呪いの魔法を解く方法

 手伝いに来てくれたフレイヤの様子がおかしいことに気づいたのは、書類を届けてほしいと頼んだときの返事だ。わかったと承諾する言葉の前に「ん」という悩ましい吐息を漏らしたので、ぎょっとしてサボは彼女の顔色をうかがった。目は潤み、頬がやけに赤く、肩で辛そうな呼吸をしている姿は妙に色っぽくて、場違いな考えに至った自分をすぐに戒めた。
 書類を受け取った彼女が行ってくると踵を返すのを呼び止めて席を立ったサボは、ぼうっと首を傾げて不思議そうにする彼女の額に手を当てた。熱い。今朝会ったときは問題ないように見て取れたので、この数時間で体調が悪化したのだろう。どうして黙っていたのかと問いただしたかったが、辛そうな彼女に強く当たるのも悪いのでひとまず現状を確認するにとどめる。

フレイヤ。お前、熱がある」
「うん……でもこのくらい大丈夫だから」

 その発言にサボは思いきり眉をひそめた。素直に認めたと思えば、まさか大丈夫なんて返されるとは思わずフレイヤの手首を掴む。「なに言ってんだ、大丈夫なわけねェだろ。今すぐ部屋に――」「やだ」こちらの言葉を遮って珍しく反抗的な態度をとる彼女にサボは目を丸くさせた。たいていのことには従ってくれるはずの彼女が、頑なに嫌がるのは滅多にないことだった。
 その間もフレイヤから吐き出される息は熱っぽくて、今にも倒れるのではないかと心配になる。そんな状態でどこが「大丈夫」なんだ。サボの表情はますます渋くなっていく。

「熱を出すのは私の日頃の行いが悪いからなの。だから頑張らなきゃ……!」
「あ、おいフレイヤ!」

 制止を無視して机上の書類を乱暴に持っていったフレイヤを見つめたままサボは呆然とその場に立ち尽くした。そこまでして頑張らなきゃいけない理由がまったくわからない。
 そもそも日頃の行いが悪いってどういうことだ?  熱を出すのにそんなもん関係あるか。言いたいことはたくさんあったが、追いかけたところで今の彼女を説得できる言葉を持っていなかったサボは不服ながらしばらく様子を見ることに決めた。


*


「昔、そう言われたことがあるんだって」

 コアラが悲しそうに語る一方、サボは怒りを覚えた。握った右手の拳に力が入る。行き場のない憤怒を、どうにか腹の中だけに抑えてすべてを大きなため息で濁した。数分前に出ていった恋人のどこか寂しさを感じさせる表情を思い出して、知らなかったとはいえ理解してやれなかった悔しさに歯がゆい思いを抱える。
 フレイヤが書類を届けに行った直後、入れ替わるようにコアラが入室してきたので事情を話したらとんでもないことを聞かされた。どうやら幼少期に熱を出したとき、たまたま両親が仕事で外出していなかったためにメイドに看病された経験があるフレイヤは、心無い言葉をかけられたようだ。その一つが「熱を出すのは日頃の行いが悪いから」だという。
 彼女の家のメイドと言えば、サボもよく一緒に怒られたカロリーナという彼女と一番親しい女性だったが、その人がフレイヤに対して暴言を吐くとは思えないのでほかのメイドだろう。自分と同じで家と確執がある彼女が、メイド達からよく思われていないことは容易に想像できる。ほかにも幼い子どもには酷な言葉を言われたとコアラから聞き、だから熱を出したのは日頃の行いが悪いせいであり、それで自分の仕事を疎かにするのは怠惰だと認識しているという。
 冷静になって考えればとても理不尽で滅茶苦茶な論理であり(熱を出すことに関して言えば体調管理も当然自分の責任ではあるものの、慣れない環境で体調崩すことは一般人ならあってもおかしくない)、そもそもフレイヤがそんな昔のことを引きずっているなど驚きを隠せなかった。幼少期の事柄はトラウマになりやすいというが、前の刺繍と同じで払拭できていないのだろう。

「だからフレイヤを責めないであげて」
「わかってる。けど、あのまま作業させたら倒れちまう」
「……どうするの?」
「おれが塗り替えるよ。あいつの辛い記憶」

 口で言うのは簡単だが、フレイヤの心の中に触れるのは容易いことではない。彼女が保護されてからこれまでのことを互いにある程度は打ち明けていても、自分と離れてから家を出るまでの五年間については彼女の口からほぼ語られていなかった。サボだけあの町から逃げた後ろめたさもあって自分から聞く勇気がないとも言える。しかし、そうも言ってられない状況だった。

「悪ィが、このあとの訓練は後に回してくれ。書類仕事はフレイヤの部屋でやる」


*


 あれは、カロリーナが非番で両親も仕事でいなかった日のことだ。
 朝から少し体が怠いと感じていたが、座学だけだから大人しくしていれば大丈夫だろうと思っていた矢先のこと。食欲がないことを伝えて昼食は軽めにしてもらったあと、午後の授業の準備をしに部屋へ戻ろうとしたら、急に足元がふらついてそのまま床に手をついてしまった。近くにいたメイド(最近カートレット家に来た人で、確かフレイヤと同じくらいの娘も見習いとして連れていたと思う)が駆け寄って起こしてくれたものの、熱があるとわかるとフレイヤにも聞こえるくらいの大きなため息をついた。
 それからほかのメイドたちにも伝えられたのか、フレイヤは部屋で大人しく寝てるように言われた(記憶にある限り、これが家で風邪を引いて寝込んだ最後のことだ)。しかし、頭痛と関節痛でなかなか寝つけず息をするのも一苦労といったところで、ここまで体が辛いのは初めてだったフレイヤにとってこのまま死んでしまうのではないかと不安になるほどだった。
 ベッドの中でひたすら時間が過ぎるのを待ち、しばらくして薬と水を持ってきてくれたメイドにありがとうと伝えると、ぴたりと立ち止まった彼女がゆっくり振り返って呟いた。
『日頃の行いが悪いから罰が当たったんですよ。ご両親やエヴァ様への態度を改め、少しはカートレット家にご尽力なさってください』
 高熱で頭がぼうっとしているフレイヤの耳にもその言葉ははっきりと届いた。熱を出したのは日頃の行いが悪いから――そんなことないと自分に言い聞かせようとしたフレイヤも、熱で正常な判断ができなくなっていたので、その言葉を真に受けて心に傷を負った。そのあとも別のメイドが夕食を届けに来てくれたが、慰めの言葉はくれなかった。代わりに「いい気味」「自業自得」といった心無い言葉が飛んできて、途中から耳を塞いで一切の音を入れないようにした。母もその日の夜、一度様子を見に来てくれたが「明日の稽古は別の日にした」という報告だけでフレイヤを心配する言葉はなく、泣きながら必死で熱と闘った。
 以降、フレイヤは風邪を引かないように気をつけて生きてきた。家を出てコルボ山での生活が始まってからも体調管理には気を遣っていたし、セント・ヴィーナス島で体調を崩すことはあったが寝込むほど重い風邪は引いていない。
 だから、こんなふうに体が重くて視界が霞むのは十数年ぶりだった。
 サボに頼まれた書類の届け先まで来て、しかし相手にはやはり体調が悪いと一目でわかるほどらしく心配そうな顔で見られる。

フレイヤさん、顔色悪いですけど本当に大丈夫ですか……? 何なら総長呼びますよ」
「だ、大丈夫です……こちらが終わったら休む、ので」

 精いっぱいの笑顔で答えて、フレイヤは会議室を後にした。これで頼まれていたすべての書類を届け終わった。時間的にもそろそろ休憩していい頃合いなので、少しだけ部屋で休もうと廊下を歩きはじめたときだった。
 足元が覚束なくなり二、三歩ふらついてどうにかたたらを踏んで耐える。転倒だけは回避することができてほっと胸を撫でおろしたのも束の間、背中に鋭い視線を感じてはっとする。

「一人で歩くのもままならねェのに何が大丈夫だ」

 振り返る暇もなく、すぐ後ろに人の温もりを感じてフレイヤの体はその人物によって囲われた。両腕を掴まれて身動きが取れなくなり、諦めて大人しく彼に捕まる。首を少しだけ後ろに向けると、予想通りサボが立っていた。

「もう一度聞く。これのどこが大丈夫なんだ」
「……ッ」咎めるような低音にフレイヤは肩を竦める。
「あー……別に怒ってるわけじゃない。ただおれの知らねェところで倒れられたら困るだけだ。心配で様子を見に来たが正解だったな」
「ごめんなさい」

 自分の声は情けないほどか細かった。さっきは抵抗して「大丈夫だ」と豪語したが、この姿を見られたとなればもう「大丈夫」は通じない。
 段々と立っているのも億劫になってきたフレイヤは、ふと気を抜けば後ろにいるサボのほうに倒れてしまいそうだった。本音を言えば、彼には見つからずにやり過ごしたかったが、ここにいてそれはほぼ不可能に近い。意地を張ってしまったことに今さらながら後悔の念が押し寄せる。サボに隠しても意味ないことなんてわかってたのに。それでも自分の不甲斐なさを晒すほうがフレイヤにとっては屈辱的であり、特に好きな人には見せたくなかった。
 沈んだ気持ちでいると、突然サボの腕が軽々とフレイヤの身体を抱え上げた。こちらが口を開く前に彼の心配そうな双眸に見下ろされて、フレイヤは何も言えなくなり押し黙る形になる。

フレイヤ。熱を出したのはお前のせいじゃない。おれに甘えていいんだ」

 熱で意識が遠のきそうになる中、フレイヤは魔法の言葉を確かに聞いた。ずっと欲しかった言葉をまさかサボからもらえるなんて思ってもみなくて、けれどそれ以上力の入らないフレイヤの言葉は声にならなかった。



 夢を見ていた。四歳のサボが熱を出したフレイヤを心配してこっそり屋敷の外から見舞いに来てくれるという夢。
 あのときのフレイヤは五歳を迎えてすでに彼と離れたあとだったので実際はあり得ないのだが、夢は自分の都合のいいようにできているらしい。高熱で不安であちこち痛くて唯一仲の良いカロリーナもいなくて寂しかったフレイヤに彼が会いに来てくれたのだ。
フレイヤ。大丈夫……じゃねェよな。おれがここにいるから安心して寝ていいぞ。薬は飲んだのか? 辛かったらおれが手伝ってやるよ』
 四歳のサボはこっちの意見を無視してちょっと強引なところもあるけれど優しかった。今と変わらない。いつだってフレイヤを心配してくれる。その事実がひどく嬉しくて泣きたくなった。
 もう少しこの優しい夢に浸っていたかったが、これはきっと現実でサボが同じように心配しているのだとわかって、フレイヤは重たい瞼をどうにか力を振り絞って開けた。ぼやけた視界に黒い影が見えたあと、段々と焦点が合い、彼の顔が映り込んできた。

「……さ……ぼ」

 声がかすれる。さっきよりも体が重くて気だるい。喉がひどく乾燥していて気持ち悪かった。
 予想通り、サボがこちらを不安そうに見下ろしていた。あのあと、部屋まで運んでベッドに寝かせてくれただけでなく額に冷えたタオル、サイドテーブルには水まで用意してくれたようだ。

フレイヤ。欲しいモンあるか?」
「そ、れ――水、のみたい……」

 毛布から右手を出して、テーブルの上の水差しを指さす。体が水分を欲していた。ちょっと待ってろとサボがコップに水を注ぐ一連の動作をぼんやり眺めながら、こうやって労ってもらうことが初めてで戸惑いつつも傍に居てくれる人のありがたさを実感する。彼の優しさを思えば、フレイヤを蔑ろにすることはないとわかっていてもやっぱり嬉しかった。私の好きな人は、とてもやさしい。
 子どもの頃の記憶なんて馬鹿馬鹿しいと思いつつ、けれどあの目を思い出すと怖かった。お前は怠け者だ、だからこんな目に合うんだ。そう言われているみたいで、辛いとか苦しいとか自分の気持ちを吐き出すのが怖かった。
 サボがいっぱいに水を入れたコップを持って戻って来たので、上半身を少し起こして手を伸ばしたとき、

「あ――」

 相当体力が落ちているのか、コップが上手く持てずそのまま落として毛布を濡らしてしまった。「ご、ごめっ……」あまりにも不甲斐なく、サボに迷惑をかけているという事実に今度こそフレイヤの瞳から涙がこぼれる。どうして私は――と卑屈になってしまう。
 しかし、濡らしちまったなァと優しい声音で毛布を取り払ってくれた彼は気にした様子もなくフレイヤの身の回りの世話をする手を止めない。熱で涙腺が緩くなっているせいもあり、涙は頬を伝っていくつも筋を作っていく。

「泣くなよ、怒ってないって言っただろ」
「でも……っ」
「力が出ねェならおれが飲ませてやるから。ほら」
「え?」
「口、開けて」
「あっ、え、」
「早く」

 コップに水を入れ直したサボはそれをなぜか自分の口に含むと、困惑しているフレイヤの顎をすくって口をほぼ強制的に開かせた――直後、彼によって唇を塞がれた。展開についていけずに混乱する中、すぐに冷たい水が流れ込んできたので条件反射で喉が嚥下する。火照った体に染みわたる冷たさが気持ちいい。このときになってようやく「おれが飲ませてやる」の意味を理解したフレイヤは、恥ずかしさで赤かった頬をさらに赤く染めた。まさか口移しで飲ませてくれるとは誰も思わない。
 一度離れたサボの唇は、しかしもう一度水を含んで再び塞いでくる。飲ませてもらっているだけで普段のキスとは違うのに、触れている彼の唇の感触にフレイヤの脳はキスだと勘違いを起こしていた。熱くて溶けてしまいそうな心地よさ。名残惜しく離れた彼の口の端から零れ落ちる水の線がやけに艶めかしくて、しばらくそこに視線が集中する。

「……もう少しいるか?」
「えっ、ううん。もう大丈夫……ありが、とう」
「いいよ。それより新しい毛布をもらってこなきゃいけねェな」

 そう言って立ち上がろうとしたサボの服の袖を、フレイヤは無意識に掴んでいた。「ん?」振り返った彼が子どもをあやすような仕草でフレイヤの頭を撫でていき、「すぐ戻るよ」とやさしく笑う。忙しいのにここまで尽くしてくれる彼にどうしても誠意を示しておきたい。これまであまり触れてこなかった過去の一部分を、フレイヤは正直に打ち明けることにした。

「あのね。昔、熱を出すのは日頃の行いが悪いから自業自得だって言われたことがあって、だから自分のせいなのに仕事を疎かにするのは悪いことだと思ってたの。それで人に迷惑をかけるのはよくないんだって」
「……」
「だからサボにもあんな態度をとってしまって……ごめんなさい」

 言葉にすると、一層申し訳なさが募った。今思えば、部屋で休めと言おうとしたサボを遮って「やだ」なんて返すのは子どもの我儘のような発言だっただろう。自己嫌悪に陥って頭を下げたフレイヤは濡れてしまった毛布に視線を投げた。確かに水を吸収して若干濡れているものの、取り換えるほどではない。部屋が暖かいからすぐに乾くだろうし、ジュースやアルコールといったにおいのつくものではないから問題ないはずだ。
 サボは甘えていいと言ってくれたが、忙しい彼に何でもやってもらうことにはやはり気が引ける。今日の予定だってきっと後回しになってしまっただろうし、フレイヤの心はもう十分ほぐれた。あとは一人で寝ていれば、そのうち熱も引いて動けるようになるはず。

フレイヤ。さっきも言ったけど体調不良は誰にでも起こりうることで、お前のせいじゃない。だから自分を責めるな。お前にはおれがいる。何があっても味方だし、助けになってやるから……一人で抱え込まなくていいんだ」

 気が滅入って落ち込んでいると、サボの明るい声が頭上にかかった。顔を上げるより早く、彼によって肩を抱き寄せられ腕の中に収まる。関節が痛いこちらの体を気遣って、いつもより緩めに抱くその力加減も彼の優しさで、どうしてそこまでしてくれるんだろうという疑問がつい口をついて出た。

「なんだフレイヤ。今さらそれを聞くのか? 好きだからに決まってんだろ。今日はここで書類仕事するし、何も心配しなくていい」
「そばに、いてくれるの……?」
「当たり前だろ? おれにとってはお前も大事なんだ」

 そっと肩を離したあと、サボが眩しいくらいに笑っていた。わかったら病人は早く寝ろとフレイヤの体をベッドにゆっくり寝かしつけてから、「あ、そうだ毛布」忙しなく部屋を出ていこうとしたので、
「大丈夫だよ、ただの水だしすぐ乾くと思うから」
 引き止めてフレイヤも笑顔で答えた。
 最初は眉をひそめたサボだったが、本当に大丈夫だと伝えると渋々納得して避けた毛布をかけ直してくれた。こっちの様子をうかがいつつ、わざわざ持ってきたのだろう書類の束をサイドテーブルに置き、本当にこの場で仕事をはじめてしまった。
 自分の吐息と紙の擦れる音が混ざり合う。目を閉じても、サボがすぐそばにいると思うとフレイヤの心はひどく安心感を覚えて眠気がすぐに襲ってきた。

 ありがとうサボ。呪いにも似たしがらみを解いてくれて。私も大好きだよ。

2024/04/02
フレイヤを看病するサボくん