを見下ろしているので、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。別に笑われるようなことをしていないはずなのに居たたまれない。

「そ、そんなに笑うこと……?」
「悪い、変な意味じゃねェよ。真剣に悩んでて可愛いなと思ってさ」
「だって、本当にこの角を曲がったはずなんだもん。どこに行っちゃったのかなあ」
「大丈夫だろ。猫は自由気ままな生き物だし上手くやってるって」

 やけに機嫌が良いサボがそう結論付けるので、渋々フレイヤも納得するほかなかった。もしかしたら非常にすばしっこい猫でサボが通りかかるより早く別の方へ逃げてしまったのかもしれない。会えないのは少し寂しかったが、気まぐれな猫のことだから何かの偶然でひょっこり顔を出す可能性もある。
 施設へ向かっていたはずのサボが、フレイヤに合わせて再び本部のほうへ踵を返すので「あれ?」と不思議に思う。そういえばなんで彼はここに用事があったんだろう。フレイヤを探しているというわけでもなさそうなのに――

その猫もお前に可愛がってもらって喜んでるよ

 見てもいないのに自信満々に答えるサボを、フレイヤはやっぱり不思議に思って首を傾げた。しかし、彼が中庭に行くならおれも手伝うと言って歩き始めてしまったので、猫のことは頭の中から抜け落ちていった。

 猫を探していると言っただけで、可愛がったかどうかの話は一切していないということに気づいたのはその日の夜のこと。

2024/02/26
猫の日2024 猫になったサボくん