健気猫

 朝食を終えたサボが執務室に向かっている途中、城内の廊下で珍しいものを見つけて足を止めた。およそこの場にはふさわしくない――というより、いないはずの生き物がまるで異世界にでも来てしまったかのような不安そうな足取りでさまよっている。
 生まれたばかり、というわけではないだろうがやけに小さい猫がとぼとぼ歩いているのをサボは自身の目を疑うようにじっと見つめる。自分の意思ではなく、急に連れてこられたような雰囲気がひしひしと伝わるその猫は、きょろきょろと周囲を見回しひとまず先へ進みたいらしく、廊下の端を歩く。
 あの体じゃこの広い城内を出るのに一苦労だろう。そもそも窓まで登れる脚力も扉をこじ開ける筋力もなさそうだ。外へ逃がしてやりたかったが、会議までに報告書をさばく必要があったサボは猫に近づいてその小さい体をひょいと持ち上げた。
 ――ニャッ……!
 突然宙に浮いたことに驚いたのだろう、子猫が悲鳴をあげてバタバタ足を小刻みに動かした。「危ねェから暴れるな。別にとって食いやしねェよ」子猫に顔を近づけて優しく言うと、今度はピンと張りつめたように硬直する。生後半年ってところか、一般的な猫よりも若干小さい印象だが美人で(正確に言えば人ではないが)愛くるしい顔立ちをしている。印象的なエメラルドの瞳が何かを訴えているような気がしないでもない。
 暴れるなという言葉を理解したのか定かではないが、おとなしくなったのをいいことにサボはそのまま抱えて執務室を目指すことにする。

「どこから来たのか知らねェが、外へ連れ出すのはもう少し後になる。ごめんな」
「ミャウ」

 その返事がまるで「気にしないで」と言っているように聞こえて、思わず笑顔になったサボは急ぎ足で廊下を進んでいく。


*


「えっと、サボさん」
「なんだ」
「その膝の上にいるのは猫、ですよね……?」
「見たらわかるだろ」

 フレッドが唖然として棒立ちするのを流して、作業に戻るよう伝える。何か言いたそうな顔だったが、何も聞くなと目で一蹴すると彼は渋々踵を返して扉のほうに向かった。去り際、振り返ってやっぱり何か言いたそうにしていたのをサボは見て見ぬふりした。
 誰もいなくなった部屋が静まり返る。備えつけのソファで溜まっていた報告書に目を通している間、件の猫はサボの膝の上にいた。最初は部屋に放置して目の届く範囲にいるよう言いつけたのだが、一時間もしないうちにのそのそと猫が自分の座る椅子の下にやってきて寝始めたので、どうしたものかと悩んだ結果、ソファに移動して自分の膝の上に乗っけて作業をはじめた。
 視線を報告書から膝にいる丸まった猫に向ける。居心地がいいのか、安心しきった様子で眠っていた。飼い猫でもなければ、見つけてからまだ二時間も経っていないというのに随分と警戒心の薄い猫だと思う。
 小さい体が丸まっていることでさらに小さく見える。どうも自分の恋人を連想してしまい、守らないといけないような気がしてくるから不思議だ。そういえば、フレイヤは料理人たちと買い出しで外出するんだったか。せっかくなら彼女にも見せてやろうと思ったが、夕方まで帰ってこないのではそれも叶わない。
 つらつらそんなことを考えながら、次の報告書をめくろうとした時だった。

「痛ェ……切っちまった」

 部屋が乾燥でもしているのか、指に一本の筋ができ、そこから血が滲みだす。紙で切るなどめったにないが、どうやら意識が霧散しているらしい。会議まで三十分をきっているし、急がないとコアラにどやされる。

「ぅにゃ」

 体を動かしてしまったせいか、猫が目を覚ましてきょろきょろする。起こして悪いと声をかけると、エメラルドの瞳がじっとこちらを見ていた。その綺麗な瞳に吸い込まれそうな錯覚を起こしたサボは柄にもなく恥ずかしくなって(直前にフレイヤを連想したせい)自分から目をそらした。

「腹減ったよな。メシを持ってきてやりてェけど、このあと会議だからもう少し我慢してくれ」
「ニャン……」

 猫が突然起き上がり不安定な膝の上を歩いてきたかと思うと、

「――!」

 指先にざらざらとした生々しい感覚が走ってぎょっとした。猫が何の躊躇いもなく指を舐めている。丁寧に舌を往復させながらちろちろと拙い動きを見せる。そこは先ほど指を切ってしまったところであり、猫は律儀にそこばかりを舐めていた。小さい体で一生懸命に。

「もしかして怪我を治そうとしてくれてるのか……?」
「ミャオ」
「ハハ、ありがとな。けど人間の血なんか舐めて大丈夫なのか」
「にゃーん」どっちの意味かわからない返事をしたが、そもそも猫なのだからこちらの言葉は通じていないだろう。
「……小せェ体に優しくて美人って、お前ますますフレイヤに似てるなァ」

 と、サボは猫の体を持ち上げて腕に抱く。みゃーという鳴き声が大丈夫かと心配してくれているような気がするのはこちらの願望かもしれない。

「もういいよ、ありがとう。じゃあおれは会議に行っちまうけど、大人しくここで待てるよな?」
「ニャン」
「いい子だ」

 顎の下をくすぐってやると、気持ち良さそうに鳴き声をあげて目を細めた。その様子を可愛いなと思い、一瞬会議室に連れていく考えもよぎったがそんなことしたら気が散るだけだ。
 サボは猫を床に放してからおもむろにソファを立って扉に向かう。名残惜しげに振り返ると、猫が足元にすり寄ってくるのがわかって後ろ髪を引かれる。

「……ッ、連れていけねェんだ。ごめんな」
「くぅ」

 寂しそうに鳴く猫を置き去りにするのは忍びないが仕方ない。サボは心を鬼にして執務室を後にした。


*


 気づいたら猫の姿になっていた。
 そう言うと、頭がおかしくなったのかと心配されるかもしれないが本当に自分が猫になっていたのだ。フレイヤは元の姿に戻った自分を改めて見て、やっぱりついさっきまでの視界より開けていることを実感する。
 あれは厨房で作業していたときのこと。食材の買い出しで外出予定になっていたが、少し手違いがあり三十分待機することになった。待っている間、同じように待つ料理人から一杯のジュースをもらい、それを飲んだあと急に意識が遠のいたことは覚えている。たぶん、だからあのジュースが原因だったのだろう。まさか猫になるとは思わなかったけれど。
 それから食べ物を扱う厨房に動物がいるのはよくないと思い、フレイヤは見つからないようにそっと食堂を出て、ひとまず城内の人目につかないような場所に避難しようと歩いていた。
 耳や尻尾が生えたことはあったが、本物の猫になったのは初めてで視界がとても低いのが不便だ。それに、今のところ誰にも見つかっていないからいいが、猫が入り込んでいたらきっと追い出されるに違いない。言葉が通じないゆえに、自分がフレイヤだと伝えることもできないのだから。
 こうして食堂を抜けてからあちこち彷徨っているうちに、フレイヤはうっかりサボの執務室へ続く道を歩いていることに気づいてハッとした。
 ――ばか。こんなところに来たって気づいてもらえるはずないのに。無意識って怖いな。
 そんなふうに少し途方に暮れていた時だった。まさかサボのほうから見つけてくれるとは。思わず体が固まって動けなくなったが、逆に彼が拾ってくれたことこそ幸運だと思った。
 捨てないで――
 目で訴えてみる。するとフレイヤの祈りが通じたのか、サボの厚意で執務室に連れてってもらい、難を逃れたというわけだ。
 それからはサボの膝の上で大人しくしていたのだけれど……。

「いま思うと、大胆なことしちゃったな……」

 思いだして赤面する。
 サボの指を舐めるなんて、はしたなかったかもしれない。けど、紙で指を切るのって意外と痛いことをフレイヤは知っている。手当てができない分、ああするしかなかったのだ。それに、顎の下を撫でられるのってやっぱり気持ちいいんだな――人間の姿じゃ撫でてもらえるような場所じゃない分、気恥ずかしさもあったけれど。
 しかし、彼が出ていった直後に元に戻るとは都合が良すぎる気がする。結局、誰にも見つかることなくやり過ごせたからよかったものの(実際はサボに見つかったけど、彼は追い出さなかったからセーフ)、誰かに遭遇して冷たく扱われたらたとえその猫がフレイヤだと知らなかったとしてもショックが大きい。
 ようやくひと心地がついたフレイヤが厨房に戻ろうと決意したとき、
『サボ君、入るよ〜』
 コアラの声が聞こえた。
 どうしよう。ここにいる理由を考えていない。なんて説明すれば納得してもらえるだろうか。あたふたしている間に彼女が入ってきて目が合う。案の定、自分の存在に驚いていた。

「あれ、フレイヤじゃない。どうしたの?」
「えっと……差し入れ?」
「ふふ、なんで疑問形なの? まあいいけど、サボ君がどこ行ったか知ってる?」
「あ、サボなら会議だって言ってさっき出てったよ」
「そっか、忘れてた。サボ君はドラゴンさん達と会議があったね。じゃあフレイヤ、サボ君にこれ渡しておいてくれる――って、顔が赤いけど大丈夫なの? 熱があるとかじゃないよね」
「違うちがう! 急いでここに来たからちょっと暑くて……」

 苦しい言い訳だったが、コアラは「ふうん」と一応は納得してくれた(あえて詳細を聞かないでいてくれただけかもしれないが)。
 彼女から手渡されたのは数枚の書類だった。「いいよ」と受け取ったフレイヤは彼女を見送ったあと、結局執務室を出る機会を逃してその場にとどまることになった。
 ひとり残され再び静かになった部屋で、手持ち無沙汰にソファへ座ると襲ってきた眠気に抗えず意識を手放した。


 このあと会議から戻ってきたサボが、ソファで眠っているフレイヤを見て驚いたのは言うまでもない。

2025/02/22
猫の日2025