もうすぐ夜の十時を回る頃、唐突にサボの執務室の扉が開かれた。ノックもなしに開けるとは、自分のことを棚に上げてサボはなってないな、と胸中で悪態をついた。そしてその不届き者の顔を拝んでやろうと視線を向けて、しかし作ったポーカーフェイスはすぐに崩れていく。やってきたのは部下でなければ、同僚でもなかった。頬を上気させて、いささか怒っているような表情の恋人――が立っていた。
いつもなら控えめにノックを二回して入室してくる彼女が、今日に限ってそれを忘れるほど何か言いたいことでもあるのか射抜くようにサボを睨んでいる。何かした覚えはないが――ん? 睨んでいるというよりちょっと泣きそうに見えるのは気のせいだろうか。近寄ってくるにつれて、涙目になっているのがよくわかる。
「ど、どういうことなの? なんで……なんでみんな知ってるのっ……」
「……何の話かわからねェんだがどうした?」
「だ、だからっ……私たちが、その……し、したって……」
恥ずかしそうにぼそぼそと呟いて、最終的に"した"と表現した彼女はいよいよ俯いてしまった。すぐに合点がいったサボは、しかし否定をすることができず頭を掻いた。なぜなら心当たりがありすぎて弁解の余地が一ミリもないからだ。
あいつら余計なことを……。
目を覆って項垂れたサボは何かしら言わないと変に誤解を生んでしまう気がしてひとまず彼女をこちらに手招く。机を挟んだ向こう側にいる彼女は訳が分からないといったふうに首を傾げたが、おずおずとこちらに寄ってきた。
今日はもうほぼ仕事が片付いているし、残りは明日に回しても問題ないものばかり。少しくらい恋人と甘い時間を過ごしてもいいだろう(と、自分に言い訳をする)。
手の届く範囲に彼女が来たところで、サボは持ち前の瞬発力を発揮し彼女の細い手首をつかむとそのまま自分のほうへ引き寄せた。「あっ……」短い悲鳴とともに身を引こうとした彼女の逃げ道をふさいで膝に抱き上げると、今度こそ「ちょっとサボ離してっ」と拒否を示す。しかし、離してと言われて「いいぞ」と素直に応じるわけがない。身じろぎするたびサボの膝に負担がかかることがわかると、捕食者に捕まった被食者のごとく大人しくその場にとどまった。
「悪かったよ、その件に関しては」
「……っ」
「あいつら、おれがずっと恋人を作らなかったからいろいろ心配してくれてたんだ」
「……どういうこと?」
距離が近すぎるのか、視線がちらちらこちらを見たりはずしたりと慌ただしい。つい最近もっとすごいことをしたというのに、彼女の恥ずかしいという感覚は底を知らないらしい。手をどこに置いていいか迷っているみたいだったので、強引に自分の胸へ添えてやると「ひゃ」と可愛い叫びをあげたので思わず吹き出した。自分のせいで彼女が困っているのを見ると、どうも加虐心をくすぐられて言動がつい意地悪になってしまうのは悪い癖だと思うのに、やめられない。
「と一緒で断ってきたからさ。記憶を取り戻したあと、みんなにはお前のこと話してあったしドラゴンさんがお前を見つけたって聞いたときは一緒に喜んでくれたんだ」
「でも、それとあっちのこととは別じゃ……」
「はは、そうだなァ。まあなんていうかあれだよ。おれがと二人で休暇とるって話を知ったから勝手に盛り上がったんだろ」
実際にセント・ヴィーナス島へ発つ前の晩、寄ってたかってサボの執務室まで発破をかけに来たのを思い出して苦笑する。こちらからすればお前らに言われなくたって、という思いだがそれまで気にしてくれていたこともあって咎めることはしなかった。まあ質問攻めで少々面倒くさかったのだが。
はいまいち納得できないのか、口を尖らせたまま唸っている。何を言われたのか知らないが、部下達がにその話を持ちかけるより早くサボは不本意にも彼らから「おめでとう」の言葉をもらっていた。いや、本当あいつらに言われる筋合いは一切ないんだが、なまじ事情を知っているだけにちょっと楽しんでいる節がある。冷やかし――とまではいかないと思うが、まるで自分の息子がやっと大人になったみたいに思われているのが癪だ。ただまあ、彼女と再会して自身の口元が緩みっぱなしなのは否定しない。記憶が戻ってから幾度となく望んだ彼女との未来だ、嬉しくないわけがない。
「祝ってくれただけなら素直にありがとうって言っときゃいいよ。お前が恥ずかしがるほどあいつら調子に乗るぞ」
「だってそういうの、慣れてないから……そもそもサボしか知らないし」
「……」
言われたことを思い出したのか、急に赤面して俯いてしまった。この表情をあいつらの前で晒したのかと思うと許しがたい気もする。が、あまり目くじらを立てると余裕がないと思われるしそれこそあいつらが調子に乗る。ここはサボが大人になるべきだ。
ともかくをからかうのはやめてもらうことにして、もう余計なことは言わないでもらわねェとな。
「おれから言っておくよ、だから顔上げてくれるか」
「……ん」
「あーこの角度結構クるな。膝の上にがいるってのも悪くねェし」
「え、あっ……」
顎をすくって視線を強引に合わせたあと、額をくっつける勢いで距離を縮めた。唇が触れそうで触れない位置というのは逆に興奮する。少しでも動けばその柔らかな皮膚に触れてしまうのだが、あえてそうせず彼女の様子を見つめる。
近いのが耐えられないは目を泳がせたのち、ぎゅっと閉じて身を縮こませた。相変わらず被食者みたいにふるふる震えてサボの邪な欲望を煽ってくる。可愛くて仕方ないと思う。
「よし、おれの部屋に移動するか」
「わっ、ちょっと危ないっ……」
を抱え上げて執務室を出ようとするサボに彼女から抗議の言葉が口をついたが、気にせずそのまま移動する。廊下に出た途端、夜だということを思いだしたのか口を噤んだ彼女が可笑しくて、サボは笑いをこらえるのに必死だった。
夜はまだこれからなのだ。疲れた体を彼女に癒してもらってもいいだろう。彼女を抱える腕に力を込めて、サボは部屋までの道を急いだ。