美味しいワインでもいかがですか

「あーうんまー!」

 狭い(そう言うと店長は怒るけど)店内に、の大きな独り言が盛大に響く。余談だが、やっとのことで支給されたバイト代は、早くも物資調達等により半分以上使用済みである。

 午後10時。すべてのお客を見送った個人経営のしがない定食屋『みさお』は、店長とその女将、そしてバイト2人(一人は勿論で、もう一人は鈴木という男だ)というなんとも少ない人数で成り立っている。本日、シフトの入っていたは夕食である賄いを食している最中だった。

「お前、その色気より食い気みたいな感じやめたほうがいいぞ」

「うるっさいな店長。わたし危うく飢え死にするとこだったんですよ!?」

「知るか。ならもっとシフト増やせ」

「断固拒否します。わたし、こう見えて忙しい身ですから」

「どうせ徹夜ばっかしてんだろ?今日もジャージで来やがって……そんなだから恋人できねぇんだ」

「服装なんてどうでもいいじゃないですか!ちょっと女将さん、なんでこんなデリカシーの欠片もない人と結婚したの!?」

 口を開けばどうでもいいことで喧嘩している二人を、いつものことだと半ば呆れながら眺めている女将は、仏のような笑みを浮かべて何も言わない。

 そうこうしている合間にも時間は過ぎていき、は慌てて店の看板メニューであるサバ定食を口に運ぶ。

 課題が終わったとはいえ、卒論は今から少しずつやっていかないと到底終わる気がしない。文献探しやら実験やら、やることは山積みである。

「それじゃ、わたし早く帰らなきゃいけないので」

「あーちょっと待て。……ほら、これ」

 そう言って手渡されたのは高級そうなワイン。よくわからないが、ラベルにピエモンテと書かれているためイタリア産である。

「ど、どうしたんですかこれ」

「この前もらったんだけど、ウチは酒飲まねえからな、お前にやる。結構いいやつらしいぞ」

「いいんですか?ワインは好きですけど詳しくないし、鈴木くんにあげたほうが……」

「アイツ、しばらく忙しいっつって来られねーから」

「じゃ、じゃあお言葉に甘えていただきます。お疲れっしたー」

「相変わらずそそっかしいな。気ィつけて帰れよ」

 挨拶もそこそこには駅へと急ぐ。

 そう、これがの日常なのだ。大学とバイト、そして課題。たまに飲み会。平凡で平和な日々である。確かに恋人はいないが、友人がいるにはいるから、まあ楽しく生きている。研究は自分の興味分野であるし、バイトもなんだかんだで良い場所だ。

 そんな彼女の日常は、突然やって来た非凡用な容姿端麗の男により、少しずつ変化していた。


*


 自宅にたどり着いたは、腕時計を見やって11時前であることに安堵した。どうせなら、もらったワインを片手に卒論をやろうという魂胆である。つまみになるようなものがあったか、冷蔵庫の中身を思い出そうとするも、ワインに合うようなものはなかった

 せっかくなら友人を呼びたいところだが、生憎あと小1時間で日付が変わる。この時間に呼び出すのは非常識だろう。と思っていた矢先に、見覚えのある茶髪が目に入る。

「あれ、翼さん!?」

 最近(というか5日連続)見かけるこの小さなフォルムは、つい数日前に越してきたばかりの椎名翼である。何を隠そう、彼こそがの日常における非凡の存在である。

 様子を見るに、彼もちょうど帰宅のところらしい。ここで、ふとに名案が浮かぶ。

「またあんた?……今度はなにやらかしたわけ」

「その疫病神みたいな言い方やめてくれません?ていうか、翼さんこそなにしてんの」

「なにって別に飯の帰りだよ。今日は練習が夜だったせいでね、飯の時間も遅いってわけ」

「あちゃーそうですかーじゃあもうお腹いっぱいですよね……」

 海外に住んでいたという翼なら、ワインも頻繁に飲んでいたに違いないとふんだは、先ほどもらったワインを一緒に飲もうと思ったのも束の間、早々にして撃沈である。

「意味わかんないんだけど」

「あのですね、さっきワインをもらったんで、もしよかったら一緒にどうかなーと思って。ほら、昨日のお礼も兼ねて……」

 差し出されたワインをまじまじと見つめる翼。ラベルを確認するや否や、にやりと不敵の笑みをこちらに向けた。

「いいの持ってんじゃん。いいよ、付き合ってやるよ」

「え、まじ?」

「はあ?お前が誘ったんだろ」

「あ、いやそうじゃなくて。……ほんとにいいの?」

「バローロっつったら、イタリアを代表するワインだしね。まさか知らないでもらったわけ?」

 あーやっぱり良質なワインだったのか、と勘が当たりだったので、ちょっと嬉しくなったが、相も変わらず容赦ない翼の言葉にその気持ちが掻き消された。

「すみませんねーそういうの詳しくないもんで」

「まあいいや。つーか、これ飲むならそれに見合うおつまみが必要だと思うんだけど」

「あーそうですよねー」

 確かにそうなのだ。ワイン、それも高級なものを飲むのなら、それに合う料理はつきものである。

 だが残念なことに、の家に料理はおろか材料もない。

「どうせそんなことだろうと思った。……確か、鶏のもも肉あったからそれでも食べる?」

 落胆していたの顔がみるみるうちに明るくなる。さすがというべきか。この際卒論は明日からにしようと心に決めて、は「荷物置いたら行きますね」と、自宅のドアを開けた。

 かくして、と翼の深夜ワイン会が始まったのである。