寂しい渦

 貴族界における社交ダンスの得手不得手は一種のステータスのようなもので、特に女性は才色兼備であることを象徴する一つとして重要視される。当然のことながら、フレイヤも幼い頃から現在に至るまでレッスンを受けており、毎日厳しい練習を続けていた。
 社交界デビューは通常十六歳と言われているが、子ども用に設けられた発表会があり、フレイヤも妹のエヴァも毎年参加している。
 その発表会の順位がたった今主催者の口から伝えられ、フレイヤは眉をひそめた。二十人近くの六歳から十五歳までの令嬢が参加した今回の社交ダンス発表会は、優勝をフレイヤ・カートレットに授与して幕を閉じるらしい。確かに出来る限りのことはしたが、自分よりも背が高くて優雅なダンスを披露した令嬢がいたように思えて居たたまれない。優勝のクリスタルトロフィーと花束を受け取るときも、ほかの子たちの視線が痛くて早く会場を後にしたかった。
 結果発表後、すぐにドレスから普段着へ着替えたフレイヤが両親とともにエヴァを待っているとき、ところが複数人の知らない中年女性に囲まれて「おめでとうございます」「さすがねえ」といった賛辞の言葉を投げかけられた。
 髪をくるくるに巻いて、光を反射するスパンコールが散りばめられた目が眩むほどのドレス。発表会の観客だったのだろうけど、発表者よりも目立つかもしれないそれはフレイヤを幻滅させるのには十分だった。

「さすがはカートレット家のご令嬢。しなやかなダンスでしたよ」
「さぞ厳しい練習をこなされてきたのでしょう。その歳で素晴らしいです」

 口々に褒めては、両親の後ろに隠れている十歳になったばかりのフレイヤに視線を落とす。喜ぶべきことなのに、素直に「ありがとう」と言えないのはなぜだろう。居心地が悪くて彼女たちと目を合わせることができない。何も言わない自分に代わって父と母がぺこぺこと頭を下げて御礼を述べているのを、まるで他人事のように見ていた。

「ごめんなさい。妹を探してきます」

 空気の悪い場所から一刻も早く抜け出したかったフレイヤは、一言断ってから女性たちから逃げるように立ち去った。母が「待ちなさいフレイヤッ」と大声で叫んでいるのを耳にしたが、聞こえないふりをしてそのまま走った。



 会場の前には小さな噴水を囲うように水路が引かれていて、いくつかのベンチが設置されている。発表会を終えた出演者たちが写真を撮ったり、懇意にしている家同士で談笑していたり様々だった。エヴァは少し用事があると言って十分前にフレイヤたちから離れたのだが、一体何の用事なのだろう。きょろきょろと辺りを見回しているときだった。

「貴女がフレイヤさん?」

 名前を呼ばれた直後、右手を少し引かれた。驚いて声のするほうに顔を向けると、見知らぬ男の人が立っていて戸惑う。彼はフレイヤの顔を見るなり、ぱっと表情を明るくさせた。
 歳はフレイヤよりも五、六歳ほど上で、見事な黒のスリーピースに髪をピタッと撫でつけた紳士然とした人。同年代の男性と比較すると少し軟弱に見えた。こちらの名前を知っているということは発表会の観客だと思うが、頭の中で素早く知り合いリストと照合しても合致する人がいなかった。自分が忘れているだけかもしれない。

「申し訳ございません。どこかでお会いしたことがありますでしょうか」
「まさか。初めましてだけど、僕は貴女のことを以前から知っていました。今日のダンス、とても素敵でしたね」
「とんでもないです。私なんてまだまだこれからですよ」

 謙遜でも何でもない事実だった。実際、社交ダンスの先生から何度も「足の位置が違う」「ターンのタイミングが遅い」といった注意を受けていた。今日の出来は、だから及第点といったところだ。しかし、彼はそんなフレイヤを「素晴らしい」と言って褒めたたえる。先ほどの女性客と同じように。
 発表会の演目の良かったところを語ってくれた彼は、名前をエドワード・ハイド(愛称はエド)といった。歳は十五歳。ハイド家といえば、ゴア王国の貴族の中でも名家にあたるし、茶会でも何度か一緒になったことがあるはずなのにフレイヤの記憶の中に彼の顔はなかった。家にも招待されたことがあるし、そのときは子息が二人、令嬢が一人だった。三人目の男の子がいた覚えはなかったので正直にそのことを打ち明けると、彼はクスクス笑って口元を押さえた。

「なくて当然です。僕は昔から病弱で外に出られないことが多く、茶会といった様々な行事はほぼ欠席でしたから。けど、貴女が来ていたことは知っていたよ」

 豪華な食事には目もくれず、庭の花ばかり見ている変な子がいるなって。
 そのときのことを思い出したのか、エドがまた笑う。同時にフレイヤの記憶にもハイド家に招かれたときのことが脳内で再生された。
 大広間でアフタヌーンパーティーが開かれており、大多数の貴族が談笑しながら食事や飲み物に手をつけている一方で、フレイヤはバルコニーから見渡せる庭園がカートレット家のそれよりも広いことに気づいて目を輝かせていた。招かれた身で行儀が悪いと思いつつ、好奇心を抑えられなかったフレイヤはこっそり抜け出して庭へ足を運んだ。誰もいないのをいいことに、奥まった場所まで行って見たことのない植物を観察していたのだ。
 どうやら彼は、そのときのフレイヤを自身の部屋から見ていたらしい。ドレスが汚れないか心配になったというから恥ずかしいところを見られたことになる。

「……それは、お見苦しいところを見せてしまい申し訳ございません」
「謝らないで。こんな体だから自由に外を歩き回ることができない僕にとって、貴女はとても眩しく映ったんだ。およそ淑女らしくない姿に度肝を抜かれたよ」

 褒め言葉として受け取っていいのかわからない発言に、フレイヤは苦笑する。しかし、エドの口調から察するに肯定的と捉えていいのだろう。たいていの人は、ああした振る舞いをするフレイヤに対して侮蔑の目を向けてくる。貴族の令嬢ともあろう人間がドレスを着たまま駆けまわったり、地面に座り込んだり、道端の植物に触ったり――周囲の人々からすると行儀が悪く映るのは当たり前だった。

「ぜひ、貴女のデビュタントにはエスコートさせてほしい」

 そう続けたエドが後ろから用意していたらしい花束を差し出した。ふわっと香る花々の匂いにフレイヤの心は途端に晴れやかになる。おまけにまだ六年も先であるデビュタントのエスコートまで申し込まれた。
 貴族の女性は十六歳になると同時に、正式に社交界へデビューする。そしてそれを祝うためのパーティーを開くのが通例であり、当然のことながらこのままカートレット家にいればフレイヤもあと六年後には同じ道をたどることになる。しかし、フレイヤにそんなつもりは一切なかった。

「ありがとうございます。ですが――」
「お姉様!」

 花束には礼を、エスコートの件には断りを。そのつもりでフレイヤが話していたとき、聞き覚えのある可愛らしい声が響いて口をつぐんだ。エヴァが小走りでこちらに向かってくるのが見えて、フレイヤもエドも彼女に視線が向く。今日は一段と煌びやかなゴールドのドレスと、それに見合うアクセサリーを身に着けている彼女はフレイヤよりも華やかで綺麗だった。

「エヴァ。どこにいたの? 探していたのに」

 デビュタントの話が中断されて内心ほっとしながら、フレイヤはエヴァのほうに体を向けた。背の高さがさほど変わらないので目線はほぼ同じ位置にくる。彼女と目が合ったとき、どこか悔しそうな表情でフレイヤを見ているのがわかって「エヴァ……?」妹にもう一度声をかけた。

「先にお父様とお母様のところへ戻ってるわ。お姉様はまだお話の途中でしょう? 失礼します」

 最後の言葉はエドへの挨拶だろう、会釈してエヴァは先に行ってしまった。呼び止めてもフレイヤの声には反応がなく、気づけばもう噴水の向こう側へ消えていた。
 唖然とするフレイヤにエドは話を続けた。病気がちな彼が今日ここへ来た理由が、フレイヤのダンスを一目見るためだというから驚きを隠せない。わかりやすいアプローチにどう返せばいいのか戸惑い、笑って誤魔化した。
 ちらりと周りに目を向けると、写真を撮り合う発表者たちやその家族、知り合いが大勢いる。彼の妹も出場していたので、どこかに家族がいるはずだが見える範囲にはいなかった。

「その中に手紙も入れてあるから読んでほしい。これでも僕はハイド家の長男だからね、縁談はたくさんあったけどなかなか思うようにいかなくて……でもようやく見つけたよ」

 じゃあまた、フレイヤさん。
 意味深な台詞とともにエドが優雅に手を振ってフレイヤの前から去っていく。色白で線が細く、今にも折れてしまいそうな体格、控え目で礼儀正しい。フレイヤの好いている人とは似ても似つかないのに、貴族らしくない自分を否定しない部分が、もしかしたら”彼”と似通っているのかもしれない。





 その日の夜、フレイヤの部屋にエヴァが突然やってきていきなり怒鳴り散らしたので、とっさに後ずさったら足がもつれて床に尻もちをついた。そんな自分を顧みることなく、彼女がものすごい形相で見下ろしてきた。怒らせた覚えがなくて困惑する。

「いきなり入ってくるなんて不躾よ」

 淑女らしからぬフレイヤに作法で注意されるのは屈辱的かもしれないが、少なくとも外向きには貴族として生活しているのである程度のマナーは心得ていた。身内であろうともノックもせずに入室するのは失礼に値する。
 ところが、エヴァはフレイヤの注意を無視して「どうしてお姉様なの!」と癇癪を起こした。目尻には涙も浮かんでいる。
 詳しく聞けば、どうやらハイド家の長男であるエドを以前見かけて一目惚れしたそうで、今日の発表会に来ることも彼の妹を通して知っていたらしく、あのとき探していたのだという。悔しそうな顔をしていたのにはそういう理由があったのだ。知らなかったとはいえ妹には悪いことをした。もちろん、フレイヤには不可抗力なのでどうにもできないのだけれど。

「お姉様なんて貴族としては二流なのに、なんで……ッ」と、エヴァの視線が部屋の奥――出窓に向けられる。そこにあるのは先ほどエドからもらった花束と優勝時に受け取った花束。彼女の視線がそこに向けられたまま、動かない。まさかと思ったときにはすでに彼女が出窓に向かって一直線に走っていった。
「やめてっ……花に罪はない!」
「うるさいッ……」
「――ッ」

 エヴァがエドからの花束をぐしゃぐしゃに千切って床に投げ捨てた。パステルカラーで彩られた可愛らしい花束が無残な姿で散らばっていく。
 こうなってしまったら、彼女の行動を止めることはできなかった。あるときから姉に対して気に食わないことがあるとこうして癇癪を起こす。気の済むまで止まらない。悲しくて、悔しくて、けれどどうにもできない。カロリーナが仲裁に入ったこともあったが、効果はあまりなかった。
 フレイヤは悲痛な思いでエヴァの愚行を見つめていた。いつだったか、二人で手を繋いで公園を歩いていた頃が懐かしい。もう二度とあの日々には戻れないのだと思うと胸が苦しくなる。一心不乱に花をかきむしる暗くて冷たい瞳が、フレイヤにはただただ怖くてたまらなかった。

2024/03/02
社交ダンスの発表会