結局、振り回される運命
研究室のパソコンの前で「はあ」と盛大にため息をついたは、まったく進まない論文に頭を抱えた。先ほどから同じ場所でカーソルが点滅を繰り返す。打っては消し、消しては打つ。しかし、納得のいく文にならない。その理由を、は自覚していた。
昨日、翼と二人で映画をみた後、カフェで楽しく過ごしそのまま別れたは帰って一人悶々と考えていた。なんだかよくわからないが、いつも一人で映画をみていたにとって未知なる世界だった。誰かと共有することの楽しさ、喜び。味わったことのない言葉にするのが難しいほどこみ上げるものがあった。
だから、別れ際に思わずこぼれた一言は決して嘘ではなかった。嘘じゃない……けど。どちらかというと、恥ずかしさのほうが上を行っている。思いだしただけでも頭を掻きむしりたくなる。ああ、私はなんてことを言ってしまったんだろう――
「あれーまだ残ってたの?」
あれこれ考えていたところにドアが開いて、ひょっこりと顔をのぞかせたのは同じ研究室の友人だった。相変わらず派手な服装であるが、それでも彼女に似合っているので何も言うまい。
のすぐそばまでやって来た彼女は、画面を見るなり「全然進んでないじゃん」と苦笑いする。ごもっとも。
「ちょっと、ねー……」
「なあに、その意味深な発言」
「いや別に。というかそのニヤニヤした顔やめてよ」
友人が何やら悪巧みでもしそうな表情でを見つめる。そして見事悩みの種を当ててくるあたり流石だ。
「もしかして例の隣人さん?」
「…………」
「無言は肯定と取るけど」
肩に手をのせて逃がすまいとする彼女にもはや嘘はつけなかった。は観念してぼそぼそと打ち明ける。
出会ってからほんの数日間という短い期間にもかかわらず、なぜだか接点が多いせいで感情が揺さぶられること。あわよくば、もっと一緒にいたいなどという気の迷い。自分はどうかしてしまったのだろうかという不安。
体験したことのない感情に、は瞬時に適応できるほど器用ではない。
「なるほどね〜で、そのイケメン隣人さんともっと親密になりたいわけだ」
『隣人さん』にイケメンという修飾語が付加されているが、とりあえずそこはスルーすることにした。容姿がいいことは否定しない。イケメンかそうでないかと聞かれれば、前者だからだ。
「まあ、まとめるとそういうことになるのかな」
「つまり好きなんでしょ、その人のこと」
「え?」
「違うの?」
それはどうだろう、と自分に問いかける。翼のことをそういう目で見てはいなかったし、単純に一緒にいて楽しい程度の軽い気持ちだった。果たしてそれが恋愛感情に値するのかと聞かれると、すぐには答えられない気がした。
翼のことは初対面のときこそ印象がよくなかったが、話しているうちに面倒見の良い優しい人だということがわかり、趣味が合うこともわかった。だから好きか嫌いかで言えば好きである。しかし彼女が聞いてるのは男として、という意味だ。それに対しては今ははっきりとわからないのが正直なところだった。は素直に口にする。
「わからない。好きかもしれないけど、でも今すぐどうこうなりたいとは思わないかなあ」
その答えに彼女が納得したのかはわからないが、相槌をうってその場は収まった。彼女が研究室を出ていく去り際「進展したらちゃんと報告してね」と残していったのには苦笑いさせられたが。
*
あれから結局、手詰まりになった論文を早々に引き上げたは家までの道のりをゆっくりと歩いていた。
夏が本格的に近づいてきた7月の気温は夕方になっても蒸し暑く、肌のべたきが気になる。これは帰ってすぐシャワーに入ろうと考えながらマンションのエントランスに来たとき、渦中の人と出くわした。
「あれ、そっちは今帰り?」
翼のほかに、いつも一緒にいる友人たちもそろっていた。マンションから出てきたところを見ると、これからどこかへ行くのだろう。
「はい。翼さんたちはご飯ですか?」
「まあね」
翼の後ろで友人の一人(確か黒川と言っていた)が、先に行ってると声をかけて彼らはたちを残して去っていった。
「あ、なんだかすみません。別に長話する気はないので」
「気にしなくていいよ、あいつら早く飲みたいだけだし。ていうか、一緒に来る?ご飯まだでしょ?」
「え、でも皆さんと飲みに行くんじゃ……」
突然の誘いに焦る。先ほど交わした友人との会話も相まって、翼とうまく話せる自信がない。内心慌てるをよそに、翼はまったく気にする様子がない。
「あー大丈夫。あいつら誰とでも仲良くなれるからさ、その辺はうまくやれるよ」
この有無を言わせない感じは、流石というべきか。しかも翼たちがよくても、自分がよくない。しかしながら、どこかで誘ってもらったことを喜んでいる自分もいる。心とはよくわからないもので、嫌だと言っておきながらそれを望んでいることがある。
言葉に詰まるに翼は容赦なく続けた。
「それとも、まさか俺たちとは飲めないっていうわけ?」
「いえ、そういうわけじゃないです」
「ならいいじゃん。それに、昨日はまた一緒に映画に行こうとか言ってなかった?それって俺ともっと仲良くしたいって意味だと思ったんだけど」
「なっ……!」
思わず顔の熱が上昇する。確かに言った。言ったけど……!
「俺も同じこと思ってたのに、そっちは違うってわけか。食う飯がないって嘆いてたやつにご飯あげたり、泣いてるところを慰めてあげたりしたこと、忘れたなんて言わせないよ」
そう言って、わざとらしいくらいの黒い笑みを見せた。ご飯の誘いを断ってるだけのはずがとてもいけないことをしている気分にさせられる。こうなってしまった以上、翼をかわすことは不可能に近い。
諦めたは素直に従うしかなかった。
「わ、わかりました……行かせていただきます」
そうして半ば連行されるように、は翼の後ろをついていく。
なんでいつもこうなるのかな、とため息混じりに呟いたら、聞いていたのか翼が「口で俺に勝とうなんて考えないほうがいいよ」と小悪魔のような憎たらしい笑顔が向けられた。
(翼さん、俺もってことは私と仲良くしたいって――)
(さあね。それよりマサキたちが待ってるから急がないと)
(あーそうやって誤魔化すのズルいですよ!)