ハジメテの感情

 好きな人と奇跡的な再会をした。
 もう二度と会えないと思っていた人だったのに、実は生きていて革命軍に身を置いていたのだ。偶然にもフレイヤがゴア王国に連れ戻されそうになったとき、助けてくれた革命軍の総司令官であるドラゴンの助言で本部に来ることになり、そこでずっと想い続けてきたサボに会った。正式に彼の恋人となったフレイヤは、しばらく世話になるという理由から雑務を手伝うことになり、手が必要なところへあちこち顔を出している。
 すでに「参謀総長(サボの肩書きらしい)の恋人」としてほとんどの人がフレイヤを知っており、好奇な目で見られたり、話しかけられたりと行く先々で同じ回答をしていた。とはいえ、革命軍も今や大きな組織となり、構成員は兵士から雑務をする人まで数が多いので、当然来たばかりの自分は一人ひとりの顔や名前をまだ覚えていない。やり取りする機会が多いコアラやハックと違って、大勢の中の一人として会話しただけではわからないのだ。
 男女の比率はわからないが、女兵士もたくさんいるのだろう。だから知らない女性がいてもおかしくない。フレイヤが前線にいる人たちとかかわることは少ないし、会ったとしてもサボの直属の部下である数人の男性だけ。この歳で立場がドラゴンの一つ下だというサボには、だから部下がもっとたくさんいても不思議ではない、その中に女性がいることも。
 ――楽しそうだな。
 そのとき、フレイヤの心には何か黒い塊みたいなものが突如出現した。それは重くてその場に居座り、なかなか動かない。どんよりとした重苦しい気持ちがフレイヤを襲う。
 サボに用事があるわけではなかった。たまたま廊下を歩いていたら彼を見つけたので声をかけようとしたのだが、すぐそばに知らない女性がいて楽しそうに会話をしていたのだ。フレイヤの位置からだとすぐには気づけず、近づいたところでようやく先客がいることを知って気持ちが萎む。
 それは、寂しさでもあり、苛立ちでもあり、焦燥感でもあり、言葉として適切なものが今のフレイヤにはわからず、戸惑いながらもこの場に居たくないという気持ちだけが先行して踵を返した。
 しかし、引き返してから気づく。図書館に行くにはさっきの場所を通って一度外に出なければならないということに。
 ――私、何してるんだろう。別にそのまま素通りしてもよかったのに。なんとなく気づかれたくなくて、サボを避けるみたいになっちゃったな。
 自己嫌悪に陥り、ひとまず中庭で時間を潰すことにしたフレイヤがベンチに腰かけたときだった。

フレイヤ!」

 大声で自分の名前を叫ぶので振り返らないわけにもいかず、フレイヤは「サボ……」と弱々しい声で応えて手を振った。上手く笑えているだろうか。心はひどく重たくて、モヤモヤどんよりしたまま彼と向かい合う。

「さっき近くまで来ただろ? 急に行っちまうから追いかけてきた」

 そう言うサボの呼吸が確かに少し乱れているので走って来てくれたのだとわかる。たったそれだけのことで喜んでいる自分がいる。おまけにさっきまで話し込んでいた女性よりも自分を優先してくれたことに嬉しくなっている。
 なんだか私ってすごく嫌な性格。こんな気持ち、サボに知られたくない。


*


 どこで出会ったんですかとか、どういうところが好きなんですかとか。
 真面目に聞かれるのは初めてで少し面食らった。ほかの奴らは冷やかしが含まれていて、喋ったはいいが随時含み笑いされるのが鬱陶しい。これまで女関係で何もなかった自分がいきなり好いている女性がいるとわかり、しかもここへやってくるとなれば興味が湧いて当然だと思うが、それにしてもという思いがサボにはあった。
 だからこうして真っすぐ真剣に聞かれると逆に新鮮で、どうでもいいことまで打ち明けてしまう。
 例えば、ほぼ一目惚れに近いくらい容姿に惹かれたけど、中身ももちろんすぐ好きになったこととか。花や植物のことはすげェ詳しいのに絵が独創的なこととか(話し相手にはそれ褒めてないですって指摘された)。良い意味で貴族っぽくないけど、一つ一つの所作が美しいこととか。
 挙げ出したらきりがなく、「本当に好きなんですね」と話を区切られるまでずっと喋っていたらしい。気づかなった。再会してからまだそこまで月日が経っていないせいか、フレイヤが傍に居ることに浮かれている自覚はあった。つい頬が緩んでしまい、彼女のことを考えると代えがたい喜びで満たされる。
 廊下ですれ違った別部隊の女にフレイヤのことを聞かれて柄にもなく話し込んでいたら、視界の端で小さな背中が去っていく姿を捉えた。一瞬だがサボの目には誰だったか判断できた。用があって来たのかもしれないと思い、会話を中断してその背中が消えていったほうへ走った。



 探していた人物はすぐに見つかった。中庭の管理を任せてもらったと楽しそうに手入れをする姿はやはり貴族らしくないのだが、元からそういう人間だったと幼少期を思い出してサボは自然と笑顔になってしまったのはもう一週間も前の話だ。
 しかし今はどこか元気がなさそうに見える。今日は朝から忙しくしていたので会うのはこの時間が初めてになるし、何かあったのかもしれない。

フレイヤ!」

 ベンチに座ろうとしていたフレイヤを大声で呼んだ。気づいた彼女が振り返って力なく笑った。見間違いではない、やっぱり元気がないみたいだ。まったく心当たりがなくて急いで彼女の元に向かう。声をかけてもなんだか覇気がなく心配は募るばかりだった。

「どうした」

 俯いているフレイヤの顔を覗きこむように聞く。一瞬口を開きかけたが、すぐに閉じられ「何でもない」と首を横に振った。

「……」その顔で何でもないわけねェだろ。
 とサボは思わず眉をひそめた。とはいえ無理やり聞き出しては意味がない。こちらに気を遣って言いたいことをため込んでいるのだとしたら、フレイヤが話しやすい環境を整えてやるのがいい。「言いにくいことなのか?」なるべく優しい声音で問いかけ、彼女の様子を見守る。ゆっくりベンチに腰かけた彼女が膝の上で両の拳を強く握った。
 こんなふうに言葉を躊躇うのは彼女の場合、大体恥ずかしさを隠すためだが、この様子からするとそういうわけではないだろう。どちらかと言えば戸惑いや困惑という表現が相応しい。
 フレイヤの隣にゆっくり腰を下ろしたサボは、彼女の言葉をじっと待った。やがて「幻滅しないでほしいんだけど」と変な前置きをした彼女の発言は突拍子もないことだった。

「……私、すごく性格悪いみたいなの」
「は?」

 覚悟を決めたように真剣な目をするから余程のことかと思えば性格が悪いって――お前が? 冗談だろ。
 サボは鼻で笑って否定した。フレイヤが性格悪いに部類されるなら、世界のほとんどの人間が「悪い」になる。少なくとも幼少期に出会った同世代の中で彼女が一番普通でまともだった。感覚も価値観も自分に近くて気が合うし、自分の夢を笑わないで聞いてくれる優しい子。あのときのサボには、彼女がとても眩しくて孤独だった自分の光だった。
 いまいち話の流れが掴めないので、もう少し詳しく話してほしいと頼む。

「さっきね、サボがほかの女の子と楽しそうに話してるのを見て寂しくなったの。でも寂しさだけじゃなくて、心がなんだかモヤモヤしたりして……苛立ちにも似てたかも」

 それなのに、サボがすぐに追いかけてきてくれたことに嬉しくなって、さっきの子じゃなくて私を優先してくれたってことに喜んでる自分が嫌で……。
 そう続けたフレイヤの目が伏せられる。悪いことをした子どもみたいにしょんぼりした顔で「こんな気持ち、サボに知られたくなかった」とこぼした彼女を、サボは今すぐ抱きしめたくて、しかし頭の中で自身が大暴れするだけにとどめる。顔を覆って、口元がだらしなく緩むのを必死で隠した。大声で叫びたくて、けれどなんとかのみ込んで耐える。どうにも表現しがたい喜びに打ち震えて、口元だけ隠してそっと彼女を盗み見る。自身の感情に戸惑っているらしく、自分が悪いと思っているみたいだ。
 これまで好きな男がいたのは(自分で言うと自慢のように聞こえるが事実だから仕方ない)サボだけなのだという。死んだ(ことになっていた)人間なので、悲しみを抱くことはあっても嫉妬することはないだろう。つまり、彼女は今初めて経験している感情なのだ。
 フレイヤ。それはお前、嫉妬って言うんだ。おれがほかの女と話してるのが面白くないんだろ? モヤモヤしたり苛々したりするのもその証拠だ。まさかお前が嫉妬してくれるなんてなァ。けど、心配する必要ねェよ。
 と、口に出さずに胸中で想いをぶちまけていたらふいにフレイヤの顔がこっちに向けられた。

「……なんで笑ってるの」
「え?」
「サボの顔、笑ってる」

 落ち込んでいたフレイヤの顔が訝しげにサボを見据える。口元を隠していたつもりだったが、笑っていると指摘されるくらい今の自分は嬉しさがにじみ出ているということだろうか。まあ気づかれたら気づかれたで隠す必要もねェか。

「あー……悪ィ。笑ってるというより嬉しいんだ。お前が嫉妬してくれたってことが」
「し、っと……? って、人を妬む感情だよね。やっぱり私ってひねくれてる――」
「そうじゃなくてさ、好意を持ってる人間の関心が自分以外に向けられると起こる感情のことだよ。おれがほかの女と話してるのを見て面白くなかったってことは、おれの興味がフレイヤじゃなくてそっちに向けられてると思ったんだろ?」

 言われて初めて気づいたような表情をしたフレイヤがゆっくり頷いたので、サボは満足げに笑ってから今度は躊躇わずに彼女を抱きしめた。細くて小さな存在を確かめるように。
 この手にもう一度戻ってきてくれた彼女があまりにも綺麗で、それでいて初々しい可愛らしさを残して二十二歳という大人になっているのを見て、再会できた感動や安堵のほかに焦燥感も抱いたことをサボは覚えている。こんなに可愛くて健気な女を周りが放っておくはずがない。それなのに、彼女はずっと変わらず自分を想い続けてくれていた。だから、そういう彼女に見合うように強くて頼れる男でいようと一人で誓った――
 腕の中の身体がもぞもぞと動いて、ひょっこり顔を出した彼女が見上げてくる。まだわずかに、不安に揺れる瞳。安心させるように瞼へ軽くキスを落とす。目尻、鼻、頬と顔のあちこちに触れてありったけの「好き」を伝える。

「私の感情は、普通?」
「普通だよ。おれなんかお前に近づく野郎は部下だって許せねェくらいガキだからな」
「ふふ、なにそれ」
「その顔、信じてねェだろ。まーいいよ、とにかくおれが好きなのはフレイヤただ一人だ」
「うん、ありがとう。私もサボが大好き」

 フレイヤの顔に笑顔が戻る。彼女もこうして少しずつ新しい感情を知っていくのだろう。その相手はすべて自分であればいいと思う。
 しばらく二人で抱き合ったまま、彼女が来てから華やかになった中庭の植物を見つめていた。

2024/03/20
フレイヤが初めて嫉妬の感情を抱く話
サボくんおたおめ!