そこに青春を置いてきた

「ねえ、『青春とは、心の若さである』って胡散臭いと思わない?」

 オレンジの灯り。コンポから流れるカーペンターズ。本を読みながらいつの間にかうとうとと舟を漕ぎ始めた翼を現実へ引き戻したのは机にかじりついていたはずのの声だった。

 深夜二時。周りは寝静まっている頃であろう時間に、彼女は大学から出された課題のレポートを仕上げなければならないと言って、先ほどから資料とパソコンとに視線を行ったり来たりしていた。はずだったが――ちらりと画面を見やれば、全然進んでなどいないことは明確だった。気持ちいいところで起こされた翼は仕返しとばかりに、「締め切りに追われて頭おかしくなったんじゃない?」と無下な態度をとった。彼女の手にはなぜか課題とは無関係の本が握られていて、その疑問はきっとそこから生まれたのだろうと推測できるが、いま考えるべきことだとは到底思えない。

 提出日は明後日だと言っていたから、本来ならこの時点でほぼほぼ完成させていなければならないはずなのだ。翼はおもむろに立ち上がると、の座るデスクまで近づいた。

「お前わかってる?久々に帰って来た恋人を放っておいて自分はレポートに勤しむってどうなの?そもそも一週間前に帰国するって言ったよね。それまでになんとかしようって思わなかったの?相変わらず未計画に行動してるね。俺だってずっとコッチにいられるわけじゃないんだけど」
「ちょ、ちょっと……夜中にマシンガントークはきつい。傷つく、てか傷ついた」
「知らないね」

 翼は高校卒業と同時にスペインへ渡り、海外選手にもまれながら日々の生活を送っている。そのため、オフシーズンやU-22の代表試合でもない限り帰国はできない。貴重な休みであることはも重々承知のはずだが、超がつくほど真面目な彼女は一度気になり出したことを放っておけない質なのである。

「わかってるって、ごめんね翼。でも私のこういう面倒くさい性格を理解してくれてる上で一緒にいてくれるんでしょう?」

 これだ。は知っている。どちらかと言えば翼が彼女に対して、夢中なのだということを。悔しいが事実であるので、素直に従うしかない。こんな自分の姿をかつての仲間が見たらどんなふうにからかわれるか。特に関西弁のお調子者なんて想像に難くない。

 穏やかに時間が過ぎていく。BGMであるカーペンターズのアルバムからちょうど『青春の輝き』が流れてきて、話題にしろと言わんばかりだ。翼はあきらめて彼女の手から本を取り上げた。

「別に今さら何言っても仕方ないってのはわかってるけど、なんかムカつく。……で?青春がなに」
「ふふ、さすがつばさーそういうとこ好き」
「はいはい」

こうやって調子がいいこと言う。それに乗せられる自分も大概なのだろうが。

「サミュエル・ウルマンさんは、青春は人生のある時期じゃなくて心の持ちようだって言ってるんだけどさ。それってなんだかなあって」
は違うって思うの?」

 彼女がうーんと唸って口元に手をあてる。どうやらはっきりと自分の中で答えが定まっているわけではないが、しっくりきていない。そんなところのようだ。
 一概にこれだ言い切れるものではないだろうに、こんなふうに時間を割いてまで悩まなきゃいけない彼女の生き方はひどく難儀だと思う。

「青春って『終わり』があるものだと思ってるの。いつまでもそこにいられない、だから大切にしようって思えるものなんだって。翼だって中学、高校でやってたサッカーと今やってるサッカーは違うでしょう?ほとんどの人は高校卒業したら競技をやめるし、ましてやそこからプロになる人はほんの一握り。だから、三年生という立場がそういう気持ちにさせるんじゃないかな」

 一息に熱弁をふるう彼女の瞳がどこか愁いを帯びていた。伏せた睫毛がそっと影を落としている。彼女が語る内容は、時折人生を達観しているような気がして年齢がわからなくなることがあるが、まさに今がそれだ。博識というよりはあらゆることに対してうがった見方をするのだと思う。その性格がゆえに、周りと衝突することも少なからずあったことを知っているから、やっぱり彼女は難儀だ。

 しかし、そんな不思議で儚げな彼女だからこそ翼は一緒にいたいと思う。なにより、彼女が話す内容は興味深い。

「つまり、は青春にはタイムリミットがある『期間』って言いたいわけ?」
「まあ、そんな感じかな。この本、とある授業で先生が紹介してたんだけど、気になって私も借りたの」
「相変わらず真面目っていうか知りたがりっていうか、他にやることあるのによくやるよ」
「思い出したんだよ」

 何を?とは聞かなかった。なぜなら、聞かなくても彼女の言いたいことがわかったからだ。そして、自分も同じようにあの頃を大切に想っている一人なのである。

「へえ。それで懐かしくなっちゃったわけだ」
「翼たちと過ごした中学時代はやっぱり特別だったから」

 彼女がふわりと笑った。それからは再び机に向かって今度こそ作業を始めたので、翼も元いたベッドの側面に戻って背中を預けた。

 翼が飛葉中に転校してきた二年生のとき、は直樹やマサキたち以上に刺々しく、近寄りがたい少女だった。