大丈夫だから、羽ばたいて

 椎名翼、24歳。プロのサッカー選手になって数年、身である。9年半付き合っている恋人とはいろいろあったけどそれなりに順調で、翼自身そろそろけじめをつける頃だという想いもあった。

 が、今どうしても踏みとどまりたい気持ちが勝っている。その理由は……

「翼、この前話した件だけど結論は出た?」

「ああ、もちろん行くよ」

「なら話は早いわね。……ところで、あなたたちいつ結婚するの?」

「……またその話?いい加減にしてよね」

 この家に来ると必ず結婚話を持ち出されるため、最近の翼は極力ここに来ることを避けていた。業務連絡等で仕方なく来ることはあっても自ら赴くことは決してない。この通り、同じことを言われるだけなのだ。そして、この件については一人だけでなくあらゆる方面でつつかれるから始末が悪い。

 目の前の不敵に笑う女は、名を西園寺玲という。翼とは『はとこ』という関係から長い付き合いで、最近では日本のサッカー選手、特に若い世代を育てている。翼もサッカーに関しては、彼女からいろいろ学んでいた。

 そんな玲は、翼の中学時代所属していたサッカー部の監督も務めていたことがあり、当時マネージャーだった現在翼の恋人のことも知っていた。だからなのか、やけに人の恋路をあれこれ聞いてくる。もしかしたら、翼のいないところで玲たちはいわゆる女子トークを繰り広げていたのかもしれない。

 何にせよ、周りからの「はやく結婚しろ」には辟易していた。言われなくたってわかってるっつの。

「だって、友人が部下の仲人やったって聞いたらね〜私もやりたくて仕方ないのよ」

「そんな理由でやめてくれる?まったくマサキや直樹もうるさいしうんざりする。それにアイツにはまだ……」

「もしかして、まだ伝えてないの?」

「…………」

「ちゃんと言わないと、期限が迫ってるんだから」

 俯いた翼に玲がぴしりと言い放つ。変なところで不器用ねと言われれば、自分でも同じことを思っていたから返す言葉もなかった。
 話すタイミングが遅ければ遅いほど、相手を傷つけることはわかっていた。プロになった時点で、いつかはそういうときが来ることも。それは、翼だけじゃなくてきっと彼女も知っているはずだ。

 でも、だからこそ余計に話すのが躊躇われた。翼にしては珍しく弱気で、なかなか前進できずにいるのである。そしてそれは同時に、結婚話の枷にもなっていた。翼がどうしたらいいのかと考えていたとき、

「あ、いた。二人ともご飯できたよー」

 1階からひょっこり顔をのぞかせた女に声をかけられた。渦中の人物である。

「あら、じゃ冷めないうちに食べないと」

 そう言って早々に部屋を出て階段を下りていった玲を、翼はため息をついて見送る。言えたらどんなに楽かってこともわかってるつもりだが、置いていく彼女のことを考えるとどうも言葉につまるらしい。

「翼も早く行こう……ってなんか疲れてる?」

「あー別になんでもない、大丈夫。サンキュ」

 ならいいけど、翼は変なところで強がるから無理しないでよね。

 普段はとろいくせに、こういうところは鋭いから困る。昔からそうだ。彼女、はチームメイトをよく見ていた。マネージャー気質かなんなのか、妙に勘が働くことがある。そしてその性質は、これまで翼たちを救ってきた。口に出したことはないが、彼女のこういう面を翼は気に入っている。

 移籍の話だって、素直に曝露してしまえば受け入れてもらえるだろう。彼女のことだ、引き止めるなんて野暮なことは万が一もない話である。

 なら、どうして言えないのだろう?


*


 夕食を終えて玲の家を後にした翼とは、街路樹が立ち並ぶ真っ直ぐな道を並んで歩いていた。風のない夏の夜は蒸し暑いから困る。けれども、さきほどから汗が吹き出るのは単に暑いからだけではない気がした。

 二人して無言のままでいると、それに耐えかねたのかが思いもがけないことを口にした。

「ねえ、行くんでしょ?スペイン」

「は……?」

「ごめん、実は聞こえちゃったの。1ヶ月前、翼と玲ちゃんが話してるところ」

 聞くつもりはなかったというは、本当にたまたまその場に居合わせてしまったらしい。翼は動揺を隠しきれず、呆然と彼女を見つめる。

「もちろん、行くんだよね?」

「……うん」

「そうだよね、翼が行かないわけないよね。だって翼が目指す場所は世界だから」

「あのさ、」

「私ってそんな頼りないかなあ?」

 翼の言葉を遮ったがいつにもまして語気を強めた。

「翼が思ってるより私は平気なんだよ。むしろ翼のほうが心配、スペインの可愛い女の子に夢中にならないかって」

「はあ?それ言ったらお前だって水野や藤村、藤代と親しいだろ。鳴海だってそうだ。あいつらお前のこと……っ」

 ああそうか。今ここでやっとわかった。

 怖いんだ。こいつが自分じゃない誰かを選んでしまうかもしれないことが。そんなことあるわけないって思うのに。……なんだ、そんなことが理由なんて情けない。自分らしくない。かっこ悪い。

 そう思ったら、続きの言葉が出てこなかった。だが、が拍子抜けしたように笑った。

「ばっかだなー私が翼以外の男とやっていけると思う?」

「思わないね」

「そこは即答なんだ」

「聞いてきたのはだろ」

「そうだね、うん。つまりなにが言いたいかっていうと大丈夫だから行っておいでってことなんだけど」

 世界で活躍する翼が見たい。なんて言われたら、頑張らないわけにいかない。だって、翼もそれを望んでいる。の強い瞳を見つめれば、本当に大丈夫だって思えるから不思議だ。心配の種はいくつかあるが、それもきっとうまくいくんだろう。

 瞬間、見えない糸で縛られていた感覚から解放された気がした。翼はもう、自由に羽ばたける。

「……じゃあさ、こんなところで言うのもあれだけど、」

「うん」

「椎名になってくれる気ある?」

「……ふはっ、なにそれ。かっこいい」

「真面目に言ってるんだけど」

「ごめんって。もちろんあるよ、私は翼と以外結婚するつもりないし」

 これからも末永くよろしく。と、笑うを翼は抱き寄せて耳元で小さく「サンキュ」と答えた。

(ところで、玲が仲人やりたいってうるさいんだよね)
(えーいいじゃん!やってもらえば)
(……お前それ本気で言ってる?)